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能舞台の大捕物2

 伏は邪魔な草履を脱ぎ捨てて、駆けて、駆けて、駆ける。

 匂いに誘われたどり着いたその場所で、ちょうど刀の触れ合う硬い音が耳に響いた。

 

(ここは……)

 邪魔な木戸を無理やりこじ開けて、転がりついたのは建物の裏。木々の生い茂る裏庭である。

 急に闇に包まれた伏は慎重に周囲を探った。

 鼻先にヒノキの香りが届き、伏は目を凝らす。

(……能舞台だ)

 伏の前に見えるのは、ヒノキで組まれた真四角の本舞台。庭にある客席に向けて、真っ直ぐに板が張られている。

 そして四方に置かれた薪がぼうっと音を立てていた。

 その薪の灯りの向こう、兄と銀次郎の姿が浮かび上がっている。

 義一郎は刀を手に、振りかぶったところだ。板の上には銀次郎が倒れ伏し、兄はその体に向けて今にも刀を振り下ろさんとするところである。


「殺してどうするのです、兄上!」


 思わず叫ぶと義一郎の動きが鈍る。それに気づいた銀次郎の足が動いた。

 腹を蹴り飛ばされ、義一郎の体が揺らめく。

 うめいて転がった義一郎の上に、今度は銀次郎が重なった。彼が手にしているのは鈍い光の匕首だ。

 伏は駆け出し、銀次郎の体を押す。と、銀治郎はあっさりと舞台の上から転がり落ちた。

「兄上、ご無事ですか!」

 死ぬ前に食べるのであれば、母上の好物の深川めしがよい……と、義一郎が伏に語ったのは、もう何年も昔のことである。

 兄はその香りを一心にまとわせて、ここにいた。

 銀次郎に斬られたか腕と顔には傷がつき、血がぬるりと溢れている。

 義一郎は伏を見上げて目を丸めるが、やがてその口元にかすかな笑みを浮かべた。

「お前に隠し事は……できぬな、伏」

「邪魔が入りましたな。しかし良き妹御でいらっしゃる。それにしても足がお悪いのではなかったですかな。嘘をつく時には、突き通さなければ、片手落ちです」

 気がつけば銀次郎が舞台によじ登っていた……手には匕首。

 伏は兄の体をかばい、腕を張る。

「兄上の無作法は謝ります。しかし、あなたにも咎はあるはず。あの位牌はなんと申し開きをされるおつもりですか」

「銀次郎……お菊を殺しただろう!」

 伏を押しのけ、義一郎が叫んだ。

「あの日、見世を燃やし……お菊を、殺したと分かっているのだ!」

 ひ弱な兄のどこにこんな力があったのか、伏は驚き目を丸くする。

「さあ、なんのことやら……聞いてください、お伏様。突然、下男に身を変えた兄上殿に襲われたのです。突然のことでしたので、斬りつけてしまったことは申し訳ない。しかし私もこのように」

 笑みを崩さないまま、銀次郎は切れた袖を指し示した。

「斬られました。そしてお伏様、私の位牌がいかがしましたか? 知り合いの女を供養していただけのこと……それよりも、あなたの兄上のほうがずっと問題になりますよ」

「やいやい。嘘をつくな」

 気がつけば鬼奴が伏の隣に滑り込み、猫の子のようには歯をむき出して呻く。

「お前、さっきより随分といい顔をしてるじゃねえか。その顔を見て、ようやく思い出したぞ」

 鬼奴は銀次郎を指差し、怒鳴った。

「お前、寺に女の死体を埋めただろう。埋めたのはお前んとこの下っ端じゃない。お前が女の体を穴っこに蹴りあげたんだ。俺はこの目でしっかと見た。お前の顔を覚えてる。ひと月前、満月の夜だ。忘れたとは言わさねえ。その時お前、俺の顔を蹴ったろう。そうか、あの女がお菊というのか」

