出会い
『ホッホッホッ……皆さん、ちょいとお耳を拝借。
実はねぇ、わたしには言いたいことがあるんですよォ。
飲み屋や街で、ふと気になるお相手を見かけたとしましょう。
でも――声をかける勇気が出ない。
誰しも、一度はそんな経験があるはずです。
ええ、ええ。男でも女でも関係ありません。
そのもどかしさ、苦しさ……わたしには、よぉ〜く分かりますとも。
その心、見てみたいですって?いいですよォ。
さぁ、まずは殿方の皆さんから――始めましょうか……』
賑やかな笑い声とグラスの音が響く中、一人の青年は視線を止めていた。
彼の目を奪ったのは、友人たちに囲まれた一人の女性。
――気になるな。
そう思うのに、頭は真っ白になり、胸の鼓動ばかりが早まっていく。
「友達と話し込んでいるし、邪魔するのも悪いだろう」
自分にそう言い聞かせ、結局は立ち去ってしまう。
グラスをもう一度満たし、ひと息ついたそのとき――
彼女の隣には、すでに別の男が立っていた。
見た目は冴えない。大丈夫、そんな男になびくはずはない。
そう自分に言い聞かせる。
だが、彼女は髪を指に絡ませ、くだらない冗談に笑みを浮かべていた。
「……本当なら、あれは俺だったはずなのに」
胸を締めつける思いがこみ上げる。
帰り道。
彼は自分を慰めるように、「彼女はそこまで可愛くなかった」とつぶやいた。
けれど――分かっている。
逃げた自分こそが一番の原因だということを。
初めての一歩を踏み出せなかったこと。
それが何より悔しく、そして痛烈に残る。
「次こそは……次こそは必ず」
そう誓いながら、彼は夜の闇に消えていった。
『ホッホッホッ……人間というものはねぇ、
必ずこう思う瞬間があるんですよォ。
“あの時、時間を巻き戻せたなら。勇気を出して『どうも、はじめまして』と声をかけられたのに”――とねぇ。
でも現実はどうです?
その一言を飲み込んでしまったばかりに、可能性は永遠に失われる。
“もしも”の未来を、これから先ずっと想像しながら生きていくのです。
ホッホッホッ……実に哀しい。
二度目のチャンスがあれば? 勇気を出せば? 世界は変わったかもしれない。
ですが――現実には、もう確かめようがないんですよォ。
ところで、殿方だけが辛い思いをしているわけではありません。
女性の側もまた、苦しんでいることがあるんです。
男はどうしても自分の頭の中にこもりがちで、相手の気持ちに気づかない。
だからこそ、次はお嬢さん方の物語を覗いてみましょうか……』
友人たちと談笑していた彼女は、ふと視線の先に気になる男性を見つけた。
胸の奥が少し熱を帯びる。
――あの人、ちょっと気になるな…… 気づいてくれるかしら
視線を送る。微笑む。さりげなく合図を重ねる。
けれど、彼はまるで受け取ってくれない。
どんなに分かりやすく示しても、彼の表情は変わらなかった。
「興味がないのね……」
そう思い、彼女はため息を飲み込み、再び友人との会話へ戻る。
その時、別の男が近づいてきた。
意図は明白。ただの遊び相手を探しているのだ。
彼女の好みではなかったが、無下にもできず、愛想笑いを浮かべる。
冗談に相づちを打ちながらも、心の中は冷え切っていた。
やがて男もそれを悟り、「じゃあ、また」と言い残して立ち去る。
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間――
気づけば、最初に目を奪われたあの男性の姿は、もうどこにもなかった。
夜はそのまま続いていく。
友人たちと話したいと思っても、周りは押し寄せる男たちに埋め尽くされていた。
無遠慮な手、聞き飽きた口説き文句。
堪えていた彼女の我慢は次第に削られていく。
やがて次に声をかけてきた男に、ついきつく言い返してしまった。
彼は怒りに顔を歪め、「つまんな」と吐き捨てて去っていく。
帰り道。
彼女の胸には静かな自問が残っていた。
「どうして私には、変な人ばかり寄ってくるの……?
どうして最初の彼は、気づいてくれなかったの……?
もしかして、私のどこかがおかしいのかしら」
夜の灯りが遠ざかる中、彼女の問いは答えのないまま、心に沈み込んでいった。
『オ〜ホッホッホッ……“もしも時間を戻せたら”――
人間は誰しも、そんな夢を見てしまうものです。
『あの時、勇気を出して声をかけられたなら』
『もう一度だけ、やり直せたなら』
『ほんの少しの勇気さえあれば、運命は変わっていたのかもしれない』
そう考えながら、後悔という名の影を一生背負う……
それが人間という生き物なんですよォ。
ですが!
もし本当に時計の針を戻せるとしたら?
その機会を与えられたら?
果たしてあなたは、恐怖に打ち勝ち、行動できるのでしょうか……?
それとも、また同じ過ちを繰り返すのか……?
さぁ、これから実際に試してみましょう。
夜をもう一度やり直すのです。
まずは――殿方から。』
青年は胸の奥に広がる恐怖を振り払い、一歩を踏み出した。
――今しかない。逃せば、二度とチャンスは戻ってこない。
女性の輪に近づき、彼は声をかける。
「突然すみません。さっきからずっと気になってたんです……とても素敵だと思って」
一瞬、空気が張り詰めた。
周囲のざわめきが遠のき、心臓の鼓動ばかりが耳に響く。
けれど、彼女はふっと笑みを浮かべた。
「そう? ……ありがとう」
柔らかな笑顔は、眩しいほどに美しかった。
会話はぎこちなく始まったが、すぐに流れは自然になっていく。
互いの趣味や興味が思いのほか重なり、話題は尽きなかった。
ありきたりな質問――名前や仕事などではなく、
心から楽しいと思える会話が続いた。
やがて二人は少し静かな席へと移り、さらに話し込む。
彼女は髪を指に絡ませながら笑い、
彼の冗談に心から声を立てて笑っていた。
その笑顔は、最初に彼が勇気を出した理由を、確かに正しいものにしてくれる。
やがて友人たちが彼女を呼びに来た。
「そろそろ行こうよ」
けれど彼女は小さく首を振り、微笑んだ。
「大丈夫、少し残っていくから」
――本当に久しぶりだった。
“また会いたい”と素直に思える相手に出会えたのは。
その夜の空気は、いつもより少しだけ鮮やかに感じられた。
書いてて悲しくなりました。