【幕間】10.5
「陛下?……アリア?」
すやすやとかすかな吐息。ジャックは持ってきた温めたミルクをテーブルの上に置いて、そっとソファーに座るアリアの、顔にかかった髪を指の先で退かした。やはり眠ってしまっていたらしい。
アリアがソファーの上で寝落ちてしまうのは珍しいが、無理もないことだと思った。ジャックが伯爵の説得に時間をかけてしまっている間、アリアはずっと一人だったのだ。
仇でもある夫の側でそれを見張り、周囲にいるのは信用のおけない使用人どもばかり。無邪気を装い幼さを装い愚かを装い、ありのままのアリアで居られる時間は無かっただろう。
大変だったはずだ。この人はジャックのことこそを気遣って労ってくれたけれど、本当はアリアの方がずっと、よっぽど辛かったはずだ。
先王夫婦襲撃の計画を立てたロイド・カリスト。だが襲撃犯を手配したのは、他ならぬルイ・カリストだった。
両親を殺した者の隣で、両親を殺した者を慕う素振りを見せることなんて、容易ではないことのはず。
本当は、ジャックはアリアの元を離れたくなんて無かった。
他の誰も味方のいないこの城に、こんな華奢な背中の少女一人を置いていくことなんてしたくは無かったのだ。
「……陛下、お身体に触れますよ。ベッドまでお運びします」
「ん……」
こういう時、ジャックは自分が『物』で良かったと思う。
奴隷で、物で、主人の言葉には否を言えないから、アリアの望みに逆らうこともない。いくら行きたくなくても、離れたくなくても、奴隷という立場がそれを許さない。ジャックの身に刻まれた刻印がそれを許さない。だからアリアはジャックを信頼してくれる。
こうして、ありのままで居てくれる。
忠実な物であるのなら、裏切ることもないのだから。
ジャックがアリアの、そのままのアリアの居場所でいられるのは、やはりジャックが『物』であるからだ。
ベッドに運んだアリアの寝顔はあどけない。布団を被せ、揃えた指の背で頬を撫でてから、ジャックは部屋の明かりを消した。
自分の部屋に戻って、その道中。思い出すのは、過去のこと。
ジャックが『ジャック』になったばかりの頃。
不思議だったのは、ご主人様がジャックのことを、まるで人間みたいに扱ってくることだった。
物心付いた時には、ジャックは既に人間では無かった。
高級品、血統書付きの奴隷であり、家畜であり芸術品。
かつては有名な舞台俳優であったという母とは会ったことはない。母はどうやら、どこぞの大貴族の傍系であるという男に飼われているらしく、普段はそこで愛人のような暮らしをしているらしかった。
奴隷の子供は奴隷にしかなれない。貴族の血を引いていてもそれは例外ではない。
むしろ貴族の血を引いているという奴隷には、それ相応の付加価値というものが存在していたくらいだった。もちろん父親である貴族が厳密に誰かは明かされないけれど、半分も尊い血が流れているということは、奴隷に付いている血統書が証明してくれる。
だから母が産んだ子供達は、生まれながらの商品として、飼育施設に入れられることが決まっていたのだ。
かつてのジャック、まだ名前も持たなかった頃の彼もその一人であった。彼が居たのは、孤児院という形をとった奴隷の飼育施設。そこには沢山の見目の良い子供達がいて、それぞれ順番に出荷されて行った。
ジャックの母は十数人と子供を産んだらしいから、多分あそこには兄や姉、それとも弟か妹も居たと思う。教えられることは無かったし、奴隷同士の交流も無かったから、どれがそうなのかは最後まで分からなかったけれど。
奴隷達はそれぞれ小さな個室で管理をされていて、施設の窓には鉄格子が嵌められていた。
決められた食事、決められた体重。不健康で青白い肌は美しい。貴族の子女が結核になってまで求める美を、けれど生まれながらにして持っている『生きた美術品』になることを求められていた。
それを悲しいと思ったことは無かった。それを不幸だと思ったこともなかった。だって名前も持たない奴隷にはそれが生まれた時からの当たり前で、幸せとか不幸とか、そんなものに当て嵌められるほど世界を知らなかったのだ。
動物を檻で育てるのなら、決して外の世界を見せてはならないという。外の世界を知ると苦しくなるし、そのせいで飼い主に反抗もする。
ジャック達は奴隷で、家畜で、人間ではなかった。
