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服ばかりは綺麗なものを着せられて、爽やかな石鹸の匂いを纏って、けれどいっそゾッとするくらい細い手首をした少年だった。
使用人であろう男二人に両肩を押さえ込まれて、跪かされた体勢。貼り付いたような薄い微笑み。黒い髪の間から覗く赤色の目が、アリアをがらんどうに見上げていた。
ガラスのような少年だと思った。ルイが見繕っただけあり芸術品のように完璧な見目をしていたけれど、人間と呼ぶにはあまりにも生気がなくて、作り物じみて見えた。
「これでこの子は貴女のものだよ、女王陛下。ほら、首のところに印があるだろう?」
ルイはそう言って、それこそ兄が妹に子犬をやるような微笑みで、アリアに一人の人間を差し出した。
あまりにも人権という言葉とかけ離れている状況に、頭がくらりと貧血を引き起こし、喉は引き攣る。けれどアリアは何とかはしゃぐような顔を作って、喜ぶような声をだして、「嬉しい!」と声を上げた。
「これで私も大人の仲間入りなのね。ありがとう、お兄さま!」
「女王陛下を喜ばせることこそ、僕の幸いですから」
その場を飛び跳ねるようにしてアリアが喜べば、ルイはわざらしいくらいに恭しい態度で頭を下げた。そうしてそれから、この少年が如何に『素晴らしい』奴隷であるかを優しい仕草で教えてくれる。
歳は10歳。生まれながらの奴隷である為に名前はまだない。これまでは番号などで管理されていたという、血統書付きの高級品。
滅多に市場に出回らないような子だけれど、何とかアリアのためならと用意をしてくれたのだとルイは言った。
そういう施設があるのだという。奴隷から生まれた子供を、商品として見事に育て上げる場所。表向きは孤児院として運営されている『飼育場』というところ。
この子はそこで育てられていたから、外も知らない。主に従うことだけを教え込まれている美しい子供は、奴隷として大層な人気があるのだ。
奴隷だって本来はれっきとした人間であるはずなのに、この国では誰も彼らを人とは認めない。
ずっと昔から、非合法で存在している奴隷達。平民でさえ、その身体に奴隷であることを示す印。一般の奴隷には焼印として、この少年のような高級品にはタトゥーとして入れられているものを見れば、穢らわしい物のように扱い出す。
特に彼のような生まれながらの奴隷は、世間にとっては人間ではないのだ。正真正銘の動物で、物であり、商品なのである。
「……つまり、とっても珍しくて高いものってことなのね。素敵!」
無理矢理に表情筋を動かした、どきどきと胸が高鳴っているような顔。アリアは「お兄さまって何でも知っているのね」とルイを振り返って笑った。
こうしてアリアは、最初の奴隷を手に入れたのである。
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ルイの話した通り、アリアの最初の奴隷。許可がなければ口さえ開こうとしない少年には名前がなかった。
だから彼を奴隷として受け取ったアリアの主としての最初の仕事は、彼に名前を付けることだったのだ。
とは言えあまり凝った名前を考えて、愛着が湧いては後が怖い。だからアリアは彼に、この国で最も一般的でありふれた男児名を付けることにしたのである。
「いいこと、ジャック。勝手にご飯を食べるのはいけないことではないのよ。私が居なくても食事は摂っていいの、むしろ摂るべきなの!」
「はい、ご主人様。ご慈悲に感謝いたします」
「あと、お前は一度の食事も少なすぎるわ。そんなのだから10歳のくせして、私とそんなに背丈も変わらないのよ。もっと食べないと、大きくなれないでしょう?」
「ご主人様は痩せた奴隷はお嫌いですか?でしたら、より肉を付けるよう努力いたします」
「そういうことではなくて……!!」
頭が痛い。頭痛を堪えるようにして、アリアはこめかみのところを押さえた。
ジャックの細い手首。少し力を入れただけで折れてしまいそうな背中は、しかし故意に作られたものだったらしい。
通りで貧民街の孤児のように痩せた体躯をしているにしては、肌の保湿や髪の手入れが行き届いていると思ったのだ。
痩せた子供は儚げで美しいという前時代的な価値観のせいで、これまでのジャックは食事を管理されていたのだろう。商品としての価値を高める育てられ方しかして来なかったから、成長期の子供に食事というものがどれだけ大事かを知らないのだ。
