廃寺の鬼奴
夏の夜はしんしんと音をたてるように暮れていく。
夜5ツの鐘が鳴れば夜も本番。人無き道であれば闇はもう一段深くなり、手にする提灯だけが唯一の明かりとなる。
義一郎のいう廃寺とは、幽霊長屋から比較的近い場所に点在していた。
1つ目はすでに新しい寺ができている。坊主によると、もう5年も前から新しい寺だった。という。廃寺などとんでもない話だと坊主は歯をむき出して怒った。
2つ目は人々が集まって盆の支度などをしていた。聞けば普段は子供の遊び場になっているという。
無論、いずれの寺にも幽霊どころか女の死体もありはしない。
(どうせ徒労に終わると思っていたさ)
足には自信があるが、無駄働きには疲れも出る。
(まあこれで、最後の一つだ)
足にむち打ち、伏が最後の廃寺にたどり着いた時、夜はこんこんと更けていた。
最後の寺は、浅草の一番奥に位置している。
明かりを頼りに寂れた大通りを曲がり、伏は提灯を高く掲げた。
「ここが寺か」
そう、伏が疑うのも無理はない。
鐘楼は崩れ落ち、中の鐘は消えていた。屋根さえ今はないのである。
鐘楼がこの有様なので、本堂は推して知るべしだ。大黒柱だけが虚しく残り、地面には割れた瓦の残骸が散らばっている。
(本当に人に忘れられた寺があるとは……)
眼の前の惨状をみて、伏はぞっと背を震わせた。
耳に聞こえるのは、しんしんと虫の鳴く音と、風の吹く音、残された柱がきしむ音。
(かつては立派な寺であっただろうに)
鐘楼の下、空いた隙間に墓石のない土団子が3つばかり見える。
貧乏長屋で死んだ人間がこっそりと埋められているのかもしれない。
今宵は満月。月の白い光がしらじらと、寂れてむなしい寺を照らす。りいりいと、鳴く虫さえ哀れさえをかき立てる。
さほど信心深くない伏でさえ、思わず手のひらをそっと合わせるほどである。
「……はて」
誰かが駆け去る音を耳にして、伏は提灯をそちらに差し向けた。ちらりと見えたのは闇の中を駆けていく男たちの背だ。地面には壊れた提灯が落ちていた。
「石……田、屋?」
提灯に刻まれているのは、石田屋という3文字。
そしてその隣には、潰れた団子が2つばかり転がっている。
踏みつけられた草履の跡がくっきり残るそれを見て、伏の眉が寄った。
食い物を粗末にする人間には、昔から虫唾が走るたちである。
ため息をつき、伏は団子の残骸と潰れ提灯をつまみ上げた。
「やはり、幽霊の正体は人間か。さて、これを証拠として兄上が納得されるかどうか……」
……と、伏の鼻がひくりとうごめく。
(なんだ、この、匂いは)
つん。と鼻の奥に嫌なにおいが広がったのだ。それは目の前の提灯から発せられているように思える。
我慢のならない、いやな、いやな香り……。
(しし肉? いや違う。嗅いだこともない匂いだ。血と……脂)
その途端、伏の顔に風が吹いた。
「その団子は、俺んだ!」
「……っ!」
伏が身をそらせたのは、ほぼ勘といっていい。
避けた途端、頬のすぐそばを木の棒が通り過ぎたのである。それは真後ろから突き出されたものだった。
伏は身をよじり、濡れた地面を転がる。
その衝撃で提灯が地面に落ちて、あたりは一瞬で闇となった。
視界の前は夜一色。音はぼうぼうと鳴る虫の声、風の音。
……そして誰かが地面を擦る音。
伏は目を閉じて、ゆっくりと腰の刀に手を伸ばした。
(幽霊ではない。足がある、足の音が聞こえる……大丈夫、これは人間だ)
こんな時、考えるよりも勘を頼りにするほうがいい。
伏は壊れた柱を背にし、腰を落とす。
(……上だ!)
