父と娘
早朝の光がそよと差し込む、心地の良い朝だった。
しかし廊下の向こうに大柄な影を見て、伏は足を止める。
「伏」
その影は威厳のある声を放った。低く、静かな声である。
声を聞くだけで、伏は思わず背中が震え肩がこわばった。
「父上……」
廊下に立っているのは誰であろう、荒井家当主の荒井義憲である。
「お……おはようございます」
伏はそっと、纏う小袖の膝に触れた。
男のなりをして出歩いているのは父には秘密だ。
今は頭の結い方も恰好も元に戻し、淡い化粧も施している。それでも父にはすべてを見破られそうで、伏は慌てて頭を下げる。
(……父上が朝から屋敷にいるのは珍しい……)
父を前にすると、伏の背がまっすぐに伸びる。老けたとはいえ、父の目はいまだに鋭い。
「伏よ、最近よくでかけているようだな」
「琴に花に……裁縫に……と」
父が伏の嘘に気づいたかどうか。
彼は「そうか」と、短く答えると伏の肩にそっと手を置く。
「くれぐれも義一郎の所になど顔を出すな。あれはもうこの家の人間ではないと思え」
「ち、父上。兄上にも落ち度はございましょう。しかし言い分も聞かずに一方的に勘当とは……きっと、きっと兄上にも事情が……」
「伏、いくつになる」
「……年が明ければ20となります」
ふと、父が目を細めた。
「まこと、鈴に……母に似てきたな」
「それは……」
どういう意味ですか。と、いいかけた伏の言葉を、物音がかき消した。
使い走りの男が庭先から父を呼んだのだ。
彼から何かを耳打ちされると、父は眉を寄せため息をつく。急用でもできたのか、父は忙しそうに草履を用意させていた。
「ああ、そうだった。伏、明後日はあけておきなさい」
息をつく暇もなく草履に履き替えながら、彼は伏を見る。
「使いを頼みたいことがある」
「父上、使いとは……」
「石田屋の銀次郎という男が、浅草で施餓鬼を執り行うそうだ。私は少し用事がある。名代で付け届けを頼みたい」
「施餓鬼?」
盆の季節、死者の霊魂を慰め徳を積むための法要として、施餓鬼を行うのはよくあることだった。
この季節、そのような会に呼ばれることも多い。しかしなんとも急なことだ、と伏は眉を寄せる。
「どうも浅草の廃寺を潰して、新しい料亭を作るのだそうだ。それに先駆けてのお披露目会のようなものだ」
「廃寺……」
「浅草八軒町近くの古い寺と聞いた。潰れた寺とはいえそこを料亭とはな……まあ、本人も少しは仏罰を気にかけて、施餓鬼など似合わぬことをするのだろう」
父の言葉が伏の胸底をざわつかせた。
ぷんと香る、饐えたような匂いを思い出したのだ。なんとも嫌な、奇妙な空気の残る寺であった。
「石田屋……とは」
石田、その名前に伏は引っかかりを覚える。記憶を弄りやがて目を見開いた。
その名前を、伏はあの墓地で見た。
大地に落ちた石田屋の潰れた提灯、同じように潰された団子の跡。
「日本橋にできた新しい料亭だ。銀次郎はその主だが、ほかにも料亭をいくつも動かしているやり手だ」
「料亭、ですか」
「食道楽を謳っておる男だ」
団子を踏みつける部下を持つ男が食道楽なものか……口にしかけて、伏は慌てて飲み込んだ。廃寺での出来事は父には言えない。
「頼むぞ、伏」
そのすきに、女中が父の背に羽織をかける。今から急ぎ、城に上がるのだという。忙しそうな父の姿を見ると、伏はもう何も言えない。
しゅん、と沈み込む伏に父が何かを手渡した。
「伏。施餓鬼には、この杖を持っていきなさい」
押し付けられたのは、ずしりと重い杖である。不審に思い伏は父を見上げた。
「足は悪くありませぬ」
「行き遅れの娘だと噂になっているのでな、足が悪くて嫁げないことにしている。それにこれを持てば護衛になろう」
父の言葉はひりりと伏の傷に染み入った。
