義一郎の握り飯
「……で、連れて帰ってきたのか」
兄の呆れ声が、伏の耳にちくりと刺さった。
小さな声でも貧乏長屋にはよく響く。
外は月の射す音しか聞こえない、そんな夜も深い時刻であればなおのこと。
「仕方なく、です」
渋々呟く伏の隣には、鬼奴が口をとがらせ座り込んでいた。
頬が赤く腫れているのは、伏が思い切り殴りつけたせいだ。
その頬をつついて、義一郎が苦笑を漏らした。
「俺の妹は、あいも変わらずお人好しだな」
「声が大きいためです。近所のものが集まっては困る……おい、鬼奴も不貞腐れるな。謝ったではないか」
「……不貞腐れてない。怒ってるんだ」
鬼奴は泣きそうな目で伏を睨んでいる。
「女だから女と言っただけなのに、殴ってきた。しかも思い切り腕まで引っ張った。伏は凶暴だ」
目を潤ませる鬼奴を見て、伏はため息をついた。
あの後……鬼奴が無邪気にも伏の秘密を見抜いたあと……伏は仕方なく彼女の腕を掴んで兄の元に引きずって来たのだ。
力の強い鬼奴に手こずるうち、確かに何度か腕を引っ張った気もする。
「殴ったのは申し訳ない、腕を引っ張ったのも……仕方なかったのだ。突然だったから……」
これまで、この恰好をして女と見破られたことはない。この鬼奴、よほど勘がいいらしい。
「だから何度も謝っている……私がおなごだと……妹だと知られるわけにはいかんのだ」
伏が藍染の羽織袴に若衆髷というなりで潜むのにはわけがある。
いま、荒井家では「兄は病だ」として出奔をひた隠しにしているのだ。
しかし親戚の中には父や兄を疎ましくおもう一派があり、僅かな疵を探す者がいる。
伏が女の恰好で出かければ、後をつけられるだろう。そのうちに、兄が裏長屋に身を潜めていることを知られてしまう。
伏が迂闊な行動をすれば、あっという間に噂が広がるに違いない……義一郎が遊女を匿って、家から勘当されていることが。
だからわざと男のなりをして、屋敷から遠回りをして長屋に足を運ぶようにしていたのだ。
「口さがない親戚連中に見つかれば、きっと引きずり落とそうとする人間が出てまいります。父上としても決断せざるを得なくなり、そうなれば……」
手討ちとなるのでは。と、伏は声の震えを押さえた。
「まさか父上もそこまでは、な。どうせ俺はもう見捨てられているのだから。それより、鬼奴」
義一郎はにやにやと笑いながら、涙目の鬼奴をつついた。
「頬が腫れただけで良かったな。こいつが本気で怒ればその首、無かったかもしれんぞ」
呑気な義一郎の言葉を聞いて、鬼奴が亀の子のように首を縮める。それを見てまた義一郎は大笑した。
「冗談だ。俺の妹は力はあれど、人は殺さん……しかし、しばらく見かけないと思ったが、廃寺にいたのか……おお、伏。こいつはな、俺の真向かいの長屋の住人だ。俺がここに来た時には居たのだが、あちこち出歩いてほとんど家に戻らんという。ナマズの差配さんが心配しておったぞ」
「墓や寺を巡ると供え物が食べられるから、盆と暮れの時期は食いっぱぐれないんだ。でも邪魔な奴らに目をつけられて、伏にまで殴られたからもう行かない」
鬼奴は唇をぷうとふくらませる。
伏が斬った唇の傷口は、もうほとんど分からない。幼さゆえに治るのも早いのだろう。それを見て伏はほっと安堵の息を漏らす。
「ようし、鬼奴。詫びに腐った団子より良いものを食わせてやろう。伏、こいつは何を求めている」
義一郎にじっと見つめられ、伏は渋々漏らした。
「……握り飯」
「鬼っ子。伏に会ってよかったな。真に食いたいものが食えるぞ」
義一郎は伏の胸中など知らぬ顔で、冷えた米を握り始めた。それを見た鬼奴は目を見開いて子兎のように跳ね回る。
「握り飯だ!」
「これだけじゃないぞ。もっと旨くしてやろう」
義一郎は嬉しそうに微笑んで、皿を出した。
そこにおせんの味噌を一匙乗せて、とろりと輝く味醂で広げていく。