「とにかく私が言いたいのは、早く健康になりなさいってこと!お腹が空いたら、お腹いっぱいになるまで食べて、それから運動もして、身体を強くするの。分かった?ジャック」
「ご主人様のお望みの通りにいたします」
「そうしてちょうだい。お前が人並みになってくれないと、私が困るわ」
きゅ、と困ったように眉を下げてアリアは言った。一応身体的な年齢としてはジャックの方が年上のはずなのに、まるで子守りをしているような気分である。
アリアは暫くの間、ジャックの世話をするふりをして側に付き添ったり、側を離れた後にはさりげなく見張ったりした。
けれど、ジャックに怪しいところは見られなかったのだ。どうやらジャックはアリアの思った通り、ただの『奴隷』であるらしい。ただカリストが仕入れただけの子供であり、奴らの息が掛かったスパイというわけでもない。
流石にカリストも、こんな飾り物として、意思なく育てられたぼんやりとした子供を利用するなんて手の込んだことはしないようである。
アリアはため息を吐いて、早くこの子をどうにかしなければ、と思う。
本当は、アリアはジャックを使用人達に紛れ込ませて働かせたいのだ。折角、アリアの意思だけで動かせる人間が手に入ったのだから。奴隷ってこういうものでしょう?と勘違いしたふりをして、城の中を探らせたい。
折角愚かになるように育てられているのだから、それを利用しない手は無い。
だからアリアは、『世間知らずで馬鹿な女王が何を思ったのか、本来愛玩用で側で微笑ませているだけの奴隷に使用人の真似事をさせている』という状況が欲しいのだ。
『女王陛下は奴隷の使い方もわからないのね』とメイド達に微笑ましく笑われて、ルイにも愚かに思われて、そうしてジャックが一人で城を出歩いてもおかしくないようにしたい。
行く行くはアリアの側仕えとして書類の運搬なども手伝わせて、そのまま文官に紛れ込ませるのが目標である。
どうせアリアに回される仕事は簡単なものだから、奴隷に任せようが何かを言われることはないだろう、と思ったのだ。
だけどこのままでは、その為の教育を施すどころではない。
今のジャックはかつての飼育施設であった小さな孤児院と、奴隷を閉じ込める為の狭い牢屋しか知らない。体力どころか最低限の健康すらままならないのだ。
綺麗な椅子に飾られて微笑むしかできない奴隷の少年。
人間に紛れ込ませても大丈夫なくらい、人間らしくしなければ。人と会話をして、人の輪に入り込めるようにしなくてはならないのである。
前世含めて子供を育てたことのないアリアにとっては、それはとても難しいことに思える。途方のないことに思えてならないけれど、だけど試みなくては何も始まらないのだ。
スパイを育てるような真似は、アリアにとってそれこそ、映画の中でしか見ないような非現実的なことではある。けれどやらなくてはならないから、やってみるし頑張るのだ。
「……でもまぁ、いいわ。どうせ時間は有り余っているのだもの。焦って中途半端になるよりも、気を長くして、きちんと育てるべきよね。急いては事を仕損じると言うし」
ため息を吐いて、仕方のないことに折れるようなポーズでアリアは言った。
どうせアリアが女王として、本当の意味で認められるのは、成人である16歳になってからだ。
それまでは殆どの実権を夫であるルイに握られている状態と言える。だからアリアはどの道16歳になるまで、息を潜めて大人しくして、愚かなふりで油断させて生き残ることしか出来ないのである。
アリアは今8歳。その為、アリアが本格的に行動を起こせるのは今から数えて八年後。
それまでは所謂、準備期間と言える。だからアリアはこの間に両親を殺した首謀者や、それに協力した貴族達を見つけ出したいと思っている。その為にジャックを必要とした。
四六時中監視されているアリアに変わって、城の内外を探ってくれる誰かが欲しくて。あの日の両親の死に関わる者や、それに迎合して不正を行い、今なお甘い蜜を吸っている者達を見つけたくて。
けれども、言い換えればあと八年はあるのだ。
気長に行こう。事を急いて下手に失敗するわけにはいかない。特に今はアリアの命令と判断一つに、アリア以外の命もかかっている。
元々使い捨てにするつもりで迎えた奴隷だけれど、だからと言って彼の命がどうでも良い訳ではないのだ。
矛盾しているかもしれない。
けれどアリアが気をつけることによって死なせずに済むなら、やっぱり死なせたくなんてないのである。
命なのだ。人間なのだ。出来ることなら、せめて、無為に消費するような真似はしたくない。




