満月月夜のゆうれい長屋
伏は兄の長屋を飛び出して、呑気に浮かぶ満月をぎろりと睨んだ。
そして荒々しい足音を立て、この裏長屋を抜けようとする。
そんな伏の耳に、虫の吐息のような声が聞こえた。
「もし」
木戸も閉まろうかというこの時刻、聞こえるのは虫の音色と風の音だけのはず。
突如かけられたその声に、伏は思わず足を止めた。
「もし……義さまのご家族の方で?」
長屋を抜けた先、表通りに出る細道に複数人の影がある。
思わず刀を掴みかけたが、じっと目を凝らしてみれば何も恐ろしいことなどない。そこにいるのは、町民だ。
……多少薄汚れ、やせ細ってはいるが。
「お前たちは」
「ナマズ長屋の者でございます。まあ幽霊長屋、のほうが名前が通っておりますが」
先頭に立つのは、多少身なりがこざっぱりとした男だった。顔がのっぺりとしてナマズに似ている。
「ああ、幽霊絵を描くという」
「おやご存知で。お恥ずかしながら、売れぬ絵ばかり描いております。差配……大家のナマズと申します」
伏の予感の通り、男はそう名乗って頭を下げた。
「おお、聞いてください弟様。あの方はほんに、ええ人で」
「見ての通りここは貧乏長屋でして、へえ」
「義さまには、ほんとうに良くしていただいているのです」
ナマズが頭を下げれば、後ろに立つ男たちが口々に話し始めた。それを聞いて、伏の手は刀から離れる。
はげ頭におかめ顔。みんな痩せっぽっち。
なるほど鬼奴の言うとおり、まるで幽霊のような連中だ。これが幽霊長屋の住人だろう。
「あたしたちが義さまに騙されている……なんて仰っていましたが。むしろ、あたしたちは義さまに助けられたものでして……ああ、盗み聞きではございません」
つるりとした額に汗を浮かべて、ナマズがぺこぺこと頭を下げる。
「貧乏長屋では言葉は漏れて聞こえるのです。義さまが責められてましたので、こいつは誤解を解かねばと、皆でお待ちしていた次第なのです」
「夜分、騒がしくして申し訳ない」
「……出会いは半年ほど前でしょうか」
謝って立ち去ろうとする伏を、男の声が遮った。
気がつけば、すっかり住人たちに囲まれている。音もなく集まってきた人々をみて、伏は仕方なく再び足を止める。
「お恥ずかしながら吉原の常連だったんですよ、あたし達と義さまは。そして義さまはお菊、私はお芳という女が相方で……場末の切見世ですが、そりゃいい女がいましてね」
ナマズは恥ずかしそうにくねくねと、腰をくねらせ顔を赤くさせる。
「見世の前でよく顔を合わせるようになると、なんといいますか、不思議な連帯感といいましょうか……つまりは、ええ仲良くなりました。飯なんぞ奢ってくれるようになりまして……お武家様はたいてい恐ろしいものだと相場が決まっておりますが、義さまは本当に優しくしてくださって」
「お歯黒ドブくらいしか見えねえ、そりゃあきたねえ見世ですがね。あそこは長屋連中の行きつけだったんで」
禿頭もナマズに続いて、夢見るように目を細めた。
「どっちも貧乏なんで、女とも妙に親しむんでさ」
「……ただねえ、火事がねえ」
ナマズがふと、声を沈める。
「ひと月前、火事が出たんですよ。それで、みいんな、焼け出されてしまって。そりゃもう」
周囲を気にするように、ナマズが小声になった。
「……えらい大騒ぎでしてね。その時、ちょうど義さまも見世にいて、一緒に焼け出されちまいました。女たちも怪我をしたり髪が焦げたり大騒ぎで」
「火事など……聞いていないな」
伏はその言葉を聞いて眉を寄せる。
兄が出ていった後、お菊についてはよくよく調べたのだ。
しかし見世の遣り手婆は火事のことなど一言も口にしなかった。すげなく、「お菊はいない」と繰り返すばかりである。
だからきっと、義一郎がお菊を身請けしたのだと伏は思い込んでいた。
「そりゃ秘密ですよ。不審火でしたんで……火事が出たことも、けが人のことも、吉原中の箝口令でしてね。八丁堀にでも嗅ぎつけられたら、大変なことになってしまう」
ナマズは震えるような恰好をしてみせる。
火事と喧嘩は江戸の花などと粋がってみせても、実際のところ火事は忌避すべき存在だ。火事を出せばどのようなお咎めがあるか分からない。
