思い出の深川めし
外はもう薄闇。夜の虫だけがかしましい。
木戸番がうごめいていたが、鬼奴が不思議と人気のない道を知っていた。
長屋に向かうには、件の廃寺を通り抜けるのが一番の近道だという。
再び廃寺近くにたどり着く頃には、夜6ツの鐘が鳴り、あたりは一面の闇である。
「伏、誰かがいる」
……と、鬼奴が足を止めたのは、廃寺の一歩手前。
闇に目を向ければ、道の向こうで提灯が揺れていた。
「何やつだ」
伏が声を出せば、向こうも動きを止める。手にした提灯の光に照らされて、うっすらと細面の男が見える。
提灯の光が伏の顔をたらりと撫でる。まぶしさに目を細めると、男ははっと動きを止めた。
「……まさか、貴様は」
男の目が鋭く光り、低く呻いた……が、伏が睨むと慌ててその提灯を引っ込める。
「失礼、知り合いかと……」
それは細面で、狐のような目を持つ男だった。
目は細く、笑っているようだが、怒っているようにも見える。肌が妙に白い、不気味な男だ。
彼はちらりと鬼奴を見る。値踏みするような視線に伏の目が尖った。
「妹を不躾に見るのをやめていただきたい」
と、伏が声を張れば、男は大仰な姿勢で首を振る。
「いえいえ、お侍さま、そのようなことは……」
念のために男のなりをしてきてよかった、と伏はほっと息を吐いた。少なくとも、ハッタリは効く。
「私はしがない店の主でございます」
男は伏から目を離さないまま、ゆっくりと腰を曲げる。
「こたびはお侍様に大変な失礼を……知人に似ていたものですから」
「知人相手にしては、ひどく殺気だっていたな」
「いえ、貸しのある男なのです。そいつは私から逃げ回っておりまして……いやはや、まことに失礼をいたしました……ところで……このような場所で、何を?」
なるほど光に照らされたこの男、商人のようななりをしている。口が達者であるのもそれらしい。が、目つきは鋭い。
「知り合いがこの近くに住んでいる」
「お侍様のお知り合いがいるような場所ではありますまい」
「いるのだから仕方あるまい……ところで」
伏は男の持つ提灯をちらりと見て、息を飲む。
(……石田屋、なるほど。こいつが銀次郎か)
石田屋、と書かれたその提灯は、この寺で見た提灯と同じもの。そして父から聞いた施餓鬼の主……銀次郎というのもこの男だろう。
つまり、この男の手下が、廃寺で団子を踏み潰したのである。
潰れた団子を思い出し、伏の腹に力がこもった。
「一つ尋ねる。ここに、お前の店の若いものをよこしたことは?」
「さて、若いものは、どこへなりとも遊びにいきますので」
「団子が踏みつけられていた。その隣にお前の持つ提灯と、同じものが落ちていた。食い物を粗末にする人間に商売ができるとは思えない」
「それはお目汚しを」
伏はさりげなく男に近づき、鼻を動かした。
(……はて?)
伏は感情を押し隠し男を注視する。
見つめる伏に気づいているのかいないのか。彼は表情の読めない顔で微笑んだままだ。そして彼は奥にある廃寺を指す。
「さてさてお侍様。ここから先は寂れた寺しかありません。もう住職もいない寺です。それを抜けても、寂れた町ばかり。それにこのあたりは治安もよくありません」
石田屋が伏を見る。どろりと黒い瞳である。粘りつくような視線だ。伏は思わず、足を半歩、下げた。
石田屋は半歩、前に出る。男の手がさり気なく、懐に置かれる。それを見て、伏の手がゆっくりと腰に伸びた。
「なあ。伏、もう飽きたぞ」
……と、空気を割ったのは、鬼奴の高い声だ。
同時に、拍子木がぶつかり合うような音が一帯に響き渡った。
伏も驚いたが、石田屋は大いにひるんだ。石にでも引っかかったのか、体が揺らぐ。
宙に泳いだ腕を、鬼奴ががっしと掴む。
「なあ、お前、懐に美味そうなもんを入れてるじゃあないか」
カアン、と高い音が響いたのはその時だ。
彼の懐から何かが転がり落ちたのである。
石田屋の顔色がさっと青く染まり、落ちたそれに見向きもせず背を向けた。
動きは狐より素早い。伏がぽかんと見ているうちに、彼の背中はあっという間に遠ざかっていく。追いかけるすきもない。
