第36話:迫りくる刻限
帝国軍総司令部『黒鉄の城塞』の騎士団長執務室。
夜の闇が訪れ、部屋は机の上に置かれた一つのランプの光だけが、重厚な調度品の数々に深い影を落としていた。
静寂が、重く執務室の空気を支配していた。
ギデオンは、先ほどまで微かな光を放っていた通信石を、苦々しい表情で見つめていた。
手に取ったそれは、まるで命の火が消えたかのように冷たい。
ヘレナからの通信は、最悪の報告の途中で、まるで糸が断ち切れるように一方的に途絶えたのだ。
ギリ、と奥歯を噛みしめる。込み上げる焦燥感を振り払うように、彼はすぐに、腹心の部下であるマリウスを執務室へ呼んだ。
数分後、控えめながらも確かな意思を感じさせるノックが、重厚な扉を叩いた。
「失礼致します」
落ち着いた声とともに、副団長のマリウスが入室する。
「来たか、マリウス」
入室したマリウスは、ギデオンの険しい表情と、部屋に漂うただならぬ緊張感を肌で感じ、緊急事態であることを即座に察した。
普段は冷静沈着な上官が見せる、激情の欠片。それは、尋常ならざる事態の発生を何よりも雄弁に物語っていた。
「団長、一体何事でございましょうか?」
マリウスは静かに扉を閉め、ギデオンの机へと歩み寄る。
「ダデウス男爵のところに潜入させていたヘレナから、たった今、連絡があった」
「それは、一体どのような…」
マリウスが息を呑むのが、ランプの光に照らされた空気の揺らめきでわかった。
「…やはり、奴らのダンジョン踏破の報告は、全て虚偽だった」
ギデオンの声は、抑えられた怒りによって、まるで地を這うように低く響いた。
「あろうことか、奴らは魔核の乱獲と横流しのために、ダンジョンを意図的に踏破せず、放置し続けているようだ」
「…やはり、そうでしたか」
マリウスは、悔しそうに奥歯を噛み締めた。これまでの調査で抱いていた疑念が、最悪の形で裏付けられたのだ。騎士団としての誇りを踏みにじられたかのような屈辱感が、腹の底から湧き上がってくる。
「ヘレナから受けた報告から予測するに、該当のダンジョンは魔素が臨界点に達し、近々ランクアップする可能性が極めて高い…。直近で観測されているスタンピードの予兆からしても、これは不味い事態になりかねん…」
「…早急に、手を打たなければ…」
ギデオンは一度目を閉じ、思考を巡らせる。
「ネクサスから来た、客人たちは今どうしている?」
「ゼロスたちなら、先日、ダデウス男爵領に潜入させました。報告があったBランクダンジョンが、実際に踏破されているかどうかの、実地調査を依頼してあります」
「…そうか。幸か不幸か、彼らは既に、渦中の中心で動いてくれている、というわけか…」
それは一条の光ではあったが、同時に彼らを更なる危険に晒すことにもなる。ギデオンの表情に、新たな苦悩の色が浮かんだ。
しばしの沈黙の後、マリウスは、最も聞きたくなかった質問を、意を決して口にした。
「ヘレナは?彼女は今、どうしているのですか?」
その問いに、ギデオンは一度言葉を切り、苦渋に満ちた表情で目を伏せた。
「…ダデウスに、こちらの企みが露見したようだ…。通信が途絶える直前、彼女は『潜伏する』とだけ…。今は、グリムピークの下層区に身を隠しているはずだ」
その一瞬の沈黙が、ヘレナの置かれた状況の過酷さを物語っていた。
「…俺も、ただちにダデウス男爵領へ向かいます」
マリウスは、即座に決断した。彼の双眸に、迷いの色はなかった。仲間を、そして帝国の秩序を脅かす者への静かな怒りが、彼を突き動かしていた。