女中がなにかいいたげに父を見上げたが、彼は構わず庭へと飛び降り伏に背を向ける。
「……はい、承知いたしました。父上」
だから伏は、ただただ静かにそう呟くことしかできないのである。
伏は薄暗い廊下で一人、座り込む。
時刻は朝から昼となり、やがてゆっくりと夕暮れに向かっていった。気がつけば庭が赤く染まり、カラスが飛んだ。
(なるほど、今の女中は饅頭を食べたいのか)
廊下を若い女中が走っていく。そのぷくぷく膨れた体からぷんと香るのは甘い酒蒸しまんじゅうの香りだ。
最近、本所あたりでうまい酒饅頭を出す店ができたと噂に聞いた。
使い走りの合間に、密かに買い食いなどをしているのかもしれない。
(こちらは……ハマグリの焼き物だな)
庭を掃く下男からはハマグリの香りと酒の匂い。
武家に仕える奉公人は、盆になると小遣いとお仕着せを与えられて休みがもらえる。
その時、独身の男たちは実家に戻らず安い煮炊茶屋で酒を飲むという。下男はそれを楽しみにしているのだろう。
伏の鼻が感じ取るのは、人々の生き様だ、風景だ。食べ物を思うとき、人は皆幸せな空気をまとわせる。
そんな香りを吸い込んで、伏は膝に額を押しつけた。
(……このような力、何の役に立つ物か)
剣術は苦労を重ねて身につけたが、嗅ぎ分けの能力は天賦の才である。
幼い頃はこの力を見せつけて、周囲の大人を驚かせたものだ。食の細い兄の食べたいものを当てることで、おせんには随分喜ばれた。
しかし今、武家の娘としてこのような力は何の役にも立たない。兄を説得することも、父に真実を伝えることさえできないのである。
(兄は飯屋、私が客の食べたいものを当てる……か)
兄がうれしそうに語った言葉を、伏は思い出す。
(客は喜ぶだろうな。ならず者が来れば、私が腕を振るう。兄上は、料理を作って、それで町民は喜ぶんだ。もしかすると父上もお忍びで来られるかもしれない。おせんも杖をついて店に来て、それで……)
賑やかで楽しい未来だ。ただ、それは叶わない未来だ。
(……ばかばかしい。そんな、子どもの頃の、幼い夢を)
拭き清められた廊下の向こうで人の声はざわめくが、ここに人はいない。伏は苦しい胸をぐっと押さえて、膝を抱えて座り込む。
その体に、小さな影がさした。
「伏、泣くのか?」
明るい声だ。驚いて顔を上げれば、どこから入り込んだが鬼奴が立っている。彼はきょとんと目を丸くして、伏を覗き込んでいる。
「鬼奴、いつの間にここに来た」
彼は頭を覆う手拭いの端を持ち上げて、「ばあ」と子でもあやすように笑みを浮かべてみせた。
児戯に似た鬼奴の動きを見ているうちに、伏は思わず笑ってしまう。
「ようやく笑ったな」
鬼奴も歯を見せて笑い、伏の隣に滑り込む。
「あいつに、お前が泣くかもしれないから慰めてやれと言われた」
「あいつ……?」
「アニウエだ」
伏は慌てて目の端に浮かんだ涙を拭った。
「兄上め……お前も律儀に守らんでいい」
彼は相変わらず女物の小袖をまとっている。帯の端が夕日の中でゆらゆら揺れて、まるで金魚の尾のようだ。
「守るさ。あの男には恩がある。恩は返さなければいけない、というのがあの長屋の決まりなんだ」
「恩とは?」
「何度も飯を食わせてくれたし、長屋のあちこちを修理してくれた」
鬼奴の素足の先は汚れていて、体は哀れなほどに痩せている。その体からぷん、と甘い香りが漂った。
「お前また腹をすかせているな」
伏は思わず、苦笑する。
「……なになに……筍の煮たものに、ふきのとう、鮎に……なんだ季節外れのものばかり」
「爺さんの家は山にあったんだ。いつも俺に山のものを食わせてくれた。春になったらな、爺さんが喜ぶんだ。飯がいっぱい食えるぞって。いっつも春は美味かったなあ」
鬼奴は伏の隣に腰を下ろし、よだれでも垂らしそうな情けない顔で笑う。