「さあ……何のことやら」

 ふてぶてしく笑う銀次郎を見て、義一郎が懐に手を置いた。

「……煙草入れをあの日、あの火事の日……俺は拾ったのだ。燃えかすの、お菊の部屋で」

 その言葉を聞いて、銀次郎がはじめて笑みを引っ込めた。目が蛇のように細くなる。

「はて。煙草入れなど、どこにでも」

「ああ、煙草入れなら江戸中どこでも売っている。が、なめした革と象嵌を組み合わせた特注品は珍しい」

 ぽん、と鼓が鳴る音が響く。同時に笑い声もだ。廊下を挟んだ向こうの広間では宴もたけなわであるようだ。しかし、ここは薄暗くただただ静かで息を呑む音も響くほど。

「あの煙草入れはお前のものだな。聞きまわって、昨日になってようやく確証が取れたぜ。無くしたのはちょうどひと月前だというじゃないか。聞かせてもらおうか、なぜ火事の現場に燃えもせずに煙草入れだけが落ちていたのか……しかもお菊の部屋に。お前が火事のあと、あの切見世に立ち寄ったからだろう」

「……ああ、面倒ですね」

 銀次郎が義一郎を睨んだ。

「あの女、死んでからも迷惑ばかりを私にかける」

 その目に宿った禍々しい色こそ、彼の本性だろう。

「あれには聞かぬでいいことを聞かれましたので、殺しました」

 銀次郎の声は、高く響く。

 真新しい能楽堂の屋根に当たり、四方に建てられた柱に当たり、大きく高く響く。

 義一郎の顔が、すっと青白くなるのを伏は見た。

「き……聞かぬでいいこと?」

「知らぬでいいことを、あの女は知ってしまったのです」

 銀次郎は赤い舌でべろりと唇を舐める。 

「知っても黙っておけばいいものを、上に訴えるなどと……雉も鳴かずば撃たれまいとはこのことですね」

「それで、お菊以外にも」

「ええ。見られましたので、ついでに殺しました」

「火事を装うてか」

「切見世とはいえ、人の目もありますのでね。吉原から女が消えるには、2つしか方法がない」

「身請けか死か……俺が身請けをしようとした、矢先だった」

 義一郎の手が震え、顔がますます青く染まる。 

「死体は、やはりあの寺か」

「死体を隠すにはちょうどいい。ただそのままにしておくのも可哀想なので、上に料亭を建てます。大きな墓と思えば、彼女たちも幸せでしょう。立派な墓を建ててもらえるのですから……とはいえ私だって鬼ではない」

 ぼう、っとどこかで薪の燃える音がした。

 ここは静かな場所である。義一郎はうまく銀次郎をここに誘い出したのだろう。しかし主が戻らねば、いつか誰かが探しに来る。

 銀次郎はそれを分かっているのか、のんびりと言葉を連ねる。

「死んだあとには位牌をこしらえ読経もあげてやったのです。それなのに、浅草の廃寺に女の幽霊が出るなどという噂が」

「俺が流した噂だ。そう噂を流せば、脛に傷を持つ男なら、何かしら動くと思ってな」

 義一郎は目を細めて、言った。

「あの火事の日、俺はお菊を探した。が、見つからなかった。見つかったのは象嵌の煙草入れだけだ。遣り手婆に聞けば、そんな女はもとより居ないと白を切る。他の見世でも同じだ。ただ、別の見世の女が教えてくれた。あの火事の日、怪しい駕籠が門を抜けたとな」

 義一郎の言葉を聞いても銀次郎は動じない。どこふく風である。目が時折背後へ揺れるのは、助っ人を待っているのだろう。

「あちこち調べてみると、どこかの廃寺に殺した女を投げ込んだ男がいる、と噂に聞いた。だからどの寺か虱潰しに探してやったのさ」

「ああ、やはりあの時、きちんと始末しておくべきでした」

 義一郎の言葉を聞いて、銀次郎がぽつり、と呟く。

 握った拳が震え、ぎりぎりと音を立てているようだった。

「あの日……人目の無いうちに燃やしたつもりが、侍が一人逃げました。あの時私はあなたの顔を見ているのですよ」

 目つきがどんどんと恐ろしいものになる。

 その目を見て、伏の背がぞうっと震える。

 それは獣の目だ。人の目ではない。

「……しかしあなたはお侍。たかが切見世の女が死んだくらいで、こと荒立てることはあるまいと、追いかけることをやめたのです。それがどうでしょう。野良犬のようにあちこち嗅いで回って私に迷惑ばかりかける。次に見つければ必ず殺せと部下に命じましたが、それ以降はどこへ消えたものか顔もみせない……」

 銀次郎の言葉を聞いて伏の中で何かが繋がった。

(……この男から姿を隠すために、兄上はあの長屋に)