「わかった。何かあれば、すぐに連絡を。…私は、コルヴィヌス公爵を問い詰めるとしよう」
全ての元凶であろう、黒幕の名を口にするギデオンの瞳に、冷たい光が宿る。
「承知致しました」
マリウスは深く一礼すると、踵を返し、執務室から足早に出ていった。
一人残されたギデオンは、遠ざかっていく部下の足音を聞きながら、再び机の上の通信石に目を落とした。
ランプの炎が揺らめき、壁に映るギデオンの影を大きく揺らす。その影は、まるで帝国の未来に垂れ込める暗雲のようにも見えた。
「…ヘレナ…どうか、無事でいてくれ」
老騎士は、今は届かぬ声で、部下の無事を、ただ静かに祈るのだった。
一方その頃、ゼロスたちは、Bランクダンジョンの下層に足を踏み入れていた。
そこは、天井から巨大な石柱が垂れ下がる鍾乳洞になっており、中央には静謐な地底湖が広がっている。壁一面に自生したヒカリゴケが淡い青白い光を放ち、澄んだ水面にその光を反射させ、洞窟全体を幻想的な光で満たしていた。
「中層は水路で、下層は洞窟か…」
ゼロスは戦斧を担ぎ直し、周囲を鋭く観察しながら呟いた。
「はえぇぇ、綺麗だねぇ」
ルナは子供のようにはしゃぎ、きらきらと光る湖面に駆け寄りそうになる。
「…ほんと、ここがダンジョンじゃなかったら、いい観光地になっただろうに」
レオは感嘆のため息をつきながらも、その美しい光景の裏に潜む危険性を忘れてはいなかった。
アリシアは周囲の魔素の流れに意識を集中させ、緊張した面持ちで言った。
「ボスモンスターは、まだ出現してなさそうですね…」
「高ランクダンジョンはボス部屋があるタイプか…徘徊してるタイプか…だからな…」
ゼロスの冷静な指摘に、ルナとレオの表情からも無邪気さが消える。
「つまり、もう出現していると…」
アリシアが息を呑む。
「そういうことだ…気を抜かずに進もう」
ゼロスを先頭に、レオがルナを庇い、アリシアが最後衛から全体を見守る。4人は改めて覚悟を決め、緊張感を漂わせながら、幻想的で、しかし死の気配が満ちる洞窟の奥へと、慎重に進んでいった。
ヒカリゴケの青白い光が揺らめく中、4人が進んだ先に、それはいた。
今までただの岩塊にしか見えなかった影が、ぬらりと動き、巨大なトカゲのような姿を現す。
全長は2メートルほど。ワニのように低く構えた、ずんぐりとした四足歩行の爬虫類。動きは鈍重そうに見えるが、その巨体と、鍾乳石のように不揃いな水晶で覆われた甲羅は、まるで「歩く岩塊」のような圧倒的な存在感を放っていた。
「…クリスタルシェル・リザードか…Bランクで見たことはねぇな」
ゼロスの表情が険しくなる。
「…ゼロスが見たことないってことは、その上の?」
レオの声に緊張が走る。
「だろうな。Aランクはグレイ達と踏破したダンジョンは1個しかねぇからな…」
ゼロスは話しながら、自身のスキル『筋力強化(微)』の出力を静かに2段階あげた。彼の纏う空気が、ピリピリと張り詰めていく。
「レオ、お前は後衛の護衛に当たれ。あんなのに襲われたら、戦士ジョブじゃないアリシアさんとルナじゃ一撃だからな」
「…それは僕もキミも同じだろ」
レオの冷静なツッコミに、ゼロスは獰猛な戦士の顔で、不敵に笑った。
「…ちげぇねぇ」
次の瞬間、ゼロスは石畳を砕かんばかりに踏み込み、その場から掻き消えた。彼がいた地点から、爆ぜるような風圧が遅れて仲間たちの髪を揺らす。
クリスタルシェル・リザードの黒曜石のような瞳が、突如眼前に現れたゼロスの姿を捉えた。
「一体目っ!!」