「春の葉っぱはちょっと苦いけど、うまいんだ。でもさ、江戸の葉っぱは駄目だよ。犬のしょんべんの臭いしかない。あと、山だと魚もぴちぴちして、食べごたえがあるんだ」
「今は無理だが、季節が来れば江戸でもちゃんと美味しいものを食べられるさ」
「本当に?」
「ああ、春になればみな、食べられる」
季節が巡れば、と伏は思う。
秋が深まり春となれば、父の怒りは解けるだろうか。兄もお菊のことをどうにかして、家に戻ることができるだろうか。
(……来年、20となるが)
伏はぼんやりと、暮れゆく庭を眺めた。年を告げたときに見せた父の顔が気にかかった。伏を嫁にやるのかもしれない。そう思うと、急に胸の奥が苦しくなる。
来年、兄が戻り家が整ったとして、伏の未来は薄暗い。
結婚などすれば男の恰好で刀を振るうこともできない。今のように自由に動くこともままならぬ。
(……仕方ない、それが生まれ持った定めだ)
薄暗くなった気持ちを振り払い、伏は襟を正した。一日、ここでぼんやりと過ごしてしまった。さすがに女中に案じられる頃である。
「私は大丈夫だ。お前はもう帰れ。兄上のことはそのうち……それまでは兄を、どうかよろしく頼む」
「伏。お前、今は女の恰好をしてるが似合わないな。前の恰好のほうがよっぽどいい」
適当に追い払おうとしたが、その手を鬼奴が掴んだ。幼く小さな手だ。しかししっかりと引き締まった手のひらだ。
苦労を重ねた手だ、と伏は感じた。
「……鬼奴、違うんだ。私の前の恰好がおかしい。おなごは、この恰好で普通なのだ」
「伏。本当にやりたいことは、裁縫や琴なのか?」
「鬼奴」
伏は小さなため息を漏らす。幼い頃から何度ついたかわからないため息だ。ため息をつくたびに、兄は「幸せが逃げるぞ」などと茶化すように伏をつついたものだった。
「盗み聞きとは行儀が悪いな」
伏は自分の腕を見る。袖から見える腕は、武家の娘らしからぬしっかりとしたものだ。
固く張り詰めている。幼い頃から、一心不乱に稽古をこなした。その証明のような腕だ。花や琴には似合わない腕である。
「私の……やりたいことは」
幼い頃から剣術は好きだった。
刀を手に取り振るうだけで、全身が水に撃たれたがごとく静まりかえる。
御徒町で剣術道場を開く叔父は、早々に伏の腕を認めてくれた。
しかし女の恰好で刀は振れない。そこで男のなりをして、道場に上がりこむことを覚えた。
身分は荒井家に仕える中間の三男坊だ、ということにした。
最初こそ中間の味噌っかすと馬鹿にされたが、今では負け知らず。伏が道場に顔を見せると皆の顔も引き締まる。
そんな空気の中で伏自身、天狗になったのかもしれない。
免許皆伝への自信を持って挑んだ試合では、見事に勝ち抜いた。
もう御徒町の道場で、伏にかなう人間は誰もいない。
叔父はよくやった。と声を掛けるだろう。免許皆伝の一筆を、皆の前で披露するかもしれない……そう期待に胸を膨らませる伏に下った言葉は無情だった。
(……でも、免許皆伝にはならなかった)
叔父は伏を褒めなかったのだ。
お前の剣には一つ足りない物がある……叔父は静かにそう言った。
免許皆伝であれば秘蔵の刀を渡されるはずだ。
しかし叔父が伏に渡したのは、彼が古くから愛用している練習用の大小だ。
それを見て、伏の心はポキリと根っこから折れてしまった。
……そんな時、兄出奔の話を聞いたのだ。
「私の、やりたいこと」
ぽつりと、伏は呟く。
望むらくは、剣術で道を立てたかった。武家の娘が望むことではないかもしれないが、伏の腕と叔父の後押しがあれば、掴めるかもしれない夢だった。
それが駄目になった今、伏の足元はガラガラと崩れ落ちてしまった。
「……きっと私は、兄上が羨ましかったんだ」