 そして追っ手に見つからないよう、伏に残りの寺を探らせたのも同じ理由だろう。

 今更ながらに伏は兄の心を知った。早くに言ってくれていれば、と悔しくも思う。

「まもなく、身請けをするつもりだった!」

 義一郎が叫ぶ。

 震える手に掴まれているのはべっ甲の簪である。美しい菊の型取りが、伏の目にもしっかと見える。

「お菊は……俺の作る飯を旨いと言うてくれた……」

 義一郎の声が震える。匕首で斬られたか腕から血を流してなお、兄は言葉を止めない。

「共に、料理屋を、と」

「どうせ私が殺さずとも、そのうち死んでおりましたよ。あれは病を持っていた」

「だから、余計に……俺は、あの子を」

 義一郎の手が、刀にかかった。

 斬るつもりだ、と伏は悟る。いくら罪があろうと、嫡男が刀をふるえば、ただではすまない。

「兄上!」

 立ち上がった伏は、杖で義一郎の脛を打つ。たまらず身を曲げた兄の手から刀を奪い、伏はまっすぐに刃を銀次郎へと差し向ける。

「おやおや、お嬢様が何をなさるかと思えば……危ないので下ろしなさい。綺麗なお手々を怪我してしまう」


「このような男、兄上が手を下すまでもない」


 お前は刀を持つと、目つきが変わる……と、叔父が伏に語ったのはいつの頃だろう。

 刀を構えれば、息が自然と整い腰が据わる。

 伏の目を見て、銀次郎の揶揄する声が止まった。

「ああ、あのときの若侍はあなただったのか。荒井家はおしまいですな、嫡子は放蕩、娘御まで……」

 伏は刀を掴んだまま、男を見つめる。銀次郎は悲鳴を上げるかどうか、迷うように数歩下

がった。

 その姿を見て、伏の背にぞくりと震えが走る。

(……人を斬るというのは、どんな心地なのだろう)

 この刃で銀治郎の喉を貫くは容易いことだ。

 いかに狡猾な男でも、伏の早業に敵う人間はそうそういない。

 息を3回吸う時間、それだけあれば伏は難なく銀治郎を殺すことができる。

 腹を割き、とどめを刺すこともできる。

「伏、邪魔だては……」

 義一郎が伏の顔を見て、言葉を止めた。

 おそらく、伏はこれまで見せたこともない顔をしているはずだ。

(まだ、私は人を斬り殺したことがない)

 いつか叔父が伏に語ったことがある。

 一度でも人間を斬り殺せば、太刀筋が変わってしまうと。

 斬った者と斬らぬ者では、刀の重さが変わるのだと。

(叔父は斬ったことがあるのだろうか……では、私に足りないものは、それなのではないか)

 頭に浮かんだのは、叔父の寂しそうな声だ、顔だ。

 お前にはまだ免許皆伝はやれぬと言った。あの顔だ。

 女だから無理なのか、腕に足りないものがあるのか、問い詰めても叔父は答えなかった。

(これを斬り殺すことができれば、叔父は、私を認めるだろうか) 

 伏の前、銀次郎は腰を抜かすように床に座り込む。先ほどまで浮かべていた獣のような顔は消え失せ、今そこにあるのは怯えた小心者の顔である。

 しかし伏はそれを人間とは思えなかった。人の肉を被っただけの、悪徳の塊だ。

(どうせこれを斬ったところで、この世から悪が一つ消えるだけ……)

 銀次郎は助けを呼ぼうというのか、口を開ける。しかし口から漏れるのは、掠れるようなうめき声。

 どこかでカア、とカラスが鳴いた。夜にカラスが鳴くはずもない。カラスは死者の使いであるという。

(今なら、斬れる)

 伏はしっかと、刀の柄を握った。手のひらに目釘が触れる。それが肉に食い込むほどに強く握りしめる。

(免許皆伝を貰えるだろうか……叔父に、誰より強いと、認めてもらえるだろうか)