裂帛の気合と共に、ゼロスの戦斧が唸りをあげてリザードの巨体を横殴りに叩きつけた。肉を打つ音ではなく、岩を砕くような甲高い衝撃音が洞窟に響き渡る。
吹き飛んだリザードの胴体には、生々しい大きな裂傷が刻まれていた。しかし、傷口から体液を撒き散らしながらも、その瞳は痛みではなく、純粋な殺意に爛々と輝いた。
「…タフだな、こいつ」
ゼロスが忌々しげに呟く。
その時、後方でアリシアの悲鳴が上がった。
「ゼロスさんっ!」
「危ないっ!」
レオが叫ぶ。それまでただの岩にしか見えなかった別の影が動き出し、アリシアの頭を一噛みで砕こうと襲い掛かっていたのだ。
レオは瞬時にその間に割って入り、錬成した大楯で噛みつきを受け止めた。牙と盾がぶつかり、火花が散る。
「ぐっ!?」
予想を遥かに超えた膂力に、レオの足が石畳を削って一歩後退する。
しかし、彼は即座に大楯から無数の銀色の針を出現させ、リザードの頭部を内側から貫いた。
リザードは苦悶の声を上げ、素早く距離を取る。頭に無数の穴が開き、夥しい出血があるにも関わらず、その戦意はまるで削がれていない。
「…こいつ、ほんとに生物なのか…!?」
レオが愕然とする。再び襲い掛かろうとするリザード。
その瞬間、いつの間にか詠唱を終えていたルナの魔術が炸裂した。
『火の追跡者、放て!!』
ルナの背後に展開された無数の魔法陣から、ゼロスとレオが対峙していた2体のリザード目掛けて、炎の矢が蛇のように襲い掛かった。
甲羅が赤熱し、肉の焼ける嫌な匂いが立ち込める。断末魔を上げてその場でもがくリザードたちの頭を、ゼロスが戦斧で叩き割り、レオが大槍で心臓を貫いた。
3人の完璧な連携により、2体を仕留めたが、パーティには安堵よりも緊張が走っていた。
「…中層と次元が違う…」
レオが荒い息をつきながら呟く。
「トロールたちはこんなに連撃いらなかったのにね…」
ルナも不安そうに唇を噛んだ。そんな中、ゼロスは手早く魔核を抜き取っていた。
その魔核は、これまでのものとは比較にならない、爛々と禍々しい魔素の輝きを放っている。
「…上層から異様だと思ってたが、既にここはAランクに匹敵するのかもな…」
ゼロスはそう言いながら、アリシアたちに近づいた。
「…場合によっては、退却っていう手段もあるね…」
レオの提案に、ゼロスが頷きかけた、その時だった。
「ゼロスさん…」
アリシアが、青ざめた顔で前方を指差した。
その先には、クリスタルシェル・リザードが既に3体、こちらへ向かってきていた。
「…ほんとに次から次へと…」
ゼロスは悪態をつき、迎撃のために前に出ようとする。だが、レオがその肩を手で制した。
「…ルナ、もう一撃行ける?」
レオが冷静に戦況を判断し、ルナに声をかける。
「…おい、いくらルナでもフル詠唱の連発なんか、流石に身体に負担が…」
ゼロスの気遣いを遮り、ルナはこくりと頷くと、再び詠唱を始めた。
「なら、俺が時間を稼ぐ」
そう言って前に出ようするゼロスだったが、レオはそれを許さない。
「焦っちゃダメだよ、ゼロス」
彼は大楯を網状に変化させ、銀色の光の糸で編まれた半透明のドームで4人を囲った。
「おい!レオ!」
「いくらキミでも、一気に3体相手したら何が起きるかわからないだろ。だから、キミはここで」
レオの意図を、ゼロスは即座に理解した。
「…薙ぎ払う準備をしろってことだな…」
ゼロスは筋力強化(微)の出力を更に1段階上げ、渾身の一撃を放つために姿勢を低く、戦斧を後方に構えた。
その直後、レオの網状の大楯に凄まじい衝撃と轟音が鳴り響く。
リザードたちの猛攻に盾が軋み、レオの額に汗が浮かんだ。彼はヒビが入るたびに、必死に錬金術で修復していく。
