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しかし先行きが不安なまま始まったにしては、ジャックの育成は、意外なほどに上手くいったものだった。
何事もやってみれば案外何とかなるようである。
やる気のあるなし以前に、ジャックは必ず命令に服従したということもあるのだろう。
元々『飼育場』でそういう風に育てられて、刻印の存在まである。だからジャックは、食事、運動、睡眠。そのどれもをアリアが指示した通りに行なってくれたし、人目を盗んでサボろうとしたこともなかった。
もちろん、だからといって大変なことが一つも無かった、とは言えないけれど。
ジャックが頑張ってくれていたことは間違いない。
だけど、最初は特にままならないことが多くあったのだ。
まず、ジャックはこれまでお腹いっぱいに食べたという経験が本当になかった。そしてアリアも本当に想像力が足りなかった。
満腹という感覚も知らない子供が「お腹いっぱいになるまで食べなさい」と言われると、何が起こるか。答えは至極単純で、周りの大人を見て食事の量を真似をして、無理をして詰め込んで吐くのである。
青い顔のジャックがいきなり嘔吐した時の焦りと言ったら、多分アリアは一生忘れない。
病気か何かかと焦って主治医を呼んで、「食べ過ぎです」と気まずげに言われた時のやっちまった感は凄まじいものだった。この子本当に食べないと思ったら、今度はアリアのせいで吐くまで食べて、このままでは摂食障害一直線である。この世界にはその概念は未だないけれど、元々SNSの発達した世界に生きていたアリアには、嫌な未来が百は見えた気がした。
アリアは頭を抱えながらジャックに謝り倒し、それから「とりあえず、ちょうど良い量を見つけましょう……」ときゅっとくしゃくしゃにした顔で言った。
その日はミルク粥で胃に優しいメニューを出して、それからは出来るだけアリアがジャックの食事には付き添うようになった。アリアと同じか、それより少ないくらいの食事を食べさせれば何とかちょうど良いくらいだと分かったからである。
ジャックは男の子だし、アリアよりも二つも年上だったけれど、今まで大した量を食べたことがない分最初はそれくらいが良かったのだ。
こういうトラブルは他のことでも絶えなくて、ジャックは良くも悪くも純粋だった。
王城育ちのアリアよりもよっぽど世間知らず、ということもあったのだろう。
たとえば、食事の一件から嫌な予感を得たアリアが「運動をしなさい」という命令を「食事をして三十分が経ったら庭の散歩をするように」というものに変えたら、今度は三時間歩き通して膝をガクガク震えさせて倒れるし。
今まで椅子に座らされて飾られるだけだったのに、いきなりそんなに歩けばそうもなろう。アリアは額を抑えて、改めて「散歩は一回につき十五分」と指示を出し直したものである。
更に言えば、ジャックは休むことまで下手だった。
流石に睡眠なら生理現象だし大丈夫かな、と思ったアリアが「ゆっくり休んで」と言ったら、「起きて良い」と言われるまで、それこそ睡眠が終わった後にも人形じみた顔でベッドの上で寝転んでいる始末である。
しかも目が開いた状態。これはジャックが作り物じみて見えるほど端正な顔をしているのもあって、世話役につけたメイドが悲鳴をあげてちょっとした騒ぎになったりもしたのだ。
他にも、たくさん、それはもうたくさんのトラブルがあった。
アリアはその度に奔走し、その度にジャックの手を取って教えた。文字も知らなかったジャックに、一つ一つを教えたのもアリアである。この世界の教材は分かり難いから、元の世界にありそうなドリルまで自作して、夜には絵本を読み聞かせたこともあった。
ジャックは仮面のように作られた完璧な笑みを浮かべられるのに、人に取り入ることは分からなかったから、まずは自然に笑えるようにしなければならなかった。好き嫌いの感情が乏しかったジャックが、何が好ましいのか分かるように少しずつ、一緒に答えを模索して行った。
ルイやメイド達は「遊び方が違うんだけどな……」と言うみたいに、まるで子供が子育てごっこをしているような状態のアリアを随分と生温かい目で見つめていたけれど。
だけど、アリアはそれでも真剣だったのだ。無邪気を装い、子供の気まぐれみたいな顔をしながらも、真実では必死にジャックを育てていた。
だって他に頼れる者がいない。探すことも容易ではない。毎日を楽しそうに生きていても、夜にはあの血の夢を見た。愚かな女王として贅沢に溺れ、絹や宝石で部屋を埋め尽くしても、ありあ、と最期にアリアを呼んでくれた両親の掠れた声は耳にこびりついて忘れられなかった。
アリアにとってジャックは、名剣であろうとなまくらであろうと、研がなければ何も始まらない、唯一とも言える剣であったのである。
そして、アリアの献身的とも言える育成は、少しずつ見える形として現れたのだ。
ジャックは少しずつ、あの貼り付けたような笑みを取りこぼすようになっていった。