つん、と鼻の奥が痛くなり、伏は額を膝に押し当てる。額が熱を持つ。それは羞恥から来る熱である。
「一人で自由に生きている兄が。私の夢は潰えそうだというのに、兄上は一人で気ままに過ごされている……」
伏は兄を憎んでいたのではない。
ただ、羨ましかったのだ。自分には出来ないことをしている、兄が。
自分の夢が叶わぬ今、兄も道連れにしようとしていた。
「……なんと浅ましいことか」
「落ち込むな、伏。握り飯はそこまで怒ってないぞ」
「握り飯?」
「お前のアニウエだ。俺は人の名前を覚えるのが苦手だ」
鬼奴の無邪気な声に伏は思わず笑みが溢れる。
「うん、伏はやっぱり笑うほうがいい」
鬼奴の目が、半球を描いて微笑んだ。
「握り飯は俺の爺さんと同じ、いいやつだ。俺が悪さをした時も謝れば爺さんは許してくれた。だからきっと、あいつも謝れば許してくれる」
「……お前、両親は?」
「俺は拾われっ子だよ。山の中に捨てられてたんだ。でも寂しくない。爺さんは飯がうまかったし、生きる知恵を色々もらった」
気がつけば庭に夜が来ている。
りいりいと虫が鳴き、月のあかりが注ぐ。暑い夏もとうに終わりをつげて、秋らしい空気がじわりと滲み出している。
屋敷の中は静かだ。父は出かけたきり帰ってこないのだろう。
家のものはみな、用事でもしているのか気配もない。
いつもこんな風に静かになるのが寂しくて、いつも兄と遊んでいたように思う。その兄も、今はいない。
庭や家の片隅に、幼い頃の自分が見えた気がして、伏はふと微笑む。
ひっつき虫と揶揄されるくらい、兄と自分はいつだってそばにいた。
伏は張り詰めていた肩の力を抜いて、ふうと息を吐く。
子供らしい体温の鬼奴のそばにいると、心がほろほろとほぐれて行くようだった。
「……私も母を幼い頃に亡くしたんだ」
思わず、ぽつりと伏は漏らす。
母という言葉を漏らすだけで、胸の奥が熱くなる。
あまり人の前では身の上話をしないようにしている。だというのに、鬼奴には心をほぐす不思議な力があった。
「母は大人しくて武家の娘らしい人だったのだろう。父上は私のことを母にそっくりだという……私もそうなりたかった。あの優しく、美しい人になれるように努力をしたのに、どうしたって刀だけは手放せない」
「伏は伏だ!」
庭に降りた迷いカラスを追いかけて、鬼奴が高く跳ぶ。
細い手足がぽーんぽーんと飛び跳ねて、それは美しいくらい自由に見える。彼は、無邪気に大地を蹴って飛ぶ。
伏も昔は同じように飛び跳ねていたはずだ。できなくなったのは、いつからか。
してはならぬ、できないのだと、自分に呪いをかけていたのは、いつからか。
「俺は伏が好きだ。食い物を当ててくれるし、何より強い。俺は強いやつが好きだ。強いやつは、謝れるんだ。爺ちゃんは、そう言ってた」
とーん、とーんと地面を叩く足の音が、庭に響く。まるで舞うように、飛ぶように。
「だから俺によろしくって言うんじゃなく、お前がよろしくするんだ。アニウエに」
「しかし、今更」
「今更もなにもあるもんか。もう20年近くきょうだいなんだろう?」
鬼奴の言葉に、伏の胸が詰まる。
幼い頃、伏と兄も同じようにこの庭で遊んだ。
そして、夢を語り合った。
(あの時から10年経ったが)
優しい義一郎の顔を、伏は思い浮かべる。
(……そうだ。私達はまだ兄妹のはずだ)
大きな手のひらも優しい声も、少し困った性格も、幼い頃から変わっていない。変わって歪んでしまったのは、伏の性根だけである。
「兄上は、許してくれるだろうか」
「当然だ。お前はまだ妹で、アニウエはアニウエだ」
「……来い、鬼奴」
じわりと浮かんだ涙を拭い、伏は立ち上がった。
まもなく夜だ。夜は姿を隠すのにちょうどいい。
「兄上に謝りに行く」
そう言うと、鬼奴は本当に嬉しそうに微笑んだ。