紗で織られた羽織が風をはらんで大きく膨れるのが見えた。やがて草履の音もざりざりと、石田屋の影は消えていく……角を曲がったのだろう。
「危のうございましたなあ」
ふと気がつけばすぐ背後に朱い提灯が揺れている。まるで鬼灯のように朱い提灯である。
伏がぎょっと目を見張れば、なんということはない。そこにいたのはナマズの大家と長屋の住人だった。
大家は大きな拍子木を懐にしまい込むと、提灯で地面を照らす。
「火の用心で回っていたんですがね、いやいやこの拍子木は音が煩すぎるほどでして……しかし良いこともあるのです。こいつは魔除けの拍子木と言われておりましてね、悪いことをしようとする連中の耳には痛く響くようです。昔から言うでしょう、小心狐には拍子木がよく効く、と……おやおや」
大家がひょいと拾い上げたのは、小さな匕首だ。石田屋の懐から転がり落ちたものである。
ナマズのようなひげを揺らし、大家がほほほと笑った。
「こんなものを持っているなど、剣呑剣呑」
「なあ伏。あれはどっかで見た顔だ……もう一回追いかけてひっ捕まえてこようか。もう一回顔を見れば思い出しそうなんだ」
鬼奴が匕首を見て、目を尖らせた。しかし伏はゆっくりと刀から手を離す。
「……いや、お前がなにかするまでもない」
匕首を見ても伏は恐怖を覚えない。むしろ笑いそうになってしまうほどだ。
このような小さな物で伏をどうにかできると思っていたとは、お笑い草である。
「御徒町の叔父には口癖があってな。刀は抜いたほうが負けなのだ。強いものは、剣には頼らない。私はまだまだだな……ところで、あなた方はこんな時刻に夜回りか」
気づけば、幽霊長屋の面々が揃っている。
ナマズを中心に、顔の長い男、おかめのような女、短足男に一反もめんに似たひょろひょろとした男。
皆、着るものはボロボロで顔も痩けている。こんな暗がりでばったり出会えば悲鳴でも上げそうな面立ちだ。
しかし、彼らは恐ろしい顔に愛嬌のある笑みを浮かべて腹をさする。
「いや、正直に申しますとどうにも腹が減りまして……お恥ずかしながら、皆でほうぼう駆け回り、食材などを集めようかと……」
「腹が減っているのか」
鼻を動かすまでもない。
あたり一面に香るのは、炊きたての米に酒の匂い。沢庵の甘い香りや蕎麦の汁の匂いまで、様々。皆一様に腹をすかせて様々な食物を思い浮かべているのである。
それを嗅いで伏は思わず笑ってしまう。
「では、救ってくれた礼に、飯を馳走しよう」
伏がそう言うと、幽霊長屋の人々の顔に満面の笑みが咲いた。
幽霊長屋の一番奥。傾いだ扉を苦労して開けて、伏は首をかしげる。
いつもなら腹が空いたと大騒ぎをしながら出てくる兄がいない。中を覗けば、部屋は薄暗く行灯さえ灯っていなかった。
「留守か。まったく、木戸が閉まる時刻もまもなくだというのに……どうせお菊という女のところにいるのだろうが」
何をしているのやら。と、伏はため息をつきながら行灯に火を入れる。
柔らかい光で見えた部屋は、昨日より綺麗に整っている。
「まあいい、あがれ。兄上がなにか食事を残してくれていたらいいのだが……」
「おや? なんとも、美味そうな匂いが」
一歩入れば、ナマズが目を蕩けさせる。後ろに続く鬼奴や住人たちも、まるでよだれでも流さんばかりに空気を嗅ぎはじめた。
鼻を動かし、伏は笑う。
「……はは、分かった。甘じょっぱい、これは深川めしだ」
「ふかがわめし?」
ぷんと漂ってきたのは、甘く煮含められたあさりの香りだ。
「ああ、あさりとネギをこっくりと炊き上げて、たれごと炊いた米に混ぜる。上から海苔や紫蘇、胡麻などをちらりと落として混ぜて食う。元々は深川の漁師が腹ごなしに食べていたもので、武家の飯とは程遠いが」
しかし伏はその味を、知っている。
「……兄上がこしらえていたのか……ああ、夕餉にしたのだな」
土間に降りて竃を覗けば、米が炊きあがっていた。隣は黒い汁。すくえばアサリとネギが顔を出す。
甘い香りはこれが原因だ。
義一郎は食べてから出かけたのだろう。汚れた丼鉢が隣で水に浸かっている。