とはいえ、笑みを取りこぼすと言っても、無表情になるというわけではない。
ふとした時にきょとんとした、まるで自分が迷子になっていることも分からない小さな子供みたいな、不思議そうな顔をするのだ。
つまるところ、この頃には少しずつ、ジャックの心が見え始めていたのだろう。
おやつの時間にケーキを選ばせる時、アリアと同じいちごのタルトではなくて、おずおずとモンブランを選ぶようになった。
生まれて初めて寝坊をして、あれ?と困惑した顔で起きてくるようになった。
アリアの愛犬、ポメラニアンのジャバウォックが膝に乗ると「ご、ご主人様」と困ったようにアリアを見て、けれど白くてふわふわの毛を撫でるよう促すと、次の日にはジャバウォックと一緒に日向の下で昼寝をしていた。
……因みにジャバウォックは、ルイの父であるロイド・カリスト侯爵が少し前、アリアに献上したポメラニアンである。更に言えば、ジャバウォックは城に連れられた時には既にジャバウォックであった。ロイドはネーミングセンスが終わっているのだ。
そういう小さな積み重ねを経て、ジャックはようやく、非の打ち所がない、アリアが望んだ通りの少年へと成長したのだ。
夜を閉じ込めたような黒の髪。薔薇のような赤い瞳。すらりとした体躯。背は随分と伸びて、けれど幼い頃の不摂生が影響したのか、筋肉は付き難くて線は相変わらず細かった。
アリアが何度も付きっきりで世話をして、食事や眠り方まで教えた甲斐あって今ではすっかり健康優良児なのだけれど、黙って目を伏せていると、まるで消えてなくなってしまいそうな儚さがある。
だけど目が合うと親しげに笑うから、そういう風にアリアが教えたから、どんな男も女もあっという間にジャックに夢中になった。
人懐っこくて、何より城のメイドや騎士たちは、ジャックが生きることが下手くそだった頃からジャックを知っている。
彼らはよくジャックの世話を焼いてくれた。
アリアが思い付きを装って「城の皆に習って、もう少ししっかりなさい」と何度かそれぞれの元へ仕事を習わせに行ったから、全員にとってジャックは弟のような後輩のような、教え子のような存在だったのだ。
最初は女王の奴隷、アリアの所有物に仕事を頼むことを躊躇していた者でさえ、いつの間にか当たり前のようにジャックを仲間として扱っていた。
10歳にして人間一年目みたいな有り様であったジャックが、けれど育ててみればかなり優秀な部類に入る少年だった、ということもあるのだろう。
乾いたスポンジがみるみるうちに水を吸収するように、ジャックは様々な知識や技術を身につけた。チェスが得意で、書類の整理をさせたら下手な文官よりも余程上手くやった。線は細いけれど、体力がないというわけではない。週に何度か騎士達の元に通わせているから、剣だって上手に握る。
そしてどんなことにも才能を発揮するのに、決して驕ることなく、先人達を尊敬した仕草を忘れなかった。
ジャックは誰にだって信用されていた。彼が奴隷という身分にあることを誰もが忘れて、けれどふとした時に思い出しては「勿体無い……」と心底残念そうな顔をした。
けれど、アリアは心から安心していたのだ。ジャックがなまくらではなく名剣であったことが分かって、これ以上のことはないと思ったのである。
ペンを持たせても剣を持たせても優秀で、城中の者に好かれている。昔からたくさんの部署に出入りをさせていたから、どんな場所に居ても怪しまれない。どんな仕事をしていても、誰かに頼まれたのだろうと納得される。
そして何より、ジャックはアリアに対して従順だった。
アリアが昔よく世話を焼いたからか。それとも三つ子の魂は百までという言葉の通り、奴隷として育てられていた頃の習性が残っているのか。はたまた刻印が未だくっきりと彼の身体に刻まれているからか。
ジャックはアリアの命令に決して逆らわず、それがどんなに危険なものでも喜んで従った。自分を可愛がり、信じて仕事を任せてくれた文官や騎士達の信頼を裏切って秘密を探ることさえ、喜んで請け負ってくれた。
ジャックは正しく、アリアにとっての理想となったのだ。
「あれ。どうしたんですか?女王陛下。今日は随分ご機嫌ですね」
今日は燕尾服を着たジャックは、くす、と笑うようにしてそう言った。手に持ったトレイの上にはティーセット。今日のジャックはアリアの従者なのである。
すらりと高い身長になったジャックは今16歳。
つまりアリアは14歳で、あれから六年が経ったということだ。
それだけの時間が経てば多くのことが変わる。
ジャックはアリアを平坦な「ご主人様」という言い方ではなくて、「女王陛下」もしくは「アリア」と呼ぶようになったし、今では自分のキャパシティを超えて食べ過ぎて、倒れて医者にかかることもない。
左耳には赤いルビーのピアスが揺れていてこれはジャックが15歳の時、アリアが彼にプレゼントをして穴を開けたものだった。
ジャックに密偵の真似事をさせるようになってしばらくが経った頃、大きな証拠を掴んできたジャックに対して、アリアが褒美として与えたものである。ジャックが望んだものがこれだったのだ。