「…結構、魔素もってかれるな…」
「…お任せを…」
アリシアはレオを補助すべく、即座に盾の魔術の起動準備に入った。
その時だった。ルナの詠唱が完了する。
『逃れる術なし、雷光の連鎖!』
彼女がそう言い放つと、蛇のような電撃が3体のリザードに襲い掛かり、その動きを縛り上げた。
甲高い悲鳴と、甲羅が焦げる音。
「今だよ、ゼロス!」
レオが叫び、網状の盾を解除した。
ゼロスは溜めに溜めた戦斧を、渾身の力で前方円形に薙ぎ払った。彼の全身の筋肉が軋みを上げ、戦斧が空間そのものを抉るような轟音を立てる。
「うらぁぁぁ!!!」
衝撃波が洞窟を揺るがし、胴薙ぎにされた3体のリザードが、為す術もなく真っ二つになった。
「おしっ!」
ゼロスが勝利を確信した、その瞬間だった。
「…うっ!」
ルナがふらつき、その場に倒れ込んだ。
「大丈夫か、ルナ!?」
ゼロスが慌てて駆け寄る。
「…はぁ…平気平気…ちょっと眩暈起こしただけだから…」
魔術の連続使用によるバックファイアが、彼女の身体を苛んでいた。その顔は青白い。
「…すぐに治療を」
アリシアが即座に駆け寄り、彼女の体にヒーリングをかける。その手から放たれる優しい光がルナを包み込み、みるみるうちに顔色がよくなっていく。
やがてルナはゆっくりと立ち上がると、安堵のため息をついた。
「ふぅ…すっきりした…ありがとうね、アリシアさん」
「いえ、これくらいお礼を言われるほどではありませんよ」
アリシアは、仲間を救えたことに、心からの優しい笑みを浮かべるのだった。
ゼロスは、まだ心配そうにルナの顔を覗き込んだ。
「ルナ、魔素切れは大丈夫か?」
その問いに、ルナはケロリとした顔で腕を回しながら答えた。
「ん?今の体力持ってかれただけだから、別に魔素量にはまだまだ余力あるよ」
そのあまりに平然とした答えに、ゼロスは信じられないものを見るような目で彼女を見つめた。
「まだまだ余裕あるって、あと何発くらい撃てるんだよ…」
「んー…」とルナは少しだけ考えるそぶりを見せ、こともなげに続けた。
「3節魔術なら、あと8発は撃てるかなぁ…」
「…マジかよ…」
ゼロスは絶句した。Aランクパーティのエース魔術師であったシーナですら、全力のフル詠唱は五発が限界だったはずだ。目の前の少女は、その常識を軽々と覆していた。
「…前のパーティのシーナってAランク術師でも5発が限界だってのに…」
その反応に、ルナは得意げにふふんと胸を張る。
「ふっふっふ…あたし天才だかねっ!」
レオは、その様子をやれやれといった表情で見ていた。
「キミがいうと、笑えないよ…」
その言葉は、呆れと、そして幼馴染の規格外の才能に対する確かな信頼が入り混じっていた。
それから、4人は再び警戒態世を取り、リザードの死骸が転がる洞窟の奥へと慎重に進んでいった。ヒカリゴケの青白い光が、倒されたリザードたちの水晶の甲羅に不気味に反射している。彼らは道中、何度か立ち止まっては魔素ポーションで消耗した魔力を補給し、現れる敵を的確な連携で屠りながら、さらに十体を超えるクリスタルシェル・リザードを倒していった。
一行が次の角を曲がろうとした、まさにその時だった。
背後から、不意に鋭い声が投げかけられた。
「やっと追いついたぞ!!」
振り返ったゼロスたちの目に映ったのは、息を切らしながらも、その瞳に揺るぎない意志を宿して立つ一人の男だった。彼の鎧は傷つき、その顔には疲労の色が濃い。
帝国ギルド『アイギス』のリーダー、レックスだった。
(第36話/了)




