第12話 介護はプロにお任せあれ!
水曜日夜8時30分、マンションのリビング。
恵は市子に山田主任の詳しい状況を報告し終えたところだった。
山田主任から聞いた家族構成と母の状況は次のとおり。
長男:山田主任、母と二人暮らし
次男:大阪在住、自営業(内装業)
三男:名古屋在住、市役所勤務、
妹:北海道在住、パート勤務、中学生の子供2人
・母親は78歳で山田主任と二人暮らしだった。
・先々週に、近所で迷子になることがあり、軽度の認知症という診断結果だった
・一人にしておくのがとにかく心配
・4人兄弟だが、自分は長男
市子は予想通りだったという表情を見せた。
「やっぱりね。典型的な症状だわ」
市子は法律事務所での経験を語り始めた。
「法律事務所時代、介護が原因の家族訴訟をたくさん見てきた。
お年寄りが亡くなった後で、介護費用や遺産を巡って兄弟が大喧嘩。
『私だけが苦労した』『あいつは何もしなかった』って訴訟になるの」
市子の説明は具体的で生々しかった。
「介護問題は、小さな不満のうちに解決しないと、後で必ず爆発する。
山田さんの状況、放っておいたら家族関係が破綻するパターンだよ」
市子の警告は深刻だった。
「市子さんは、兄嫁さんの時は解決したの?」
「ええ、簡単なことよ。介護のプロに任せるのよ。
家族だから甘えちゃうけど、プロなら遠慮なくサービスを受けられるのよ。
経済的負担は、まず本人の年金と貯金。不足分があれば家族が負担」
市子の提案はドライで現実的でそして実践的だった。
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木曜日9時30分、オフィス。
恵は山田主任のもとを訪れた。
市子から聞いた解決策を、忠実に伝えるつもりだ。
「山田主任、知人に詳しく相談しました」
恵は丁寧に切り出した。
「とても具体的なアドバイスをくれました。
一人で抱え込むのが一番危険だそうです」
山田主任は期待の表情を見せた。
「介護問題は家族全体の問題として、みんなで情報共有することが大切だそうです」
市子の経験に基づいたアドバイスは的確だった。
しかし、山田主任は無条件には受け入れられないようだ。
「でも、みんなそれぞれ忙しいし、迷惑をかけるわけには...。
弟たちは遠方だから、現実的に手伝ってもらえないし」
山田主任の遠慮は、日本人の典型的な反応だった。
恵は市子のドライな知恵を伝えた。
「介護のプロに任せることがいちばん大切だそうです。
経済負担は、お母さんの年金や貯金から。足りない分をご兄弟で分担すればいいそうです」
山田主任にはまだ抵抗がある。
「でも、いきなり他人に母の面倒を任せるなんて…。
せめて家族が力を合わせて、できる限りのことをするのが。
母を他人に預けるなんて、息子として情けないよ」
そして、言いづらそうに付け加えた。
「それに…母は味噌汁の出汁は昆布じゃなきゃダメで、しかも厚さ3ミリ以内って決まってるんです。
そんな細かいことまで、他人に伝わるんでしょうか? ずっと気になって…」
恵は思わず目を瞬かせた。
(昆布の厚さ!? いや、そこまで気にしてるのはすごいけど…)
「大丈夫です!」恵は気を取り直してたたみかける。
「そういう細かいところまで聞いてくれるのが、介護のプロなんです。
むしろ家族だと『もういいでしょ』って流してしまいがちなことも、きちんと対応してくれるはずです!」
恵はたたみかける。
「専門家のほうが安心できるはずです。
病気になったら、お医者さんに病気を診てもらいますよね。
家族で助け合ったりしませんよね」
母と二人暮らしが長い山田主任には気になることがまだ残っている。
「母は家族に面倒を見てもらいたいと思ってるはず。
知らない人に囲まれて、寂しい思いをさせるんじゃ...」
山田主任の心配は、息子としての自然な感情なのかもしれない。
市子から教わった逆説的な真実を恵は伝えた。
「実は逆だそうです。
家族だと、つい甘えが出ちゃって『あれもダメ、これもダメ』って文句を言いがちだけど。
家族じゃないプロの方には礼儀正しく接するから、やってもらったことに素直に感謝できるんです。
そのほうが、本人も気持ちよく過ごせるそうです」
「それでも、息子として何もしないわけには...
