第30話:煤煙の街、グリムピーク
ネクサスを出発して数日後、ゼロスたちが乗る早馬の馬車は、「竜の牙」と呼ばれる険しい山脈地帯の麓にある、タデウス男爵領の鉱山都市「グリムピーク」に到着した。
馬車を降りた四人をまず迎えたのは、街の名を体現するかのような、冷たく湿った「銀色の霧」だった。それは、常に鉱山から立ち上る煤煙と、谷間に澱む霧が混じり合ったもので、太陽の光を鈍く遮り、街全体を絶え間ない薄暮に沈めていた。
「…なんだか息苦しいですね…」
アリシアが、そっと口元を袖で覆う。空気は鉄錆と石炭の匂いがした。
街に響くのは、人々の活気ある声ではない。絶え間なく続く、鉱石を削る無機質な機械音。そして、それを監督するかのように、時折響き渡る兵士たちの鋭い号令。住民と思しき人々の顔に表情はなく、その目は過酷な労働による疲労と、支配者への諦めに似た恐怖を宿して、ただ俯きがちに地面を見つめている。
一行が目指す中層区へ向かう道すがら、この街の異様な構造が明らかになっていった。グリムピークは、巨大な谷に築かれた階層都市だった。
彼らが今いるのは、谷底に位置する**【下層区】:『煤底』**。最も煤煙が濃く、昼間だというのに夜のように薄暗い。粗末な木造のバラックが密集し、人々は配給されるわずかな食料で、ただ生き永らえているかのように見えた。
「ひどい…」
アリシアが、か細い声で呟く。ゼロスもまた、その光景に眉をひそめていた。
やがて坂を上り、**【中層区】:『鉄床』**へと至る。ここは街の商業と行政の中心であり、下層区よりは幾分か活気があった。しかし、それは常にアイギスの兵士たちの厳しい監視の目に晒された、緊張をはらんだ活気だった。すれ違う商人や一般市民の足取りも、どこかせわしない。
そして、遥か頭上を見上げると、霧の切れ間から崖の上に築かれた**【上層区】:『鷲ノ巣』が見えた。下界の煤煙が届かないその場所には、美しい装飾が施された貴族たちの屋敷が立ち並んでいる。その中心に聳え立つのは、黒い鉱石でできたタデウス男爵の居城、『黒曜の尖塔』**。その威圧的な姿は、まるで天から領地と領民を見下ろし、支配しているかのようだった。
「…同じ街なのに、まるで別の世界だな」
ゼロスは、忌々しげに『鷲ノ巣』を睨みつけた。
「…まずは、宿を探しましょう。アイギスのギルド支部も、この区画にあるはずです」
レオの冷静な声に、一行は頷き、緊張感が漂う『鉄床』の石畳を、改めて踏みしめるのだった。
中層区の一角に、辛うじて「宿屋」と読める看板を掲げた建物を見つけ、ゼロスたちは中に入った。
「…客人か…珍しいな。何泊だ?」
カウンターの奥から、石炭で汚れた顔をした宿主が、不愛想に尋ねてきた。
「とりあえず、七泊で四人だ。男女別々の部屋がいい」
「一人、銀貨十枚で朝食付きだ」
「よし、それで問題ない」
ゼロスは懐から銀貨四十枚を取り出し、カウンターに置いた。
「まいど。二階の角部屋を二つ、使ってくれ。一部屋にベッドが二つついてる」
「レオ~?一緒の部屋で寝ようよ~」
ルナが面白そうにレオの腕に絡みついた。
「なっ!?変なこと言うなよ!!男女別々って言われただろう!?」
「…ぷっぷー、本気になって可愛いやつめ」
さぞ面白がっているルナ。
「こ…こいつ…!」
からかわれたことに、レオは顔を真っ赤にして怒っている。
宿主は、そんな一行に訝しげな視線を向けた。
「お前ら、仲が良さそうだが、何の用でこんな煤けた街に来たんだ?」
「あー…ダンジョン制覇の仕事を探しにな。流浪の冒険者なんだ、俺たちは」
ゼロスは、あらかじめ用意していたであろう、飄々とした笑みで答えた。
「…なら、ちょうどよかったな。騎士団も帝都ギルドも、最近は腕の立つ協力者を探してるって話だ…しかし、お前ら、一体どこから来た…?」
ゼロスは一瞬、回答に困った。
(俺はネクサス付近にしか住んだことがないから、別の国のことなんか、名前くらいしか知らんぞ…)
彼の表情が僅かに固まったのを、アリシアは見逃さなかった。彼女は、すっと一歩前に出ると、穏やかな、しかし凛とした声で答えた。