「皆が腹をすかせているのなら、兄上だって怒りはせん。おい、皿を持ってくればついでやる」
そう伏が声をかけると、長屋の面々がワッと湧く。一斉に外へ駆け出したかと思うと、めいめいが欠けた丼鉢を持って駆け戻ってきた。
鬼奴などは自分の顔より大きな丼を持ってきて、おかめ女に文句を言われる始末である。
「案ずるな、いっぱいある。押すな押すな」
伏は丼鉢に炊きたての米を盛る。上にアサリと汁をたっぷりとかけてそっと台所を抜け出した。
鬼奴はそれを見て、目玉がころりと落ちそうなほど、大きく目を見開いた。
「うまそうだ!」
鬼奴は丼を受け取るなり、顔を突っ込むようにそれを食らう。
鼻先に、唇に、米粒がついても気にしない。まるで吸い込むようにぺろりと平らげると、彼はいつまでも唇を舐め続けた。
見ればナマズを含め長屋の人々も、外で中で好きな所で丼を抱え込んで食べている。
伏もひとすすり、汁を舐めてみる。甘いつゆの奥にアサリがごろりごろりと転がっているのだ。喉の奥がひりりと引き締まるような味だった。
「うまい!」
「それはよかった。母も喜ぶ。これは母上の好物だったらしい」
「……らしい?」
「母は私が5つの時に亡くなった。だからうっすらとしか覚えていないが……確かに幼い頃一緒に食べた記憶がある。父と母の出会いが深川で、参拝帰りの母を悪漢から救ったのが父だという話だ」
あたりは一面、深川めしの香りが漂っている。
この香りは伏にとって馴染みの深いものだ。きっと今頃、家でもアサリの汁がコトコトと煮込まれていることだろう。
「思い出の味なのか?」
空っぽになった丼を大事そうに抱えたまま、鬼奴は伏をじっと見つめていた。
その視線があまりに優しいので、伏はぽつりぽつりと言葉が漏れる。
「母が深川に参拝に出たのは、深川飯が好物だったせいらしい……」
伏は語った。
幼い頃、母に手を握られ町を歩いた。その時に聞いた話だ。
旗本の長男である父と、御家人の家に生まれた母との出会いは庶民が集まる深川の一角だった。
初めての出会いの後、二人は並んで深川めしを食ったという。
深川めしを食べると、父の姿が今でもまぶたに浮かぶこと。今でも時折密かに父と二人、深川に出かけること……母は幼い伏に、そう教えてくれた。
「母は亡くなったが、月命日には深川めしを供えることにしている」
伏は語り、微笑む。
毎月13日、家に来た人々はこの香りに驚かされる。武家の家にしては、あまりに粗野な香りだからだ。
「兄上も、家から離れてなお、その気持ちを忘れていなかったのだな」
父も兄も口にはしないが、今でも母を思っているのだ。
母という太い芯で、家族は繋がっている……それは嬉しいことだった。
「兄も好物で、死ぬ前に食べるとしたらこれだな、などと……いや、別にこんな話をしたいわけじゃないんだ」
鬼奴の素直な目を見ていると、知らず知らずに言葉が漏れる。伏は慌てて首を振った。
気がつけば、皆が伏の周囲に集まって、しんみりと耳を傾けているのである。
「米粒がついているぞ。ガツガツ食うな。いっぱいある」
「いや、本当にうまくて、お恥ずかしい、お恥ずかしい……しかし、本当に良くしていただいて」
「母が、よく言ってたんだ」
甘い香りを嗅ぐうちに、思い出したのは母のことだった。
と言っても、顔の造形はほとんど忘れた。ただ、彼女の言葉はうっすらと覚えている。
「人間、腹をすかせると妙なことを考える。それではあまりにも哀れだと」
だから母は時折、下町の子どもたちに饅頭などを渡していた。それを悪く言う連中もいたようだが、喜ぶ子どもたちの顔を見て、伏も嬉しくなったものだ。
「あなたたちの優しさは御母堂の教え故か、この深川めしというのは味が五臓六腑に染みわたるようです。ほんに美味しい。ああ、ここに義さまがいらっしゃれば、耳にタコができるほどお礼をいいましたものを」
「兄が帰ってくれば、ぜひ聞かせてやってくれ」
空っぽになった丼を抱えたままそわそわとする人々を見て、伏は微笑む。おかわりを入れてやると、皆が満面の笑みとなった。
(兄上は、皆のこのような顔を見たいと思っているのだな)