だから人間の方々は奴隷である自分達をそういう風に、合理的に、きちんと管理して育ててくださっていたのである。
だからジャックはお腹いっぱいになるという感覚も知らなかったし、運動に疲れてその場に座り込むことも、頭を撫でられて褒められることも知らなかった。
だからジャックは仕方のない顔で世話を焼かれると、随分と不思議な気持ちになったものである。
───とにかく私が言いたいのは、早く健康になりなさいってこと!お腹が空いたら、お腹いっぱいになるまで食べて、それから運動もして、身体を強くするの。
赤い髪を持った小さなご主人様。小さな手のひらを覚えている。痩せた頬を挟まれた。
「こんなんじゃ早死にしちゃうわよ……」と下げられた眉。
「この国の人間は栄養失調って言葉を知らないの?」と、何かに怒っているような、それとも心配しているような顔。
ジャックに『ジャック』という名前をくれた、彼の新しいご主人様。
それがアリア・ローズという名前の、幼い女王だったのだ。
アリアは不思議な主人だった。食事の仕方さえままならないジャックの面倒を、いっそ甲斐甲斐しいくらいによく見てくれた。
ジャックが失敗をしても鞭を取り出したりはしないし、それどころか「……私の想像力が足りてなかったわね」とまさかアリア自身が反省した様子で、ジャックの隣で根気強く教えてくれたのだ。
ジャックがはじめて、教えられた通りではない、不完全な笑い方をしてしまった時。
怒られると思ったのに、アリアはそうはしなかった。赤い瞳はきょとんと不思議なものを見つけたように見開かれて、それから、ふ、と。薔薇の綻ぶようにあの人は笑った。
あの瞬間を、ジャックはいつまでも、焼き付けるように覚えている。
「わんっ!」
「しー。ジャバウォック、静かにな。女王陛下は今眠られたところだから」
「わふっ」
足元にじゃれついてきた、白い小さな犬をジャックは抱き上げる。ふわふわとした毛並みは相変わらずで、女王の愛犬として可愛がられているからか健康そのものだ。
この白い犬。ジャバウォックは、昔からよくジャックに懐いた。というよりも、ジャックがこの犬に面倒を見られていたと言っても良いかもしれない。同族意識、のようなものがあるのだろう。
ジャックもジャバウォックも、同じアリアの犬だから。
女王に与えられた生活空間は実に広い。アリアの寝室と繋がっている部屋だけで四つはある。
ジャックはその内の一部屋、ジャバウォックが普段過ごす犬部屋にジャバウォックを運んで、引き出しからブラシを取り出した。ジャックがソファーに座ると、ジャバウォックは心得たようにジャックの膝の上に乗り上げてくる。
「なぁ、ジャバウォック。……俺はいつまで、陛下の『物』でいられるかな」
ひとりごとのような言葉。昔から何かこぼしたいことがあると、ジャバウォックに打ち明けるのがジャックの習慣のようなものだった。
くぅん、と気遣うように、ジャバウォックがジャックの鼻の頭を舐める。大丈夫だよ、と慰められているようだった。ジャックはそれに力無く笑って、白色の毛皮にブラシを通す。
伯爵と話を付けられたことで、いよいよもって、アリアの望む仇討ちが現実味を帯びてきた。
ジャックは多分、不安なのだ。アリアの仇討ちが失敗することではない。あの優しい人が、本当は物を人のように育ててしまうほど柔らかな心を持っている人が、これから沢山の人を殺そうとしている。
アリアは成し遂げるだろう。苦しくても辛くてもやり遂げるだろう。
けれどジャックは、そんなアリアをいつか止めようとしてしまうのではないかと思って、それが酷く不安で怖かったのだ。
「もうやめましょう」と、「もうやめて、どこか遠くに逃げましょう」なんて、アリアが最も望んでいないことを言ってしまいそうで怖かった。
自由意志を持つべきではない奴隷で、物なのに。『物』であるからこそ、アリアの側に居ることを許されているのに。
「……『物』で、いたいなぁ」
あの人の『物』でありたい。これからもずっと、アリアが安心して息の出来る場所でありたい。
人間になんかなれなくても良い。アリアの意思に沿わない心なんて必要ない。これ以上、余計な望みは顔を出さないでくれ。祈るような気持ちで、ジャックは小さな犬を抱きしめた。
アリアの側にいられたら、それだけでこの身には過ぎるほどの幸福なのだから。それ以上を望むことは、決してあってはならないことなのである。




