17
ブロンドの髪に、青い瞳の女の子。
エルシー・カリストは長い間、実に幸福な少女であった。
優しい母。美しい父。偉大な祖父に、たまに領地に戻ってきては遊んでくれる素敵な叔父さん。
歴史あるカリスト家の屋敷は広大で、遊ぶ場所には困らない。たくさん居る使用人も、領地の人々も、みんなエルシーに優しかった。
王都のような都会に興味がなかった、といえば嘘になる。けれどエルシーがそんな素振りを見せるたび、お父様が困ったように眉を下げて「いつか、その時が来たらね」と頭を撫でてくれたので、そのうち王都に行きたいと思うこともなくなった。
若かりし頃には女神ともたとえられたお父様。とても美しいエルシーの父は、しかし特に心配性で、エルシーに過保護な人でもあったのだ。
エルシーが何をするにも真っ先にエルシーのことを心配して、王都で何か事件が起きるたび、新聞を持って考え込んだ顔をしていた。そんな父に「お前が心配なんだ」と申し訳なさそうに言われれば、普段は旺盛で仕方がないエルシーの好奇心もするすると大人しくなる。
お父様を困らせたくなかった。良い子でありたかった。お父様に頭を撫でて、褒めてもらえたら、エルシーにはそれだけで充分だったのだ。
エルシーが幼い頃から、エルシーのことを導いてくれたお父様。困ったことがあれば、お父様に頼れば何もかもが上手くいった。
お父様だってそう言っていた。「全て私に任せておきなさい。そうすれば、君が心配することは何もないからね」と。小さい頃のエルシーにとってそれは福音にも等しくて、だからエルシーの世界の全部は、お父様だった。
お母様のことも大好きだ。優しくて柔らかくて、いつだってあたたかくエルシーのことを見守ってくれる。
だけどお父様のことは、それ以上に特別だった。
お父様はよく、エルシーのことを「小さな女王陛下」と呼んだ。
エルシーはその度に、もしも自分が本当に女王であったのなら、きっとその時は催事の全てを父に頼るだろうと思った。
この国は今、あまり良くない状況にあるのだという。幼い女王様はあまり政治が得意ではなくて、我儘と浪費には限りがない。王都に居るお祖父様や叔父様が、宰相や王配として必死に国を動かしているけれど、とても大変なのだと聞いた。
もしも、エルシーが本当に女王様になれたのなら、そんなことには決してさせない。
お祖父様のことも叔父様のことも困らせないし、何をするにもお父様に指示を仰ぐ。お父様は絶対に正しくて、間違いがない人だから、そうすればこの国だってすぐに良くなるはずだ、と。
エルシー・カリストはずっと、そんなことをふわふわと考えている少女だった。
国中が飢えて苦しんでいる中で、幸せであたたかな箱庭の中で、そんな夢想に浸れるくらいには恵まれた少女だった。
幸福だったのだ。本当に。
───あの日。国の騎士団が、屋敷に乗り込んでくるまでは。
「これから私達、一体どうなってしまうのかしらね……」
メイドから借りた青いエプロンワンピース。薄暗い部屋の片隅で、エルシーは膝を抱え込むようにしながらぽつりと言った。
エルシーの側に従う白髪の少年、ホワイト。元はカリスト邸で庭師の見習いをしていた彼は、そんなエルシーを「エルシー……」といたましそうに見つめている。
侯爵家のお姫様と使用人。身分の差は確かにあれど、エルシーとホワイトの二人は、元々幼馴染みのようにして育ってきた仲だ。
エルシーが頬にカスタードのクリームを付けたまま、裸足のままに野原を駆け回っていた頃から、ホワイトは彼女を知っている。
だからこそ、今のエルシーが気の毒で可哀想で仕方がなかった。
「……大丈夫だよ、エルシー。きっと大丈夫だ。旦那様だって居るんだ。王都に連絡さえ飛ばせれば、ルイ様が助けてくれるって話だろう?」
「そうだけど……!でもホワイト、それっていつの話?お父様を信じていないわけではないわ。だけど、ねえ、お母様のあのやつれよう!」
「それは……」
「お、お母様が死んじゃったらどうしよう。叔父様の助けが間に合わなかったら?ううん、そもそも叔父様は、ほんとうに助けてくれるの?お、お祖父様だって、捕まってしまったっていうのに!」