そうして出来上がった味噌たれを、握り飯にたっぷり塗ると竈の上でちりりと炙る。
やがて狭い部屋の中、味噌の焦げる甘い香りが広がった。
美味そうな香りに義一郎がにやりと笑う。焦げる直前に引き上げたその上に、胡麻をはらりとふりかけた。
「これをな、焼きいい、というのだ」
「焼きいい、たべたい!」
「熱いから気をつけろ」
冷めるのも待ちかねて、鬼奴がそれを掴む。口に放り込む。熱い熱いと悶えて転がり、それでも焼きいいは離さない。
やがて彼女は顔中に味噌と米粒を引っ付けたまま、満面の笑みを浮かべた。
「うまい!」
一つ、二つ、まるで吸い込むように食べるその様をみて、伏の手も思わず伸びた。
一口噛みしめると、甘い味噌の味が口の中いっぱいに広がる。続いて米の柔らかい味わいだ。米が炙られて少し焦げているのも香ばしい。
仏頂面で焼きいいを食べる伏をみて、鬼奴が小首をかしげた。
「うまいが、伏。どうして俺に飯を食わせる? 怒ってたのに?」
「腹を空かせた人間を、放ってはおけん」
伏の代わりに兄が答える。
「……のだよ、この子は。難儀な力だろう」
「力?」
「妹には奇妙な力があるんだ……匂いで人の食べたいものを当てる。それは隠していても、自分自身でそう思っていなくても、こいつは当ててくる。刀の腕もたつが、鼻も効く」
焼きいいを頬張りながら、兄は言う。その言葉を伏は仏頂面のまま、聞いた。
「……だからな、俺は昔から伏に頼んでおるのだ。俺がどこかで煮炊き茶屋を開く。伏は客のふりをして店に潜み、密かに客の食いたいものを当てる。客はきっと驚くだろうな。話題になれば商売敵がやくざ者を送り付けてくるかもしれんが、そこは伏の剣術が役に立つ。どうだ、俺の計画は」
「子供の頃の冗談を、いつまで仰っているのやら」
伏は味噌で甘く染まった唇を拭い、首をふる。
幼い頃の情景が瞼の裏に不意に浮かんだ。
まだ子供の頃、伏が腹を空かせると兄が台所に忍び込んで飯を作ってくれたものだった。
兄は剣術はからきしだが、料理だけはうまかったのである。
そして伏といえば、飯こそ作れないものの剣術には自信があった。
義一郎をいじめる連中を、一網打尽にするのはいつも伏の役目だった。
だから約束をしたのだ。兄は料理屋を、伏は免許皆伝となって兄の用心棒を。
……ただし、それももう、10年も前の話。
(あの頃は、何も分からぬ子どもだったのだ。だからあれほど無邪気に約束が交わせた)
伏の胃の腑がぎりりと痛む。それを押さえて伏は兄を睨んだ。
「兄上。寺には幽霊なぞいません。いたのはガラの悪そうな連中だけです。この鬼奴も申しております。これで解決でしょう。約束通り、屋敷へ戻っていただきます」
「ふうん」
「実際に寺の様子を探った私と鬼奴が申しておるのです。それとも女の言うことは聞けぬというのですか」
「男だよ」
……と、義一郎がつぶやく。
そして彼は何でもないような顔をして鬼奴を見た。
「鬼奴、その綺麗なおべべを脱いでごらん」
口も手も米粒まみれにした鬼奴が、素直に打ち掛けを投げ捨て帯を解く。
するすると蛇のように帯が落ち、中の小袖も一緒に崩れる。ずるりと中から現れたのは、まだ幼いながらも男の体であった。
ぽかんと目を見開く伏を見て、義一郎が手を打って笑った。
「女が男のフリをして、男が女のフリをする。面白いものだ。まあ鬼奴がこの恰好をするのは相手の油断を誘うためだと聞いたが」
「だから伏と俺はそっくりだ。って最初に言ったじゃないか」
鬼奴は呆れたような顔で伏を見つめ肩をすくめる。
伏といえば、顔を背けるのに精一杯だ。
幼いとはいえ、男の体をまじまじ見るのはどうにも気恥ずかしい。耳のあたりがカッと熱くなるのを、義一郎が見つけて意地の悪い笑みを浮かべる。
「せめて下を纏え、鬼奴。伏が照れて仕方がない」