だから皆、ぼや程度であれば火事の痕跡を隠そうとする。
「……お菊」
伏は思わずつぶやいていた。
「もしや、怪我をしたのか、その女は」
伏の言葉を聞いて、彼らは神妙にうつむく。
「……そして兄上が、お菊を助けた……?」
兄を連れ戻すことに精一杯で、兄とお菊の出会いを知ることはこれまで無かった。
義一郎はおそらくその火事に乗じてお菊をさらったに違いない、と伏は考える。
「見世のものに、相談もせず……?」
身請けの金を惜しんでさらったのではない……と、伏は悟った。
怪我をした最下級の遊女は手当もされずに放り出される。
特に火事が原因の火傷など、医者に診せればそこから秘密が漏れてしまう。
怪我の具合が一刻も争うものであれば、遣り手婆と話をする時間も惜しいだろう。
(身請けをしたのでは、ないのかもしれない……そうか、緊急で足抜けさせたのか)
足抜けとなれば事情が変わる。吉原の女が逃げ出せば、ガラの悪い連中が目の色を変えて女の行方を探しだす。
後で金を積めばいいという問題ではない。一度目をつけられれば、脅されて骨の髄までしゃぶられる。
その被害は兄だけでなく家にまで及ぶだろう。
吉原の目を恐れ、家にも戻れず兄は潜伏しているのだ……伏はそう納得する。
(阿呆な兄だ)
伏はそう思うが、罵ることはできなかった。
焼け出され、困り果てた女を兄は救ったのだ。そして家に迷惑をかけまいと、隠れ住んでいるのだ。
女も家も見捨てられなかった兄の思いを、伏はさんざん、踏みにじってきたのである。
「……まあ色々ありまして。義さまはお屋敷に戻れない、と困っておいででしてね」
ナマズは声を潜め、伏の耳にささやいた。
「困った時はお互い様と、義さまをこの長屋にお連れしたんですがね、なあ。みんな」
「そりゃあもう、義さまはわしらに感謝して。もったいないことで……そのうちにここに住んでくださった上、壊れた長屋の修繕費だと言って、1両という大銭をぽんとお出しになって」
「おかげで、まあ雨漏りも治りました。無事に盆の灯籠も立てられて」
誰かが言って、長屋を指す。
そこにはゆうらゆらと、切り絵細工の灯籠が揺れている。風もない夜なのに、それは静かに揺れて暗い道に黄金の光を落としていた。
「どうか怒らんでやってください。あの人ほどいい人を、あたしたちは知らないんで」
どうか、どうか。彼らは伏に頭を下げてぱらぱらと長屋へ駆け戻る。やがてあちこちのボロ屋に光が灯り、闇深い裏長屋がしっとりと淡い光に包まれた。
一番奥、兄の家だけが未だに光も灯らず、ただただ静かだ。
伏は踏み出しかけた足を、止める。
「なあ。謝りに行かなくていいのか」
ふと、気づけば後ろに鬼奴が立っていた。大ぶりの夕顔をちらした茶色の縞柄の小袖を蝶柄の帯で締め、頭には相変わらずの朱い手拭い。
彼女は……彼は頬を膨らませ、伏を見上げた。
「もう怒るな。あの簪はあいつにくれてやったぞ。でも刀はもらってない。伏にとって大事なものなんだろう?」
「鬼奴」
「伏、お前も悪いぞ。怒って話も聞かずに出ていくんだから。でもあいつも悪い。呼び止めなかった。そうやって、ちゃんと話し合ってないからどっちも悪い。お互い嫌い合ってもいないのに、なんで喧嘩なんかするんだ」
鬼奴はまるで子供のように手を振り回し、伏を見上げた。幼いその仕草に、伏は思わず苦笑を漏らす。
鬼奴の言うことは、全て正しい。
「分かっている」
「俺を育ててくれた爺さんは、謝るときはすぐに謝れと言っていたんだ。間があくと謝るのが難しいって。爺さんにできて、なぜ伏はそれができない」
「……分かっているのだ」
兄に対して言い過ぎたことを、伏は悔やんだ。
「……分かってる。兄上が優しいことも、私が悪いことも」
兄が優しいことなど、他人に諭されなくても昔から伏は知っているのだ。誰よりも知っているのだ。
しかしなんと謝ればいいかが分からない。謝る言葉を百通りも考えて、やがて伏は首をふる。
「でも今は頭を冷やしたい」
りいりいと虫が鳴く、なんとも物寂しい夜である。