わっ、と顔を覆うようにしてエルシーは泣き崩れた。
エルシーの祖父。カリスト侯爵が身柄を拘束されたという連絡が届いたのが少し前のこと。それから間も無くして国の騎士団はカリスト家の領地に足を踏み入れ、エルシー達を、カリスト家の人間を捕まえるべく屋敷に押し入った。
エルシー達が無事に逃げることができたのは、やはりエルシーの父であるエドガール・カリストの采配によるものである。
騎士達がカリスト家の屋敷を目指していることにいち早く気が付いたエドガールは、急いで妻子と、それから僅かな使用人を連れて屋敷を脱出したのだ。
ホワイトのような、行き場がなくて自分から「ついていく」と言い出した者を、旦那様は決して見捨てなかった。
エルシー達が辿り着いたのは、屋敷からある程度離れたところの見窄らしい、小屋のような小さな家だった。有事に備えて、カリスト家が用意していた隠れ家のうち一つ。
もう何十年も前に使われたきりだというそれは、碌な手入れもされていなくて、狭くて薄暗くて仕方がなかった。
ホワイトは慣れている。元々親もなければ、カリスト家に拾われるまで碌な育ちもしていなかった人間だ。
けれど貴族の娘として大切に育てられたエルシーには、酷な場所だろう。
エルシーの母である、セシリア・カリスト夫人だってそうだ。
生まれながらの貴族として大切に慈しまれ、大人になると同時に大貴族カリスト家に嫁いできたセシリアは、この状況にすっかり参って、弱り切ってしまっている。
外には国の騎士達が厳重な見回りをしていて、表を歩くことはできない。
食糧や物資は何とかホワイトや、同じようにここまで付いてきた他の使用人達が持ち回りで調達しているけれど、それにしたって限りがあった。あまりにも短いスパンで、多くのものを買い込めば怪しまれる。
細々と物資を運び込んで、全く安定しない日々。たおやかなセシリアの心がすり減るのは早かった。
今はエドガールがほとんど付きっきりで看病をしているけれど。
ホワイトの表情が曇る。いつまで持つかは、正直分からなかった。みなしごで、卑しい生まれの、元は碌な名前さえなかったホワイトに『ホワイト』と名前を付けてくれたセシリア夫人。
ホワイトをエルシーに引き合わせてくれたのもあの方だった。花のようにたおやかで、月のように穏やかだった人。
よくお菓子を握らせて、「いつもありがとう」と頭を撫でてくれた。柔らかなあの方は、日に日にやつれて、枯れる花のようにさえ見えた。
セシリアだけではない。
エルシーも、言葉には出さないが、エドガールだって随分と焦燥した様子だった。
死刑囚の息子であるホワイトを、差別せずに優しくしてくれたカリスト家の方々。ホワイトに屋根のある部屋を、あたたかい寝床をくれて、「これからはここがお前の家だよ」と迎え入れてくれた。
あの陽だまりのようなカリスト家は、けれど王都の騎士達に蹂躙されて、こんな狭く薄暗い小さな家に押し込められている。
それも、これも。
血に狂った、カリスト家への恩を忘れた、女王のせいで。
「おや。エルシー、ホワイト。まだ起きていたのか」
小さな部屋に繋がるドアが、キィ、と古い音を立てて開いた。そこから現れたのはエルシーの父であるエドガール・カリスト。恐らくは妻であるセシリアが眠って、少し席を外すことにしたのだろう。
微笑む顔は、やはり心なしか疲れている。
「お父様。……ごめんなさい、どうしても私、お母様が心配で」
「僕は、エルシー……。お嬢様が眠れないようでしたので、湯を沸かしてお出ししていました。その。お茶の葉は、屋敷から持ち出した分が切れてしまったので……」
「ああ。平民に混じって買い物をするには、茶葉は少し高すぎるからね。仕方のないことだ、分かっているよ。エルシーを気遣ってくれてありがとう、ホワイト」
「いえ……。僕には、こんなことしか出来ませんから」
あんなに恩を受けたのに、今のホワイトに出来ることと言ったら、古びた鍋で何の味もないお湯を沸かしてやることだけである。
ホワイトが後ろめたさと恥ずかしさにグッと奥歯を噛み締めると、エドガールは「お前はどうにも自罰的だね」と苦笑をしてホワイトの頭を撫でた。