 兄が何かを叫んだ。銀次郎も何かを叫んだようだ。しかし構わず腕に力をこめた。

 刀を上段に構え、深く足を踏み込む。

「……覚悟!」

 しかし、その切っ先は、想像よりも柔いものを切り裂いた。

「……っ」

 最初に見えたのは朱い色だ。それは血ではない。

 鬼奴の、赤い頭巾だ。


「うん、伏の腕はいつもすごいな。切れ味が良い」


 眼の前、銀次郎をかばうように、鬼奴が立っている。その額が割れ、血があふれる。

 そして、彼の朱色の頭巾がゆるやかに宙を舞い、地面に落ちた。

 銀次郎は完全に腰を抜かしたか、真後ろに転がったまま声もない。

「鬼……奴」

 伏は呆然と、小さな鬼奴の姿を凝視した。義一郎も、ぽかんと口を開いて鬼奴を見つめている。

 彼は少し恥ずかしそうに、額を指先で弾いた。

「伏、あんまりジロジロみるな。俺は人間より頑丈にできているから、平気だ」

 彼のあらわとなった額には、皮膚を突き破るがごとくの角が二本、生えているのだ。

「お……に?」

「だから最初から鬼と言ってるじゃないか」

 鬼奴は額から溢れる血をぺろりと舐めて、額の角を指で弾く。

「伏。本当に強いものは刀を出さないのだろう? 伏はこんな汚いものを斬っちゃだめだ」

 呆然とする伏の手から刀を取り上げ、代わりにずしりと重い杖を渡した。

 地面に転げたままになっていた、伏の杖である。

 それを伏に握らせると、鬼奴はにやりと笑う。

「見ろ、銭臭い男が逃げ出すぞ」

「待て!」

 地面に飛び降りた銀次郎の背を見た伏は、咄嗟に杖を握りしめる。ぐいと伸ばしてその先で、男の足をすくい上げた。

 打ち方が美しい、と褒めてくれたのは叔父だったか。そのことを不意に思い出し、伏は泣きそうになった。

 ……あの優しい叔父が、人を斬り殺せなどと言うはずがないのである。

「いいぞ、うまくやったな。あとは任せろ」

 伏の杖に足を取られて地面に転がった銀次郎をみて、鬼奴が手を打って喜んだ。銀次郎は痛い痛いと叫びながら地面を転がりまわっている。

「任せるといっても……」

「大丈夫だ、迎えが来る」

「迎え?」

「ほら、あっち」

 ……と、彼が静かにその手を闇に向かって指さした。

 能舞台のまだ向こう。篝火の光さえ届かない、闇がとぐろを巻く場所である。


「助け舟が来たよ」


 鬼奴の声と共に響いたのは、ここで聞こえるはずのない音だった。

 甲高く、鳴り響く拍子木の音である。

 

「ああ。良かった、見つかった、見つかった」

 

 そして、この場に似合わぬ明るい声だ。

「ほれほれ、悪い狐には、この音が一番良く効く」

 もう一度、拍子木の高い音が一面に響き渡った。

 拍子木の音を聞いて、銀次郎が呻く。

 まるで殴られでもしたように、頭を抱えて地面を転がるのだ。

「あなたが酒を飲んでくださって助かりました。おかげで、匂いが繋がった。我らの杯は、甘い甘い香りがしますので」

 拍子木の音と共に闇から顔を見せたのは、ぬめりと青白い男の顔。

「差配さん……」

 義一郎が驚くように呟いた。伏も思わず、兄の袖を握りしめる。

 そこにいるのはナマズをはじめ、幽霊長屋の面々だ。

 しかし先程深川めしを食らっていた時とは雰囲気が異なる。目は落ち窪み、口は朱い。

 手にした鬼灯提灯は半分裂けて、まるで叫ぶ女の顔のよう。

「今宵、助け舟が必要なのはこちらですかな」

 彼らは闇から溶け出すように現れて、ふと足を止めた。

 ナマズのちょうど足元に、情けなく転がった銀次郎の姿がある。

 彼は異様なその光景を見上げたまま、声もない。顔は青白く、唇は真紫だ。

 腰を抜かしたまま幽霊長屋の連中に囲まれた銀次郎は、やがてその手を掴まれた。

「あれ、は」

「だからずっと言ってるじゃないか。幽霊長屋には幽霊がいっぱいいるって……幽霊長屋は地獄に相性がいいもんで、そのまま連れて行ってくれるとさ。殺すこともない。一直線で手間が省ける。伏が手を汚すこともないだろう?」