思うと同時に、伏の指は鯉口を切っていた。しっかと柄を掴んだ腕で、滑らせるように白刃を突き上げる。
何かを切ったような感覚が指に伝わる……しかし、緩い。
切っ先に血がふれて、のたれ刃文に朱の花が咲く。しかし伏が斬ったそれは、一瞬で大地を蹴って姿をかき消した。
「どこだ!」
伏は叫ぶ。天を見上げ、宙を睨む。
前にも横にも人影もない。切っ先についた血が、たらりと伏の指に垂れる。
「面白い!」
たん、と低い音が一つ。
……伏の後ろに、気配が突然現れた。
慌てて振り返れば、そこに小さな影がある。
伏が地面に取り落とした提灯が、風に吹かれてぼうっと光を取り戻した。
そのおかげで、後ろに立つ人物が薄ぼんやりと目に見える。
「俺の一撃を避けたのは、お前がはじめてだ」
そこには、伏より頭一つ分小さな……女が立っていた。
(女……ほんの子どもじゃないか)
柔らかい土に足をとられそうになりながら、伏はじりりと一歩下がる。
しかし、目の前の女は動かない。
子どものようで、大人にも見える。薄闇の中で衣擦れのような音が聞こえる。
月は雲に隠れたままだ。そのせいで、満月だというのに一面が暗い。闇ばかりがとぐろ巻くこの場所で、女の顔だけが見えてこない。
「……幽霊か?」
伏は目を細めて、刀を握りしめる。腰を落とし、切っ先を女に向けたまま、慎重にすり足で半歩前に出た。
伏は強い。腕に覚えもある。相手が人間であるのなら、何も怯えることもないはずだ……しかし今、伏は明らかに恐れていた。
(動きが早すぎる。ただの子どもではない……これはもしかすると)
本物の幽霊かもしれぬ。と、伏の背筋がぞうっと震えた。
「ん、幽霊だって?」
しかし女は、踊るように一歩進んだ。伏はつい一歩、下がる。
「幽霊じゃない。幽霊は人を恨むんだろう。俺は誰も恨んじゃいない。怒ったのは、お前が団子を横取りしようとしたからだ」
女は地団駄を踏んで腕を振り回す。彼女が執拗に見つめているのは、伏が手にしている団子の残骸だ。
「これは……踏みにじられている」
「俺が踏んだんじゃないやい。あいつら、俺が供え物の団子を狙っているのを知って、にじっていったんだ」
「あいつら?」
「この寺にいつもくる、やくざみたいな連中だよ。俺がここの供え物を食ってると知ってから、俺の前で団子を踏みつけて嫌がらせするんだ。お前も団子を盗ろうとしたから、つい、あの男らの仲間かと思って殴ろうと思ったんだ。でも、その分じゃあ仲間じゃないみたいだな」
伏の刀は彼女の唇を裂いたと見える。
女の分厚い唇に、赤い傷が一閃輝いていた。
「お前は……人間なのか」
伏が問うと、彼女はぺろりと傷を舐める。そして血の混じった唾を吐き出し、女は言う。
「鬼だよ。だって皆、俺のことを鬼奴と呼ぶ」
その瞬間、雲が去った。月が顔を見せる。黄色い月の灯が白白と、大地に注ぐ。
その光が、女の顔をくっきりと照らし出した。
眼の前に立つ女は、白い額に大きな瞳。年の頃は12、3歳程度に見える幼い顔立ちである。
しかし、身につけているのは友禅の見事な打ち掛けだ。
華やかな牡丹の花が薄暗い墓場の中で一段と輝く。たっぷりと重量のある髪は高く結い上げられ、太い簪が嫌みなほどに突き刺さっていた。
そんな頭は朱いちりめん頭巾で包まれている。
これほどずしりと重い飾りをまとって、彼女はやすやすと大地を飛んだのだ……それを知り、伏はぞっと背を震わせる。
そんな伏をみて、女は大口を開けて笑った。
「はは。お前、俺にそっくりだ」
「きさま、ただの遊女ではないな」
「遊女?……ああ、この髪の飾りとおべべか? これは少し前に、土の中で見つけたんだ。綺麗なもんだろ。売れそうだからさ、無くさないように、着て歩いてるだけだよ。俺は遊女じゃない。ただの貧乏長屋暮らしだ」
重い打ち掛けをまとったまま、彼女はくるくる回ってみせる。
「それは、その打ち掛けは……亡くなった……人間のものではないのか?」
「うん。そこのお堂の下で見つけた。ひと月前だったか、女が放り投げられたんだ。覗いてみなよ。まだいるからさ」
「女が?」
伏の背がぞうっと震える。なるほど、ここが当たりのようだ。
「で、おべべと簪は別の所に埋められてた。人間は土の中で成仏できるが、飾りもおべべも成仏なんてできないだろ。だからもらったのさ。それに別にここが家じゃないぞ。俺には幽霊長屋という立派な家がある。ここへは供えものを貰いにくるだけだ」