「ふん、脱げと言ったり着ろと言ったり忙しいな……死んだ爺さんが言ってたんだ。女の恰好をしておけば、相手が油断する。伏だって、俺の姿を見た時びっくりして、刀が止まったろう? 女の恰好なら相手から逃げるも殴るも容易いから……おっとっと」
鬼奴が小袖を引っ張り上げた途端、襟に隠してあった簪がごろりと音を立てて床に落ちた。
拾おうと俯けば、頭巾で隠した髪の中から出るわ出るわ、他の簪がぼろりぼろりと床に舞う。
「わ、わ、わ……売り物にするつもりなのに、傷が入っちゃ面白くねえ」
鬼奴は慌てて手拭いを押さえるが、隙間からからんからんと簪が落ちる。そのうち一つが義一郎の足元へ転がった。
それはべっ甲仕立ての洒落た簪だ。先に花の型取りがしてあって、闇の中でも眩しく輝いていた。
義一郎はふと、それに視線を落として目を細める。
「……なあ、鬼っ子よ。その簪をどうした」
「拾った。角の奥に壊れた寺があるだろう。ちょっと前まで立ち入り禁止になっていた……そこを覗いたらさ、隅っこに女の死体が重なって、その手前の穴には打ち掛けや簪、笄なんかがポンポンだ。他にもあったが隠してある。俺が先に見つけたんだから、俺んだぞ。ほしけりゃ何かと交換だ」
鬼奴は簪と打ち掛けを小さな手で抱きしめたまま、口を尖らせた。が、義一郎はじっと簪を見つめたあと、鬼奴を部屋の隅へ手招く。
「きれいな簪、お菊にやれば喜ぶな。俺に売ってくれ。金は無いが、これをやる」
彼が手にしたのは、部屋の隅でホコリを被っている長物……それは刀だ。黒漆に塗金を敷いた美しい拵えで、鍔には家紋が彫られている。
それを惜しげもなく差し出した義一郎をみて、伏は思わず立ち上がった。
「兄上! そ、それは家の宝です。それを手放すということは、どういうことか、おわかりで……」
「鬼奴よ、この刀では不服か? 物はいいぞ、保証する」
「兄上、こちらを見てください、兄上!」
「ほら、受け取れ、鬼奴」
しかし、兄は伏の顔も見ない。鬼奴に刀を差し出したまま、動かない。
「兄上!」
たまらず彼の膝を揺すれば、義一郎は鬱陶しそうに伏の手を払うのだ。
「……家は捨てた。今の俺は荒井義一郎ではない。浅草八軒町、幽霊長屋に住む便利屋の義だ。お前もそろそろ家にこだわるのはやめろ。お前にも夢はあるはずだ」
細い義一郎の目がまっすぐに伏を射抜く。その視線に、伏はぞっと背を震わせた。
「夢……など。兄上が……ただ、家に戻ってくださるだけで」
「剣術を極めると語ったではないか」
「幼い頃の世迷い言です。おなごの身で剣術など」
「叔父上の道場を破っておいて」
兄の言葉が伏の胸をずきりと打つ。が、表情を引き締め伏は義一郎を睨む。
「あれは、伏ではなく伏三郎と名乗って参りました。ですので、真実を知るのは叔父上のみです。私も生涯口にするつもりはありませぬ」
「では、俺が屋敷に戻ってなんとする」
「兄上が家をお継ぎになれば、私は嫁に出ます。刀も捨てます。お家の大事を前に……このようなもの」
「伏」
とん、と風が吹いた。戸を揺らす風である。
その音と兄の冷たい声が重なって、伏は思わず身をこわばらせた。
痩せっぽちの兄から漏れたとは思えないほど、それは厳格な父の声によく似ていたのだ。
「それを聞いて、ますます戻りとうなくなった。妹の不幸を願う兄がどこにいる。お菊もきっとそう言うに違いない」
兄の言葉に伏の背から汗が吹き出した。しかし、伏はその衝撃に耐える。
感情を抑え込むのは簡単だ。昔から、伏は我慢ばかりして生きている。
動揺を隠すには、怒りの矛先を変えれば良い。
「なるほど。女だ……お菊が兄上を変えたのですね。先だって用立てた銭まで女に吸われて……女で家を潰すおつもりか」
顔も見たこともない、お菊が憎い。と、伏は思う。怒りで膝が震え、目の奥がずんと痛む。
「……もう兄上など、飢えて倒れて苦しめば良いのだ!」
振り絞るような声で、伏は叫んだ。