能舞台の大捕物1
ちんとんしゃんの三味線の音が、伏の耳を不快に汚す。
女の嬌声、馬鹿騒ぎ、どこかで皿の割れる音。
「……」
伏は静かに室内を見渡す。
(嫌な空気だ)
混じり合う不快な匂いに、伏は眉を強く寄せた。
長屋の連中に見送られ、屋敷に戻って2日が経った。
兄は相変わらず戻らないまま。行方を案じている間に、石田屋への使いの日が来てしまう。
こういった時の嫌な予感というのは、よく当たるものである。
腹の底にぞわりと重苦しい気持ちを溜め込んだまま、伏は石田屋から案内された駕籠に載る。
連れてこられたのは、浅草の裏、2階まで用意された巨大な料亭である。
入り口には派手な石田屋の紋が揺れており、砂利道もわざとらしいほどに白い。
室内に入れば、そこは畳の目まで掃き清められた綺麗なもので、中にはすでに膳が用意されていた。
「趣味の悪い店だな」
部屋を見て鬼奴がぼそりとつぶやく。なんとしてでも付いていくといって聞かないので、女中の小袖を着せて密かに連れ出したのだ。
いつもの頭巾はおかしいから取れと言っても、頑なに取ろうとしない。派手な朱色の頭巾だけが妙に浮いているものの、想像よりも大人しくしているので伏はほっと息を吐く。
「飯もまずそうだ」
膳の上に載った飯を見て、鬼奴が眉を寄せる。食い物であればなんでも飛びつく彼が、珍しくも鼻にシワを寄せている。
伏もまた心の中で頷いた。
(冷えた飯か。刺し身も乾いている。煮物もいまいち、色がおかしい……)
立派な膳に載る飯は、どうにも食欲のわかないものばかり。
そんなものに、男や女が群がっている。いずれも立派な武家の男に、身なりの良い女たち。
しかしすでに酒が回っているのか、広間はひどく乱れている。
美しい芸姑が三味線をかき鳴らせば、やんやと声が飛び撒き散らした酒が香る。
香るのは欲と酒の香りばかり。誰も食事のことなど考えていない。
「お伏どのですか」
湿ったような声を耳にして、伏は思わず腰に手を伸ばしかける……が、今は男の恰好ではない。それに気づいて伏は慌てて杖をしっかと握りしめる。
父が持っていけとといった杖は、ずしりと重く伏の指に絡む。
「石田屋の……銀次郎さまでいらっしゃいますか」
「おお。美人と名高いあなたを初めてこの目で見ることが出来た。なるほどお美しい」
振り返れば、そこに立っていたのは銀次郎。
先日、廃寺で見かけた時よりも表情が柔らかい。
しかし、やはりその目は笑っていない。
「食事はまだでしょうか。どうぞ、どれも八百善に負けず劣らずのものを揃えております」
腰も低く、彼は言う。
しかし伏は動けない……彼の体から香るのは、生臭く耐えられないような臭気なのである。
(あの時、同じ香りがした……)
この男と出会った時、嗅いだ臭いだ。そして同じ臭いを伏は前にも嗅いでいる。
それは鬼奴とはじめて出会った時、にじられた団子を拾い上げた時だ。
(やはりこいつの臭いか。食べ物の匂いがしない人間は珍しい……こんな嫌な香りを持つ人間も)
いうなれば、欲と脂を混ぜ込んで一つの鍋で煮詰めたような臭いである。
彼は伏の顔をじっと見つめ、眉を寄せた。
「どこかで……お会いしたことが?」
「人違いでしょう。足を悪くして、長く外には出ておりませぬ」
銀次郎が不意に眉を寄せたので、ささやくように伏は言う。
震える声の演技ならお手の物。杖をわざとらしく握りしめてみせると、銀次郎から疑いの色が消えた。
そして彼は怪しい笑みを浮かべたまま伏の前を去る。残されたのは、相変わらずの広間の馬鹿騒ぎ。
「あいつ、変だ」
広間の一番隅に腰をおろした鬼奴が伏にささやく。
「ああ……食べたい物が何も匂わなかった。欲深い臭いだけ」
「うん、耐えられないくらい臭いだったな。絶対どこかで会ったはずなんだ。あのくっさい臭い……どこかで嗅いだ」
彼は酒も食事も求めていない。彼から香るのは、意地汚い欲望の臭いである。
「怪しいな」
鬼奴と宙で視線が交わり、二人は同時に頷いた。
人が多ければ多いほど、忍び歩くにはちょうどよい。
外はすっかり暮れてしまい、周囲にぶら下げられた提灯の灯りだけがぼうぼうと明るく光る。