鬼奴と呼ばれた女は、はすっぱな物言いで、伏をのぞき込む。
そして黒い瞳を丸くさせた。
「あれっ。お前、もしかして……あのぬらりとした男の家族か。目がそっくりだ」
「兄上を知っているのか」
「うん。飯がうまいんだ。よく俺にも食わせてくれる」
飯。と言った途端、彼女の腹がぐうと鳴った。太い眉をきゅっと寄せて、彼女は腹を擦る。そして泣きそうな顔で、伏の持つ潰れ団子を見つめるのだ。
「団子……」
「腹を空かせているのか?」
「うん……いつも空いてる」
鬼奴はしょんぼりと、肩を落としたまま、唇をきゅっと噛み締めていた。小さな子が腹を空かせるときに見せる顔だ。
「空きすぎて、何が食べたいかわからないくらいだ。何かを食いたいが、ぐるぐるして分からん。だから手当たり次第食っている。今日は団子が食えると思ったのに……踏んでいくなんて、あいつらこそ鬼だ幽霊だ」
鬼奴は苦しそうに眉を寄せ、寺を見渡す。
やせっぽっちの体から、また腹の音が響いた。
「今あるのは、腐った団子と腐った酒と、踏まれた団子だけだ。その中じゃ、まだ踏まれた団子のほうが食える。だから俺はそれを食う」
彼女は我慢ができないという顔で、伏の手から団子を奪った。
少しでもどこか食える場所はないか、と潰れた団子を指で拭い、ひっくり返し、息を吹きかける。
「……ここに女の幽霊は、出るか?」
「さあ、幽霊はあちこちいるが、ここでは見ないな」
まるで幼子のような顔で彼女は首を傾げた。
「幽霊を探しに来たのか? それなら長屋のほうがたくさんいるぞ。みんな飢えてて細っこいだろ。だから幽霊長屋と言ってるんだ」
鬼奴はそう言って、けたけた笑う。それを見て、伏はすっかり気力を削がれた。
(こんな気の違ったような女、無視をすればいいのだ。今は兄上と家のことだけ……)
踏みつけられた団子に、飢えた女。そんな女をからかう、男たち。
ここは到底、まともな場所ではない。
伏は鬼奴を無視して背を向けようとする。
……が、その途端。
伏を追いかけるように、鼻先に匂いが届いた。
柔らかく、甘く、口の中でほろりとほどけるような。
それは米の香りだ。ちょいと塩を付けて、きゅうっと握った米の香りだ。
(我慢だ、我慢……)
ふかふかと、炊きたての米が香る。それは伏にまとわりつく。
(我慢……)
が、やがて伏の足が止まった。足を進めようとしても、もう一歩も進まない。伏は諦めたようにため息をつく。
拳を握りしめたまま、伏はぽつりと言葉を漏らした。
「……握り飯」
「え」
「いま、お前の食べたいものだ」
振り返ると、鬼奴はぽかんと口を開けて伏を見つめている。
まさに今、団子を食べようとしたところだったのだろう。しかし伏の言葉に動きが止まり、手からぽとりと団子が落ちる。
「握り、めし……?」
やがて握り飯の味を思い出すように、口が上下に動いた。
「それってさ、米をきゅうって握った、あれか?……米に、塩をすこしつけて……」
まるでとろけるような顔で、彼女は満面の笑みを浮かべる。
「それだ! なんでわかった?」
「わかるから困るんだ」
伏は人の香りを嗅ぐだけで、その人間が食べたいものを感じ取れる。そんな奇妙な特技を持っている。
本人が隠していてもわかる。たとえ、その人自身が理解していなくても、わかる。
心の奥底にある食の欲望が、香りになって伏の鼻に届くのだ。
一度嗅ぎ取ってしまえば、もうたまらない。飯の色から形までくっきりと浮かんでくる。食べたいと願う人間の心が伏を揺すぶる。
伏は飢えている人間を、そのままにはしておけない。
「ああ、もう!」
伏は天を仰ぎ、ため息をついた。
「……こっちへ来い、兄上の家で食わせてやる。ただその遊女の恰好は目立つ。派手な簪は取ったほうがいい。それで打ち掛けは裏にしよう。人に見られて、遊女の足抜けかと騒ぎになるのは厄介だ」
伏は重い簪を取ってやり、彼女の打ち掛けは裏向きにする。
「あとは大人しくして付いてこい」
……と、鬼奴が不意に伏の胸をがっしと掴んだ。
「なあ、お前」
そして彼女は幼い子のような無邪気な顔で微笑むのである。
「なんで女が男の恰好をしているんだ?」
ふわり月光舞い降りる夜半の寺に、皮膚の鳴る高い音が響き渡った。