 鬼奴は能舞台に腰を下ろしたままで、目の前の風景を見つめている。

 長屋の連中が銀次郎を無理やり起こして後ろから抱きすくめる。そして、まるで盆踊りでも舞うように、銀次郎の手を滑稽に動かした。

「今宵はちょうど盆の頃。地獄はちょうど空いておる。閻魔様も鬼たちも、さぞかしお暇であろうな」

「ちょうどよい、ちょうどよい。これは面白いお裁きがみられそうだ」

 銀次郎はもう声もない。長屋の連中によってたかって手足をぐねぐねと動かされながら、細い悲鳴のような歯ぎしりを立てている。

 楽しそうなのは、長屋の連中ばかりだ……いや、加えて見覚えのない女が三人。

 

「お菊……!」


 一人の女を見て、義一郎が立ち上がった。

 美しい打ち掛けと簪で身を飾った女である。その頭に刺さった簪は確かにべっ甲仕立ての菊模様。その女に、義一郎は泣きそうな声で手を伸ばす。

「俺もそちらに」

「義様、あんたは連れてはいかん」

 ぱん、と大きな音が聞こえる。お菊が兄の手を払ったのだ。

 しゃんと背筋の正しい、美しい手の女だ。

 彼女は伏を見て少しばかり頭を下げると、続いて義一郎の目を見つめた。

「地獄土産はこやつだけでじゅうぶんだ」

 大きく力強い目だ。死んでなお、これほど美しい女なのだ。生きていた頃はどれほどだったろう、と伏は思う。

「義さま、ここは我らがナマズの連中におまかせを」

 未練に腕を伸ばす義一郎の前に、ナマズが立った。彼は少し寂しそうな顔で義一郎を見つめる。

「遊女は生きて地獄死んで地獄といいますが、私たちは三途の川の奪衣婆に貸しが一つ二つ……ええっと、それどころじゃあないな。確か49はあったはず。女を一人見過ごすくらいは軽いこと……おお、おお。お芳、お前もだな。うんうん、そちらもだ。三人分、見逃してもらおうね」