広間など客の集まる場所はうるさいほどだが、料亭の奥に進むと一気に静寂だけが支配していた。
伏は足音を忍ばせて、裏の廊下を進む。鬼奴もこういったことに慣れているのか、忍び歩きは伏より巧い。
料亭の奥には行灯もなかった。
壁に手を付き前へと進めば、やがて金箔貼りの襖が目に入る。花鳥図が描かれた立派な襖が、月明かりに浮かび上がる。
「ここが仏間か……」
そっと開けば、それは広い部屋だ。奥には黒塗りの仏壇が見える。
施餓鬼の読経はすでに唱え終わったのだろう。奥の大広間には、座布団が重なり雑然としている。
大きな仏壇の前には線香の香りがかすかに残っていた。
「施餓鬼を行ったのは、本当のことのようだ」
「あんな男がそんな立派なことをするかなあ」
「廃寺を潰して料亭を建てるそうだ。あんな男でも仏罰を恐れているのでは、と父上は言っていたが……」
客の中には坊主の姿もあった、と伏は思い出す。とはいえ、あれも破戒坊主の一人だろう。坊主は芸姑の膝に戯れながら酒を飲んでいた。
そのような坊主が行う施餓鬼など、推して知るべしだ。
「しかも料亭なんて……」
廃寺といっても奥まったところにある古いもので、客を寄せられるものではなかった。朽ちるばかりで、時折死体が投げ込まれるような寺である。
(……妙だ)
疑問がどんどんと不気味に大きく広がっていく。
(欲深い男の施餓鬼……あんな場所に作られる料亭……廃寺に、石田屋が目をつけた理由……)
「伏、この板はなんだ?」
鬼奴の声に、伏ははっと顔を上げる。
仏壇を覗き込んだ鬼奴が、黒い板を手に握りしめていた。真新しく、ぴかぴかと輝くような位牌だ。それを見て、伏は首をかしげた。
「位牌だ……しかし、施餓鬼になぜ位牌が?」
「いっぱいあるぞ」
一枚、二枚、三枚。
それはいずれもできたばかりの位牌だった。何気なく覗き込み、伏の背がぞっと震える。
「お輪……お芳……お菊?」
一番最後の位牌に刻まれているのは、お菊の文字。まるで泣いているかのように、文字の最後がかすれている。
「なんで、ここにお菊の名前が……」
どこかで、コオンと高い音が響いた。それはどこかの寺で鳴らされる終いの鐘の音。高く低く、清らかな鐘の音だ。
その鐘の音を聞いて、伏はふと思い出す。
廃寺には鐘はないが、鐘楼の跡地だけが残されていた。その下に、不思議な土団子があったはずだ。
それはまだ新しく柔らかい土の塊に見えた……その数、ちょうど3つ。
伏は位牌を抱きしめたまま、震える声で鬼奴に尋ねる。
「……鬼、寺に女の死体が放り込まれたと言っていたな」
「ああ、ちょうどひと月前だったかな。穴の中にぼとりと3つ落とされた。可哀想だったから、俺が土をかけてやったんだ。打ち掛けと簪を盗ったが、それは埋め賃みたいなもんだ」
打ち掛けも簪も、遊女の持ち物だ。落ちた簪を見た途端、顔色を変えた義一郎の顔を伏は思い出す。
「あのべっ甲の簪……あれは何の花がかたどっていた?」
「菊の花」
鬼奴の答えに、伏は思わず立ち上がっていた。
「兄上……もしや」
義一郎は一回だけ、伏の前で顔色を変えたことがある……べっ甲の簪を見た時だ。
「兄上?」
位牌を握りしめたまま、伏は顔をあげる。無意識に、鼻がひくひくと動く。
ふと、鼻先に甘い匂いが香ったのだ。
「伏?」
「香りが……する」
その香りを嗅ぎわけて伏は震える声で呟く。
「深川めしの香りが……」
それは、深川めしの、甘い香り。香るはずのない匂い。
それを嗅いだ瞬間、伏の額から汗が噴き出た。
どこかから、刀の交わる音が聞こえる。伏は耳もいい。
「まさか!」
伏は広間を駆け出し、庭に飛び降りる。と、裏の門が蹴り開けられているのが見えた。
「伏、おい、どこへ行く!」
鬼奴を振り切って走る、走る。目的地は伏にもわからない。ただ、匂いを辿って走るだけだ。
素足で大地を踏みしめて、指の先が切れたのがわかったが、痛みなど感じない。
それよりも、甘い甘い香りが近づいてくるのが恐ろしい。
「兄上が……」
この香りが指し示すのは、兄の存在だ。兄がここにいることが恐ろしい。このような場所に兄がいるとすれば、彼の目的は一つだけ。
「兄上が、いる!」
伏の声は情けないほどに震えていた。