「さて、それで私達の小さな女王陛下はどうしたのかな。……眠れないばかりではなく、泣いたね、エルシー」
「っごめんなさい、こんなの、カリストらしくないって分かってるのに……」
「違うよ、エルシー。責めているわけじゃない。良いんだ、泣いたって。ただ泣くのなら、僕の側で泣いて欲しかった」
エドガールはそう言うと、下がった眉、柔らかな仕草でエルシーの頬を撫でた。エルシーはそれだけでまた涙が溢れてたまらなくなる。エルシーの青空のような瞳から、ポロポロと大粒の涙が落ちていった。
エドガールはそんな娘を優しく抱きしめる。
「ごめんね、エルシー。僕が至らないせいで、君にまで苦労をかける」
耳に心地良い、穏やかな声。エドガールが私ではなく僕という言葉を使うのは、いつだって家族の前だけでのことだった。
エルシーはふるふると首を振る。「お父様のせいなんかじゃないわ」と、しゃくりあげて、泣きながら。
「全部、全部女王のせいよ……!お祖父様を閉じ込めて、叔父様をないがしろにして!幼かった女王の代わりに、お祖父様達がどれだけ頑張って国を守ってきたか、考えもしないで……!!」
「そうだね。とても悲しいことに、今の女王はあまり、王としての資質に富んでいない。幼少の頃から我儘と贅沢に溺れて、父上もルイも、とても苦労をしていたという。きっと女王は邪魔だったんだろう。我儘ばかりをする女王を諌め、国を守るカリストが嫌になったんだ」
「あまりにも自分勝手だわ……!どうして、私達がこんな思いをしなければならないの?女王さえいなければ、お母様だってこんなに弱ってしまうことはなかった!私達は何も、何も悪いことなんてしていないのに!」
あまりにも悲痛な叫びだった。うわあん、とエルシーはお父様にしがみつくようにして泣いて、エドガールはそんな娘を支えるようにして強く抱きしめる。
「大丈夫だよ」と話してくれる言葉は、エルシーの心を慰める為だろう。
「大丈夫だ、エルシー。神様は見ている、きっと何もかもが上手くいくよ。君は特別な子だ。君さえいれば、カリストだって大丈夫なんだ」
頭を撫でる大きな手のひら。ぐすぐすと泣くエルシーを、それでも大切にしてくれるお父様。
不思議だわ、とエルシーは思った。お父様がそう言うと、本当に大丈夫な気がしてくる。エルシーだってカリストだって、大丈夫になる気がしてくる。
「お母様も、きっと元気になる……?」
「ああ。きっとね」
そう言ってお父様が微笑んでくれたから、エルシーもようやく、綻ぶように小さく笑うことができた。
きっと、大丈夫。
お父様の言葉は、おまじないのようにエルシーの胸に染み渡って、エルシーはその夜、随分と久々に穏やかな気持ちで眠ることが出来たのだ。
まさか、この次の日。
国の騎士達に隠れ家が見つかってしまうだなんて、この時のエルシーは思いもしなかったのである。
病床に臥した母を連れ立って逃げる事は出来ず、優しい父はエルシーを逃す為に囮になった。
エルシーは止まらない涙を何度も何度も手の甲で拭いながら、必死に足を動かして走った。挫けそうになるたびに、強く繋がれたホワイトの手がエルシーを奮い立たせたのだ。
ホワイトと共に目指したのは、父の遺言にあったある酒場。
そしてエルシーは、そこでお父様の古い知人と名乗るチェシャという男に匿われ、来たる革命の日に備えることになる。
父が言ったのだ。
「どうかこの国を、カリスト家を救ってくれ」と、あの優しい、儚い微笑みでエルシーに託してくれた。
「君の本当の名は、アリス・ローズ。先代の国王陛下からカリスト家に託された、正統なる王の子。この国を救えるのは、エルシー。……アリス、女王陛下。貴女しか居ないのです」
最後に抱きしめられた時の感覚を覚えている。お父様の腕の中。いつだってエルシーを、どこよりも安心させてくれた場所。
大好きだった、お父様。
そうしてこの一年後。エルシーは、女王への恨みだけに突き動かされて、戦うことを選ぶのである。
エドガール・カリストが望んだ通りに、実の姉でもあるアリア・ローズを打ち滅ぼさんと決意して、剣を握るのだ。