垂れ目気味の目尻の下には涙袋。仕草の一つ一つは王族仕込みの洗練されたもの。新入りのメイドが来るたびに、ジャックに恋する犠牲者が増えるわけであった。
「別にー?ただあんな小さな子供が、よくもまぁここまで大きくなってと思っただけよ。昔は一人で寝ることも難しかったのに」
「貴女は俺の母親ですか、全く……。一応、歳で言うなら俺の方が二つも上なんですけどね」
「知ってるわ。この間お祝いだってしてあげたじゃない。覚えてないの?」
「覚えてますけど」
カウチの上。ごろんと寝転がるアリアがくすくすと喉を揺らせば、ジャックもまた「ケーキの上に、ろうそくまで立てていただきましたしね」と口元を綻ばせる。
こうして見るとつくづく不思議だ。かつてはただの人形のようであった奴隷が、すっかり人らしくなった。アリアも幼い身体で必死に駆け回った甲斐がある。
「さ、陛下。おやつのお時間ですよ。メイド達が居ないからってそんなだらしない格好しないでください。今日は陛下が好きなラズベリーのタルトなんですから」
「本当?やった、私ジャックのタルト好きなのよね」
「今日のもきっと好きですよ。俺が腕によりをかけて作りましたから」
コト、と小さな音と共に、テーブルの上に美味しそうなタルトが置かれる。
アリアはそれに機嫌良くカウチの上を起き上がった。少しボサボサになってしまった髪はすぐにジャックが整えてくれて、すぐにサラサラと元の調子を取り戻す。
六年前、アリアがまだ8歳だった頃には周囲に纏わりついて離れなかったメイド達。
今はジャックが彼女達を上手く言いくるめてくれるから、こうしてアリアにも気の抜ける時間が出来たというわけだった。
アリアがこの六年大人しくしていたから、彼女達も油断している、というのもあるのだろうけれど。
「んー、美味しい。あと何より安心して食べられるのが最高……」
「また反応に困ることを……。それだって本当は、女王陛下の口に入るものを全部、俺が管理しておけば要らない心配なんですよ?」
「お前にそんな暇があったらね。もちろん私だって、全部が終わったらそうするつもりだけど」
アリアがルイやロイドの傀儡となって暫くした頃、今度はアリアの両親、前国王夫妻を支持していた元王権派の貴族達がアリアの命を狙うようになった。
貴族派筆頭であるカリスト侯爵家に良いようにされて、国をどんどんと蝕んでいく女王を見ていられなかったのだろう。こんな女王なら、国を思えば居ない方が良いというのは至極当然の考えだ。
お陰でアリアは何度か毒を飲んだし、二、三度は生死の境を彷徨ったこともある。
毎度アリアを今死なせるわけにはいかないルイの尽力によって生き延びたけれど、ジャックはそういう時に限って別の所にいるので、どうしても心配してしまうのだろう。
彼はアリアの命令には逆らえず、与えられた仕事を放棄することも出来ないから。
「……分かりました。早く、一刻も早く全て突き止めます。このままでは俺の心臓だって、いくつあっても足りませんから」
「ん、そうして。ああでも、無理はしないでね。この世界に焦って良いことなんて、一つもありはしないんだから」
「肝に銘じます」
見ているこちらが居た堪れなくなるくらい、真剣な顔をして頭を下げるジャックに、アリアはフォークを持ちながら苦笑する。
従順なのは良いけれど、時々思い詰め過ぎるのがジャックの悪いところだ。真面目なのだろう。アリアは小さく息を吐いて、「さて」と仕切り直すように微笑みを浮かべた。
「片付けたら、今日はそのまま下がって良いわ。この後はルイが来るから癇癪を起こす予定なの」
「……俺が、一緒にいてはいけませんか?」
「お前が居たらすぐに宥められてしまいそうだもの」
「、」
「それに、明日はアントレイ伯爵の元に行ってくれる日でしょう?備えて今日はゆっくり休みなさい。あんな妖怪に会う前くらいはちゃんと休息を取って、しっかり気力を蓄えなきゃ」
ちょいちょいとアリアが小さく手招きすれば、ジャックはやっぱり少し悔しそうな顔でアリアのそばにやってくる。だけどちゃんとカーペットの上に両膝をついて、椅子に座るアリアが撫でやすい体勢になるあたりやっぱり素直だ。
夜みたいなジャックの黒髪が、さらさらとアリアの指の間を滑り落ちた。
「分かって、ジャック。お前にはあまり見苦しいところを見せたくないのよ。だってほら、折角こんなに素直に育ったのに、幻滅でもされて反抗期が来たら大変でしょう?」
「反抗期って……。全く、貴女はどうしてこう、俺を子供扱いするんですか。何度も言うようですけど俺、貴女よりも歳上なんですよ」
「知ってるわ。でも可愛いんだもの。子供扱いじゃなくて、可愛がられてるって思って諦めて」
「……」
「あら、拗ねた?」
「別に。陛下が俺を誤解することなんていつもですから」
「誤解?」
「……俺は、今更どんな貴女を見たって、幻滅なんかしません」
拗ねたようにちょん、と突き出した口。
思わずアリアが吹き出して笑うと、ジャックはますます怒ったふりをしてそっぽを向いた。