「私達は、神聖法皇国ルーメンから参りました」
「あぁ、あんたらは、あっちから来たのか…確かにお堅そうな国だから、流浪の冒険者に仕事を分けてくれるような場所ではなさそうだな」
宿主の疑いの色が、少しだけ和らぐ。
アリシアは、淀みなく続けた。
「ええ、歴史と伝統ある国でございますから。お抱えの聖女や聖騎士の方々にかかれば、流れの冒険者を頼るまでもなく、自国の脅威は自国だけで対処できる国でございますので…私達のような者には、観光程度にしか…用のない国ですよ」
「なるほどな…まぁ、こんな何もない街だが、ゆっくりしていってくれ」
宿主はそう言うと、再び自分の仕事に戻っていった。
二階の薄暗い廊下で、ゼロスはアリシアに小声で尋ねた。
「よく、咄嗟にルーメンの名前が出てきたな」
「…以前、少しだけお世話になっていた国でございますので…」
(そっか…アリシアさんもヒーラーだもんな。一度は関わる国ではあるのか…)
ゼロスは、彼女の過去に思いを馳せ、その肩に優しく手を置いた。
「嫌なこと、思い出さなかったか?」
アリシアは、その温かい手に、ふわりと微笑んだ。
「今の私には、隣にゼロスさんがおりますので。昔のことなど、もう気にすることはございませんよ」
「…そうか…」
ゼロスは、少しだけ安堵し、そう短く答えるのだった。
ゼロスたちは借りた部屋に荷物を置き、再び宿屋のエントランスに集まった。
「お出かけかい?二十一時までは宿屋の鍵をあけておくから、締め出されないように注意してくれ」
「了解!それまでには帰ってくるよ。とりあえず、今日は街の散策と、夕飯を食ってくるだけだからな」
そう言い、四人は宿屋から出ていった。
中層区の中心に位置する、中央広場『天秤広場』に出た四人。
アリシアは、広場の真ん中に立つ大きな案内看板を指差した。
「きっと、あそこにギルドの位置も書いてあるはずです」
そう言って、彼女が先導しようとした、その時だった。
突然、広場の端から、怒声と悲鳴が聞こえてきた。
「や、やめてくれっ!!」
「貴様は、ここでの鉱石販売認可を取っておらん!」
「そ、そんなはずは…」
その声を聴いたゼロスは、眉をひそめた。
「…なんだなんだ。行ってみようぜ」
「ちょっと…危ないって…」
ルナが制止するが、ゼロスは不敵に笑う。
「大丈夫、大丈夫」
ゼロスは一人で、騒ぎの中心となっている炭鉱夫とアイギスの兵士に近づいていった。
「すいませーん。旅の者なんですが、そこの方の鉱石を少し見せていただきたくて。何かお取込み中ですか?」
「なんだ貴様は…この炭鉱夫は、許可証を持っておらん。よって、こいつの鉱石は、規則通り全てこちらで回収するところだ」
兵士は、ゼロスを威圧するように言った。
「そ、そんなはずはありません!ほら!こちらに…!」
炭鉱夫は焦って、懐から羊皮紙で出来た認可証を取り出した。
兵士は、その許可証を受け取って一瞥すると、鼻で笑った。
「…ふっ、馬鹿め。これは、にせも…」
兵士がそう言いかけた瞬間だった。ゼロスの腕が、常人には見えないほどの速度で動き、その手刀が兵士の首筋に深々と叩き込まれた。
声も無く崩れ落ちる兵士の身体を、ゼロスはさりげなく支えると、わざとらしく大声で叫んだ。
「わーっ!大変だ!!この兵士さん、急に意識が!!誰か!誰か来てくれ!」
その声に、広場が一気に騒がしくなる。
「あ、あんた…」
何が起きたのか全く理解できていない炭鉱夫に、ゼロスは小声で言った。
「早く、行きな」
炭鉱夫は、はっと我に返ると、素早く荷物を纏めてゼロスに深く頭を下げ、人混みの中へと消えていった。
すぐに、別の兵士たちが駆け寄ってきた。
「おい!何があった!!」
「わかりません!俺が鉱石を見てたら、急にこの人が倒れて!!」
「…わかった。そいつはこちらで預かろう。お前は、とっとと去れ」
「はい!わかりました!あとは、お任せ致します!」
ゼロスは倒れた兵士を別の兵士に引き渡すと、深々と頭を下げてその場を去り、アリシアたちの元へ戻った。
