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ルイ・カリスト。
高い背丈、ブロンドの髪を持つカリスト家の貴公子。結婚式の当日になって、はじめて顔を合わせた十歳上のアリアの夫。
ルイをはじめて見た時、アリアは彼を狐のような男だと思ったのを覚えている。
「ただいま、女王陛下。今日も良い子にしていたかな?」
「お兄さま!」
聞こえてきた声に、アリアはパッと席を立ってドアの方まで駆け寄った。開かれた両手の中に飛び込めば、ルイは当たり前のようにそれを受け止めて、そのままアリアのことを抱き上げた。夫婦というよりは、本当に兄妹のような仕草である。
「おかえりなさい、お兄さま!ええ、アリアはとっても良い子だったわ。だってね、きちんとお仕事だって終わらせたんだもの!」
「本当かい?それは凄い!あれだけの書類に目を通すなんて、流石は女王陛下。もうすっかり一人前の国主だね。僕も貴女の夫として鼻が高いよ」
「そうでしょう?それからチョコレートも食べてね、あれとっても美味しかった!だけど聞いたら、チョコレートは貴重だからあんまりお城にもないんですって……。毎日は食べられないっていうの」
「何だって?それはいけないな。他ならぬ女王陛下の口に入るものを出し惜しみするなんて、とても酷いことだ」
「お兄さまもそう思う?」
きゅ、と眉を下げてアリアが言うと、ルイもまた真剣な顔をして「もちろん」と頷く。まるで世界の命運を背負った勇者さながらの表情だ。アリアはそれがあまりにも馬鹿らしくてくすくすと笑った。ルイにはきっと、単純にご機嫌になったと見えるだろう。
「チョコレートのことは僕が何とかするよ。女王陛下のお望みを叶えることこそ、僕の使命だからね」
「うふふ。楽しみ、ありがとうお兄さま!」
ぎゅっと飛び付くようにルイの首元に抱き付くと、ルイは「おっと」と笑いながらぽんぽんとアリアの背中を撫でた。
それから今日一日アリアの側をついていたメイド達の方に目を向けて、「今日も変わりなかったかい?」と改めて尋ねる。
「はい、王配殿下。本日も女王陛下はお変わりなく、健やかにお過ごしでした」
「ええ。お仕事をご立派にこなされた後は庭で昼食を、その後はおやつの時間までお昼寝をなさり、後はわたくし共とたくさん遊んでくださいました」
「とはいえ、やはりわたくし共では陛下の寂しさをお慰めするには足りないようで、何度も殿下の行き先や帰る時間を尋ねていらっしゃいましたけれど」
「だって寂しかったんだもの」
「おやおや」
「ふふ。女王陛下は本当に殿下のことがお好きですものね」
微笑ましくアリアを見つめる彼女達は、けれどアリアが女王となってから出会ったメイドである。元々アリアの世話をしてくれていたメイド達は、『警備をより強固にする為の配置換え』という理由で別のところに追いやられてしまった。
つまり、全員アリアの見張りである。息が詰まることだけれど。
「しかし、そうか……。やはり僕も忙しくて、中々女王陛下のお側に付いていることも難しいからね。陛下には寂しい思いをさせてしまう」
「私なら平気よ、お兄さま。だって女王だもの。お兄さまが居なくても、きっと頑張るわ……」
「それは心強いことだね。でも、僕が平気じゃないんだよ、女王陛下。貴女が寂しい思いをしていると思うと、胸が締め付けられる。うーん……。どうしようかな」
わざとらしい悩む仕草。うーんと頭を捻る様子は大仰で、何かを企んでいることが良くわかった。
「そうだなぁ。……お友達がいれば、きっと女王陛下の寂しさも紛れるんじゃないかな?」
「お友達?」
「そう、お友達。良いのが居るんだよ。何があっても女王陛下を裏切らない、素敵な子がね。折角だからプレゼントしよう。少し早めの誕生日の贈り物だと思って欲しいな」
「……プレゼント?」
「うん。プレゼント。僕達は家族になったんだから、おかしなことではないだろう?」
「あ……。で、でも、急にお友達なんて。緊張してしまうかもしれないわ」
「大丈夫、ペットのようなものだと思えば良いさ。僕が貴女にプレゼントをするのは、奴隷だからね」
「……奴隷?」
パッとアリアが目を見開く。奴隷。アリアはそれを知っていた。前世の記憶、高校の教科書で見たものとは違う。過去の存在ではない。歴史の中の誰かでもない。
この世界にこの国に、現在も存在している被害者達。非合法なものだというのに、特に貴族達の間では当たり前のように広がっているものだった。
普通、金儲けに勤しむことは貴族としての美徳に反するとして、貴族が商売ごとを行うことはない。けれど人を扱う商売だけは別だった。平民を扱えるのは、平民よりも位の高い貴族だけとして、むしろ彼らの売買を扱うことは一種のステータスのようになっていたのだ。
生前、父は言っていた。「あってはならないことだ」と厳しい顔をして、必死に彼らの解放を目指していた。アリアはその姿を知っていた。
時々両親に挟まれて眠る夜、うとうとと夢と現実の間を行き来している時、両親は真剣な様子で奴隷を解放する方法を探していたのだ。奴隷の所持や売買に対する罪も罰もより厳しくして、それでも中々解決しなくて、両親は歯痒い思いをしていたのだ。アリアが眠っていると思って、子供が眠るなり、二人は眠る寸前まで話し合っていた。
あんなに、父が、母がこの国から無くそうとしていた非合法の奴隷制度。
それを、こうも堂々と城に持ち込もうとするなんて。
「ど、奴隷なんて。いけないわ、そんなもの……っ」
「どうして?」
「だって、お父様はいけないことだっておっしゃっていたもの!いけないことをすると、神様がお怒りになってしまうのよ。だから奴隷なんて、そんな恐ろしいもの、」
「ああ、その辺りは大丈夫だよ。安心して、女王陛下。先王……、女王陛下のお父様が仰っていたことは、いわば建前というやつだ」
「………え?」
「奴隷を所持するのがいけないなんて、そんなことはないんだよ。だって今時、奴隷なんてどこの貴族も持ってるからね。可哀想な平民達の手前、一応『いけないこと』とはしているけれど。誰もそんなの守っちゃいない」
「そんなこと……!」
「これは権利なんだよ、女王陛下。僕達のような高貴なものには、卑しい彼らを所有出来るだけの資格がある。貴女の身体に流れる血なんて、その最たるものだ。大丈夫。皆、本当は持っているものだから」
「………っ」
「女王陛下のお父様だってお母様だって、隠れてこっそり楽しんでいたんだよ?女王陛下はまだ幼なかったから知らされていなかったようだけれど」
馬鹿にしている!馬鹿にしている!!