お金だけ出して、ハイ終わりなんて、母さんに申し訳ないよ」
市子から教わった役割分担の重要性を恵は説明した。
「何もしてなくないですよ。
得意分野で役割分担するんです。
介護はプロに、手続きは詳しい人、お母さんとの時間は家族が。
山田主任が疲れ切って倒れちゃったら、お母さんも困りますよね?
元気な山田主任でいることが、お母さんへの一番の孝行だと思います」
山田主任は、その言葉を反芻するように静かに目を閉じた。彼の脳裏には、最近の出来事が走馬灯のように駆け巡っていた。
(スーパーで迷子になった母の顔、病院の待合室で震える手、そして、深夜、母の寝息を聞きながら一人で抱え込んできた不安と孤独…)
これまで押し殺してきた感情が、堰を切ったようにこみ上げてきた。
「確かに…」
その声は、震えていた。
「最近、母に対してイライラしてしまうことが多くて…。本当は、そんな自分がいちばん嫌だったんだ…」
自らの弱さを認めるように、山田は唇を噛みしめる。
「春日さんの言う通りだ。プロの方に任せたほうが、母もそして私も笑顔でいられるのかもしれない」
その表情には、重圧から解放され、ようやく希望を見出した安堵の色が浮かんでいた。
山田主任は自分の限界を認め、そして希望の光が見えたに違いない。
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山田主任は弟たちに連絡を取ることにしたそうだ。
市役所勤務の三男が公的支援制度に詳しく、手続きをサポートしてくれることになった。
兄弟での役割分担も決まった。
経済負担は母親の年金から算定し、子どもたち4人の補填分は月5千円程度に収まったそうだ。
市役所勤務の弟からの情報で、地域包括支援センターへの相談も始まった。
そしてデイサービス週3回、訪問ヘルパー週2回の体制が構築された。
その結果、母親は同年代の友人ができ、生活にメリハリが復活した。
山田主任も平日は仕事に集中でき、週末は余裕を持って母親と過ごしているそうだ。
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山田主任自身の変化も顕著だった。
彼は深く頭を下げた。
「本当にありがとう春日さん。君の知人の方にも、心からお礼を伝えてください。あのアドバイスがなかったら、家族関係が破綻していたかもしれない」
これまで恵に当たり散らしていた態度が嘘のように、その声は心からの感謝に満ちていた。
「いつか君の力になれそうな時が来れば、そのときに恩返しさせてくれ」
山田主任は、まっすぐに恵の目を見て言った。それは、単なる社交辞令ではなく、一人の人間として、恵の成長と優しさを認めた証だった。
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その夜、マンションのリビング。
恵は興奮気味に市子へ報告した。
「山田主任が劇的に変わったの!
市子さんの言った通り、プロに任せる方向で家族も動き出して…本当に解決しちゃった!」
市子は微笑んだ。
「典型的なケースだったからね。でも、それをちゃんと伝えて動かせたのは恵ちゃんの力よ」
恵は胸の内で噛みしめるように思った。
(相続、美香の恋愛、山田主任の介護…。
ぜんぶ市子さんが導いてくれた。私一人じゃ絶対無理だった。
でも“得意分野で役割分担して、抱え込まない”って、仕事でもプライベートでも大事なことなんだ。
人は一人じゃ生きられない。誰かと一緒にいるから、前に進めるんだ)
そして、恵はふっと笑った。
(なんといっても、私には市子さんがいる。
どんなトラブルだって、二人なら必ず解決できる)




