暮6ツの、どっとはらい
夕暮れの色が、どんどんと深まっていく。
そういえば母は夕日の色が好きだと言っていた。
だから父は夕暮れに、いつも庭を眺めているのかもしれない。
……と、伏は初めて気がついた。
「父上、杖をお返しします」
暮れゆく庭をぼんやりと眺める父の横に並んで、伏は杖を差し出す。
父は全てを見通したような目で、杖を受け取ると一度素振りをした。
「良い杖だろう。刀と同じ重さに作らせている」
「父上はすべてお見通しだったのですね。その上で、私や兄上の好きに……」
事件は夢のように終わった。
あの事件のあと、兄と共に長屋に戻った伏は、夜半に半鐘の響く音を聞いた。
どうも石田屋の料亭に不審火が出て、ぼうぼうとよく燃えたという。
幸い、客も女中たちも皆逃げ切ったようだ。
犠牲になったのは主の銀次郎ただ一人。
彼は何も書いていない位牌を3つ胸にいだいたまま、庭の真ん中で倒れ伏していたという。
一面を燃やすような炎であったにも関わらず、燃え落ちたのは料亭ただ一軒で、取り調べの面々も不思議がっていた。と、かわら版が朝から出回った。
「……さあ、どうであろうな」
夕日に照らされた父の顔は穏やかだ。彼は伏の顔をじっと見つめる。
そして、目を細めた。
「お前は母に似てきたな」
「それ、は」
父の言葉がまた、伏のどこかをえぐる。
(剣術を続けたい……父上に申し出るつもりだったのに)
廊下の隅に隠した刀の大小を、伏は指先でそっと奥に隠した。
勇気が、少しずつしおれていく。
「それは私が、大人しく、武家の女らしい風だと……」
「鈴は……お前の母は御徒町では負けすらずの剣術使いだ」
「……え?」
父の言葉に、伏の動きが止まる。
「鈴は強いと、誰もかれも皆が口を揃えたものだ。お前の叔父上など、生涯で一度も敵わなかった。何度もこてんぱんにやられておった」
父はにやりと笑い、廊下に腰を下ろす。じりじりと、秋の夕日が肌を焼く。
彼は伏にも座るよう、廊下を指した。
「もう何十年も前。深川で悪漢に捕まっていたのは私だ。私を助けてくれたのが、鈴じゃ」
「は、母上が」
「あれが鈴、20歳の時だった。二人で食った深川めしの美味かったことよな」
父が懐かしむように、遠くを見つめる。
伏にとって、父は恐ろしい男だった。体が大きく、声も大きい。いつでも動じない。
そんな父が暴漢に襲われ震えている姿など想像もできない。
同時に、あの優しく美しい母が刀を振るうことも想像ができない。
「お前の持つ大小は、母の形見じゃ。お前が持っていることを知れば、鈴はどれほど喜ぶだろうな」
廊下の隅に隠した大小を、見透かしたように父は言う。
伏はかあっと熱くなった頬を軽く叩き、深々と頭を下げる。震える手で大小を引っ張り出し、それを抱きしめる。
「父、上」
叔父の持つ練習用の刀ではなかった。これは母の汗と母の思いが染み込んだ刀である。叔父はそれを分かって、伏に持たせた。
「私は、私は……御徒町で剣術を、学んでおりました。裁縫などと嘘をついて……強くなりたいと、思っております。私は」
「家のことは案ずるな。まだ隠居をする年でもなし。跡継ぎなど、甥がいくらでもいる。そして刀を極めるのであれば、免許皆伝を目指すことだ」
その言葉に伏の目が揺らぐ。叔父の寂しそうな顔を思い出したのだ。
お前に免許皆伝はまだやれぬ。と呟いた彼の顔を。
「私は……」
「お前が認めてもらえない理由はただ一つ。姑息な手段で得ようとしたからだ。鈴はな、道場で自らの名を名乗って刀を振るった」
父が優しく、伏を見つめる。
「お前もそうせよ。荒井家が長女、伏であると。もし馬鹿にされでもすれば……」
父の大きな手のひらが、伏の頭を撫でた。そして彼は伏の耳元で、ささやく。
「叩きのめしてやれ」
「父上……」
顔を上げれば、夕日に染まった父が微笑んでいる。
ぷんと香るのは、深川めしの匂いである。父だけではない。きっと伏からも漂っている。
そして八軒町の裏長屋からも。
(この力を持っていて、良かった)
父の顔が、じわりと水に揺れた。
浮かんだ涙を伏は慌ててこすり落とす。そして、しっかりと前を見た。
「……父上、浅草の八軒町の裏長屋でうまい飯を食える場所があります」
「いつか、店を構えるという料理人がいるところだな」
父は立ち上がり、うん。と伸びをする。
「行ってみるか。ちょうど、夕餉の頃だ」
伏は頷き、立ち上がった。
二人が立つのは、浅草八軒町の裏通りだ。
表通りを覗けば雷門を中心に賑やかな仲見世が広がるが、一本奥へ入ってしまえば、寂れた町並み暗い墓地。大川の流れも不気味に響く。
そんな薄闇を抜けた先に、ナマズ長屋とも幽霊長屋とも呼ばれる裏長屋がひそりと建つことを伏は知っている。
小袖の帯に母の形見の大小をさした伏が、父の前に立って大きく手を上げた。
「父上、あそこです」
貸本屋の間を抜けて、細いドブを越えれば件の長屋だ。
狭苦しい棟割り長屋の前には、兄の顔がある。
その隣で鬼奴が飛び跳ねて、ナマズの大家が頭を下げた。隣に立つのは、首でも伸びそうな色白の女、剥げた男に顔の長い男たち。
来訪を予想していたように、長屋からは飯の炊ける香りが漂っていた。
やがてどこかより、高く低く暮六ツの鐘が鳴る。
「暮に聞く鐘の音は、心地いい。そう思わんか」
父がふと、呟いた。
「無事に一日を終えたという、安堵の音だ」
伏も頷く、鐘の音と共に江戸の空が暮れていく。
「……良い音です」
それは、幸せの音だと伏は初めてそう思った。