美味しい美味しいと響く声、人々の腹が満たされればあたりには優しい匂いが広がる。
だからつい、想像してしまうのだ。
(兄上が料理屋をするのは、よく似合うだろうな)
日本橋か浅草か、どこかの片隅の小さな店で煮炊き茶屋をする兄の姿を伏は想像した。
武家の息子からは程遠い、料理人の恰好で客と他愛のない話をしながら煮炊きをするのだ。その隣には、お菊がいて甲斐甲斐しく飯などを運ぶ。
伏は店の隅っこで、客の料理を当ててやる……きっと客は喜び、笑うだろう。そこに父や叔父も遊びに来るのだ……。
「兄は料理が上手だ。料理人になりたいというのは幼い頃の夢で、私も応援していたはずなのに」
兄に謝りたい。伏は心の底からそう思う。しかしどこへ出かけたものか、家には兄の姿はない。うまいものだけを残して、兄は出ていったまま。
「伏さま。飯のお礼です。酒を、どうぞどうぞ」
じりじりと、入り口を見つめて動かない伏の前に、ついっと差し出されたのは欠けた盃である。
顔を上げればナマズが酒とっくりを片手に微笑んでいた。
彼の持つ盃には透明の酒が揺れている。壁に吊った鬼灯のような提灯が、表面に映り込み朱くゆらゆら妖しく光っていた。
「酒は……飲み慣れぬ」
「試したことのないことは、試されるのがいい。人の命は短いのだから」
断るも、ナマズは強情だ。ぐいとさし出された盃を、伏は仕方なくぺろりと舐める。
「……む、む……」
酒というが水に似ている。水よりも柔らかい。
「不思議な味だ」
スイカの汁のようであり、山で飲む湧き水のようでもある。
旨さに引かれ、くいっと飲み干せばナマズがすかさず二杯目を注ぐ。続いて三杯。杯を重ねるごとに、ふわふわと心地よさが体の底から染み出した。
「いやあ、嬉しゅうございますな。義さまはお酒がいけないクチでして、杯を受け取っていただけないのですが、伏さまはお強うござる」
禿げ上がった頭をペシャリと叩いて、ナマズが言う。それを見て伏はふわふわと笑った。その顔を見て、鬼奴が伏の袖を引く。
「なあ伏、お前もここに住もう。そしてここで料理屋をしよう」
兄と共にこの陽気な連中と過ごすのも、楽しいかもしれない……そう考えて伏は首をふる。 いくら酔おうとも、武家の自分がちくりと心をヒネるのである。
「私は母に似ているらしい。おしとやかで……武家の女のような、だ。きっと、父は私がこのような恰好をしていると知れば卒倒する。ましてここで住むなど」
「お武家ってのはどうにも面倒だなあ」
「そうだな……面倒だ」
空には美しい満月が浮かんでいる。昨日、鬼奴と出会ったときも満月だったように思える。思えばこの場所は、不思議と時の流れがないようだ。
(このまま、ずっと、ここで……ああ、兄上、早く戻ってきてください。皆が待っております。今頃腹でも、空かせているのではないか……)
「いやはや、まったくお世話になりました」
ついつい眠気に引きずられかけた瞬間、伏は明るい声に起こされた。
「我々は貧乏長屋の住人ですが、受けた恩は忘れませぬ」
気がつけば、路地に長屋の面々が並んでこちらに頭を下げているのだ。
鍋の中の汁も米も空っぽだ。みな満足そうに唇を舐めて、嬉しそうに微笑んでいる。
「困りごとがあるときは、きっと、あなたの助け舟となりましょう」
ナマズは、ぬとりとした瞳を細めてそう言った。
月が出ているはずなのに、皆の顔が薄暗い。影も見えぬ。はて、皆の顔はどのようなものだったか、起き上がって近づいても彼らの顔は不明瞭だ。
「受けた恩は必ず返す、我らはそれを信念としております」
「……恩?」
「そうです。この世はまるで荒れ狂う川のようなもの。平穏な日々でも突如荒れ狂うこともありましょう。溺れそうになることもありましょう。そうなれば、我らはいつでも助け舟を出します……恩を忘れぬというのは、そういうことです」
その声は、地面から響いているようだ。
酒に酔った足取りで、伏は扉の前に立つ。
壁に釣られた幽霊長屋の看板がカタコトと音を立てる。まるで、意志を持って笑うように。
しかし不思議と恐ろしさを感じない。
「ああ……ありがたい」
伏はただ、静かに頭を下げた。