こんな侮辱があるだろうか。アリアの父を、母をどれだけ貶めれば気が済むのか!!
頭の奥が冷えていくような怒りが、身体中に染み渡るようだった。にこにこと笑うルイ・カリスト。両親を殺した者達がアリアにあてがった夫。ともすれば、両親の暗殺にも関わっているかもしれない男。
「驚いてしまったのかな?でもまぁ、これが大人になるということだからね。大人になると、子供の頃には知らなかった色々な楽しみを知ることが出来るんだ。そう心配しなくとも大丈夫だよ、女王陛下。奴隷はちっとも怖くないからね。僕が言うんなら間違いない。それとも女王陛下は、僕のことを信じてくれないの?」
つらつらと話す言葉は澱みなく、これまでもこうして人を丸め込んで生きてきたのだろうとわかるものだった。
この男が何を企んで、アリアに奴隷を引き合わせようとしているのか。考えられる可能性はいくつかある。考えられる限り最悪な可能性ばかりだけれど、でも、でも。
冷静に、ならなきゃ、と思う。
お父様、お母様。心の中で両親を呼ぶ。思い出す。アリアの手のひらにべったりとついた生温かい赤の色。部屋中に充満した鉄の匂い。ずるりと落ちた、お母様の手の青白さ。
「………し、んじるわ。だってお兄さまは、とっても優しいひとだもの。アリアに嘘なんかつかないってこと、アリアが一番、よく分かってるもの!」
アリアは笑った。そう言ってにこにこと、馬鹿みたいな顔をして笑った。単純な子供の顔をして、すっかり騙された顔で。「信じない」と言って嫌われるのが、見放されるのが怖いみたいな表情でルイの服を掴んだ。
そうだ、と思う。アリアはまだ彼らに対して従順でなくてはならない。愚かでなくてはならない。奥歯を噛み締める。
それに奴隷なら、考えようによっては悪くない。奴隷として世に出荷される人間は、決して主人に逆らえないように、決して真っ当な人間として生きていけないように、徹底的な『躾』をされていると聞く。
もちろん、ルイの息がかかっている可能性だってある。でも、ルイやカリスト家はアリアのことを心から侮っているのだ。メイド達もいる。今更奴隷を使って、アリアを探らせる必要性も見出してはいないだろう。
何も出来ないように育てた奴隷を、今更スパイの真似事が出来るようになるまで仕込むことも大変だ。そんな手の掛かったことだって、きっとカリストはしない。だから、もしかしたら、正真正銘のアリアの所有物が手に入るかもしれない。
ああ、と思う。それなら、だとしたら。それは今のアリアにとって唯一、信じられるものと言えるのではないだろうか?
「楽しみだわ、お兄さま。お兄さまがくれるものは、いつだってとっても素敵なものだもの」
「嬉しいことを言うなぁ。分かってもらえて嬉しいよ、女王陛下」
悍ましいものばかりを寄越す忌々しい男。メイドも騎士も誰も彼も、ルイかその父であるロイド、それともその派閥の者共の息がかかっている。そうではない使用人や騎士達は、アリアと関わることの出来ない場所に追いやられてしまった。
ここにアリアの味方はいない。四六時中見張られているアリアの代わりに動いてくれるものはない。だけど、ならば、奴隷なら。決してアリアに逆らえないものであれば、きっと役に立ってくれるだろう。
人間をもの扱いして、無理矢理従わせるなんて非人道的なことだ。両親が見たら顔を顰めて悲しむだろう。
でも、分かってはいるけれど。今のアリアには、それに賭けることしか出来ないのだ。躊躇うことももう出来ない。
だってアリアは決めてしまったのだから。両親のためでもなく国のためでもなく、ただ自分自身のためにこそ復讐を選ぶのだと決めてしまったのだから。