アリシアたちが待つ路地裏へと戻ってきたゼロスは、何事もなかったかのようににこやかに言った。
「…で、ギルドの位置はわかった?」
「わかりましたが…。今は、ここを離れましょう。これ以上目立つ意味もございません」
「そうだな」
アリシアの言葉に、ゼロスは頷いた。
四人が広場から離れていく道すがら、レオがゼロスに問いかけた。
「…わざわざ、あんな事をしなくても…」
ゼロスは横目でレオを見やると、ニッと悪戯っぽく笑った。
「…ほっとけねぇじゃん。ああいうの」
レオも、その言葉に釣られて笑みをこぼした。
「ホント…ゼロスらしいよ」
中層区にある『酒場』。
ギルドの位置を確認したゼロスたちは、早めの夕食を取るため、近くにあったその店を訪れていた。そこは、日中の過酷な労働を終えた炭鉱夫たちが、一日のわずかな休息を求める、薄暗い憩いの場だった。
給仕に席を案内され、四人は奥のテーブル席に着く。
「何にする?」
「酒だ、酒だ!」
ルナが嬉しそうに叫ぶ。
「はいはい。じゃぁ、エール四個と…食べ物は?」
「何か、腹にたまるものを適当に頼むよ」
「あいよ。すぐに持ってくる」
給仕はそう言うと、気だるげに厨房へと消えていった。
レオは、店内の沈んだ空気に、つまらなそうな顔で息をついた。
「…なんか、陰気な街だね…」
「…そうですね。働いている方々の目にも、光がございません」
アリシアも、同調するように悲しげに呟く。しかし、ルナとゼロスは全く別のものに注目していた。
「…輝く汗!引き締まった筋肉っ!」
「そして酒!」
アリシアは、そんな二人を氷のような笑顔で見た。
「おふざけでございますか?」
「「申し訳ありません…」」
ルナとゼロスは、即座に姿勢を正した。
レオは、その様子に苦笑を漏らす。
「…ほんと、兄妹みたいだなぁ…」
「い、いやいや!こんなのが兄貴だったら、アタシ、絶対嫌!」
ルナは慌てて否定する。
「…えぇ…おにいちゃん、悲しいぃぃぃ」
「…えぇ…んなこと言われても…」
「でも、おにいちゃんも、こんなちんちくりんな妹よりは、ナイスバディな妹のほうがいいかもです」
「てっめぇ、ゼロス!」
「ゼロスさん…」
アリシアの冷笑が、ゼロスの背中に突き刺さる。
「…ゼロスさんは、女性を身体でご判断なさるのでしょうか?」
「めめめめ、滅相もございません!」
「ゼロスも、ほんとアリシアさんには頭が上がらないよねぇ」
レオが笑う。
「…うるせーよ」
「やっだぁ、照れちゃって、まぁ」
「照れてねぇぇぇぇえええ!」
アリシアは、その混沌としたやり取りに、今日一番の楽しそうな笑みを浮かべていた。
ゼロスたちが、エールと食事を堪能していると、一人の炭鉱夫が、おずおずと彼らのテーブルに近づいてきた。
「…あんた、あの時の…」
それは、先ほど広場で助けた男だった。
「よっ!無事で何よりだな」
ゼロスが軽く手を上げると、炭鉱夫は深く、深く頭を下げた。
「…あの時は、本当に助かった…」
「気にすんな、気にすんな」
ゼロスは笑い飛ばす。炭鉱夫は、そんな彼の顔を、真剣な眼差しで見つめて言った。
「…会って間もないが、あんたのことは信用できる…。俺たちのリーダーに、会っちゃくれないか?」
ゼロスは、きょとんとした顔で答えた。
「…いいけど?」
その頃、タデウス男爵の居城『黒曜の尖塔』門前
深いフードを被った一人の女が、屈強な門番と話していた。
「…タデウス閣下に、面会を申し出たい…」
「…なんだ、あんたは…残念だが、閣下は暇ではない。きちんとしたアポイントメントがなければ、お会いすることはできんぞ」
「…これでもか…」
女は、胸元から一つの印章を取り出した。
「…それは…帝国騎士団の幹部しか持っていないと言われる…!?」
門番の顔色が変わる。
「…どうなんだ?」
「し、失礼致しました。ただちに、ご案内致します」
門がゆっくりと開かれ、女は安堵したような息を漏らした。
「よろしく頼む」
女はフードを外し、居城の入り口へと向かう。月光に照らされたその素顔は――
帝国騎士団長付きの執務官、『ヘレナ』だった。
(第30話/了)