 お菊の隣を見れば少し肥った女と、年増の女がいる。彼女たちはナマズの腕に腕を絡めて嬉しそうに紅色の口角を上げた。

「心配せずとも、三人とも無事に極楽浄土へ送り届けましょう。飯のお礼に助け舟を出すと、そう約束しましたからな」

 隣から、剥げた男が顔を出し義一郎を慰めるように、ぽんと肩を撫でる。

「代わりにこの男は無限地獄へ」

「そうそう、無限の地獄へ」

 男たちは銀次郎を掴んだまま、ずるずると闇へと消えようとしていた。

 呆然と、伏はそれを見つめることしかできない。

「お前たち……人……ではないのか」

「ええ。ただ向こうの住人でもありません。ナマズのようにぬらぬらと、地上とあの世の境目を、さまよい歩く者たちでございます」

 ナマズは深々と伏に向かって頭を下げた。

「すぐに戻りますゆえに。ええ、どうかまた、お慈悲を」

「お慈悲の飯を」

 うまかったなあ、ああ、うまかった。

 そんな声が行きつ戻りつゆっくり響く。銀次郎の悲鳴はもう聞こえない。モグラがずぶずぶと地面に埋もれていくような、そんな音が響くだけである。

 それもやがておさまって、残ったものは静寂と薄闇、そこに立ち尽くす伏と義一郎と鬼奴だけとなった。

「兄上……」

 伏は呆然としたまま、兄の顔を見た。能の舞台はそのままだ。土のあたりに何かを引きずったような跡はあるが、それもぷつりと途切れている。

 地面に降りて土に触れるが、そこはただの地面で、掘り起こしても土ばかり。

「掘っても何もでないぞ。地獄はもうずっとずっとはるか下だ」

 頭巾を被り直しながら鬼奴が胸を張る。

「俺は行ったことがある。すごいところだ。あの汚い男もきっと楽しめるさ。なんてったって地獄のお沙汰は長いから」 

 遠くから、にぎやかな宴会の音頭が聞こえてきた。

 彼らはまだ、ここの主が地獄へ消えたことを知らない。知ればきっと困惑するだろう、と伏は思う。

 地面をじっと見つめる義一郎を見つめ、伏はようやく長い息を吐いた。

「兄上……だから家に戻らなかったのですね。あの男を殺すため……潜んでいたのですね」

 伏は考える。

 お菊が消えたことを不思議に思った兄は、探りに探り石田屋にたどり着いた。

 だから将来、仇を討つことも考えて彼は家を出たのだ。平気な顔をして、道楽者を装って。

「……父上も叔父上もこのことを知って……知っていたのですね」

 知って、好きにさせていたに違いない。

「旗本の跡継ぎがこんな事件を起こせば、それこそ大問題だ。勘当されていれば、命をかけて好きにできると……思っていたのだが」

 義一郎はこの一瞬で数十年ほど老けたようにみえる。

 彼は力なく床に座り込むと、放り出されたままになっていた刀を掴もうとした。

「……今追いかければ、お菊と三途の川で会えそうだ。俺も逝く」

「お菊が救った命を捨てられるのですか」

 伏は手にした杖で刀を飛ばす。そして震える手で兄の腕を掴んだ。

 いつの間にかやせ細り、情けないほど小さくなった兄の体がそこにある。

「兄上が逝けば、お菊は怒ります。先程会っただけですが、私にはわかる。あれは芯の強い女です。兄上が惚れたのもわかる、強い女です」

 頬を張り飛ばしてやりたい衝動を押さえ、伏は弱った兄の体を優しく揺さぶった。

「……兄上、料理人になるのでしょう」

「伏」

「私が客の食べたいものをあてて、兄上が料理をするんだ」

「……伏」

「そういう約束じゃないですか。死んだら叶いません。夢が叶いません」

「心配するな。三途の川は遠いが、どうせ寿命がくればみんなそこへ行く。人の寿命なんざ、あっと言う間じゃないか。今会うも、後で会うも一緒さ」

 気がつけば鬼奴が無邪気に義一郎の顔を覗き込んでいた。頭巾で隠した額には、つんと尖った出っ張りが見える。

 伏は小さなその姿を、じっと見つめた。不思議と恐怖はない。

 角を見ても、幽霊を見ても、思い出すのは彼らがうまそうに飯を食う姿だけである。

「俺が本当に鬼か、と疑う目だな。見ろ、怪我がもう治りかけてるだろ」

 彼はにやりと笑い、額を指す。先程、伏の刀を受けた傷はもう柔らかく閉じようとしている。

「俺は真実、鬼らしい。人より丈夫で、人には聞こえないものを聞く。見ることもできる。でもそれだけだ。でも鬼なのだろうな。角もあるし。でも安心しろ。人は食べない」

 彼は頭巾の下に隠れた角をぽん、と叩く。

「俺を育てた爺さんは寿命で死んだ。いよいよ死ぬという時、俺に言ったんだ。お前、このまま飯を作ってくれる人がいなくなったら、人を食うんだろうと。他の人を食うくらいなら自分を食えとそう言って、死んだ。俺は腹が減って減ってどうしようもなく、爺さんの体を齧ろうと思ったが……俺の目から雨が降って、それがしょっぱくてしょっぱくて、どうしても齧れなかった。だから人は食わない」

「……人など、食ってもきっとうまくない」

 伏はふっと、微笑んだ。鬼奴の腹からぐうぐうと、腹の虫のなく声が聞こえたのである。

 生まれてからこの方、想像もしなかった世界がここにある。

 聞きたいことも問いただしたいこともある。しかし、そんなことよりも、今、目の前に腹を空かした者がいる。

 それを解決するのが先だった。

「なあ鬼奴。お前が食いたいものは、人の飯だろう。それも兄上の飯だ……兄上」

 床に座ったまま静かに涙を流す義一郎の腕を、伏は掴む。

 右手には鬼奴、左手には義一郎。

 ずっと鍛えてきたのだ。二人を支えるなど、わけもない。

「帰りましょう。飯を作ってください。共に食べましょう。私が食べたいものを当ててあげます……深川めしだ。思い詰めて深川めしを食っても、母上も浮かばれまい。飯は旨いといって食わねば」

 左手に兄の涙が降り落ちてくる。

 伏も気づけばぼろぼろと、涙を零していた。

 近くの広間はまだまだ宴が続いている。賑やかな三味線の音と嬌声が混じり合う。

 それでも、二人の流す涙の音の方が大きく響くようだ。

 並んで泣くのは、幼い頃以来である。

 昔から、兄と並んで泣くとすっきりしたものだ。一人ではないと、心強く思えたものだ。

 今もまた、伏の心の奥は温かい。

 もう大丈夫だ。不思議とそう思う。

「楽しい飯を、食いましょう。兄上」

 伏は、まっすぐ前を見つめてそういった。

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