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ゆうれい長屋の義一郎

 高く低く、暮六ツの鐘が鳴る。

(嫌な音だ)

 伏は目を細めた。

 盆にも近いこの季節、暮れに鳴る鐘は不思議と不気味に響くのだ。



 伏が立つのは、浅草八軒町の裏通り。

 表を行けば雷門だ。賑やかな仲見世では、茶屋の娘の呼び込み声もかしましい。

 しかし一本ほど奥へ入ってしまえば、寂れた町並みと暗い墓地。隣をとうとう流れる大川の水音も不気味に響く。

 そんな薄闇を抜けた先、ナマズ長屋とも幽霊長屋とも呼ばれる裏長屋がひそりと建っていた。

 長屋の大家がナマズによく似た男で、幽霊絵を好んで描くことからその名がつけられたという。

 そんな大家が店番をする貸本屋の奥、狭い木戸を抜けて細いドブを越えれば件の長屋である。

 狭苦しい棟割り長屋がきゅうきゅうと身を寄せ合っている様子は、なるほど水底をのたうつナマズによく似ていた。

 どこかから犬の声が響き、夏の虫がりーりーと鳴く。暮れゆく夕日の色だけが地面を染める、なんとも寂しい裏長屋である。


(ふん、いつ来ても辛気くさいことだ)


 伏は足を止めて顔を上げた。目的は一番奥、屋根の傾いだ家である。

「兄上」

「伏、伏、ああ、助かった。良かった、良かった。待っておったぞ」

 固い扉を苦労して開けると、破れ障子の向こうから男が一人顔を出す。。

 弁慶格子の一張羅から垂れた腕は細く、頬は痩けていた。

 まだ25だというのに、鬢には白い物が混じっている。

 すっかり老けこんだ男……兄を見て、伏の胸の奥が締め付けられた。

「兄上、なんたるお姿でいらっしゃるのか。以前より薄汚れているではないですか。おせんが見ればきっと泣きます」

 兄を我が子のごとくかわいがる古女中の名を出せば、彼は一瞬寂しそうな目を見せた。

 しかし、それも一瞬だ。やがて、ひょうきん者の仮面を被ってにやにやと伏を見つめるのだ。

「なんの。一歩男が外に出れば、いろいろなことがあるものよ……しかし俺に比べて伏、お前は立派だの。藍染小袖の袴姿。結ったばかりの若衆髷も涼やかでよい。腰の大小は御徒町の叔父上の愛用されている刀か……それを持っているということは、とうとう叔父上の剣術道場をやぶったのか。また腕を上げたな。まっこと、自慢の……弟だ」

 兄は意地の悪い顔をして、ニヤニヤ笑う。伏はそれを無視して、刀を置くと薄汚れた床に額を押しつけた。

「兄上、本日はお迎えにあがりました。次の満月には屋敷に戻ると約束を、よもやお忘れではないでしょうな」

「頭を上げよ伏。そんなことより飯が先だ」

 伏が頭を下げても、兄は動じない。それどころか床に腰を下ろし、ふんどしまで丸出しで足を組む始末。

 そして、大きな瞳で伏を見つめた。

「さ、さ。伏。俺の食いたいものを当ててくれ。そろそろ飢えて死にそうだ」

 どれだけ苦労を重ねても、兄の目だけは幼い頃から一つも変わらない。

 大きく強く、鋭い。亡き母も、兄に似た目をしていたという。

 5つの時分に母を亡くした伏は、いつも兄の目を見て母を思い出す。

「なあ、伏よ。俺は今、何を食いたい?」

 兄の言葉に伏は目を閉じる。まぶたをしっかと閉じて息を吸い込む。ゆっくりと、空気を飲むように。

 すると、伏の頭にぽかりと姿が浮かんだ。


 まずは、青い菜っ葉の浮かぶ雑炊。

 続いて、茶色く染まった揚げ茄子のぐずりぐずりと崩れる様子。


「……青菜雑炊、揚げ出し茄子」

「それだ」

 伏が苦々しく呟けば、兄が素早く立ち上がった。

 そして裾を帯に挟み込むと、土間へと駆け下りていく。

「お行儀が悪うございます、兄上」

「町民は皆、このように尻っぱしょりで家事をするのだ。やってみると、こいつはなかなか具合がいい。これは武家もならうべきだな」

 呑気に笑う兄から、伏は目をそらした。

 とはいえ4畳半程度の狭い部屋だ、目をそらしても兄の情けない姿は目の端に映り込む。

 兄は下男のように、こせこせと土間を行ったり来たり。その姿に威厳というものはない。

(なんと、狭苦しい家だ)

 伏は唇を噛みしめて、部屋を見渡した。

 部屋は行李と万年床を置くだけで、いっぱいになる程度しかない。そんな部屋に無理に置かれているのは破れた雨具、安物の魚油が香る行灯。

 家宝の刀だけはさすがに一段高いところに置かれているが、刀置きもろくにないと見える。割れた木を組み合わせた土台の上に、不安定なまま放置されていた。

 そんな狭い部屋を降りれば、そこには古い土間だ。

 使い古された2つのかまどには、錆びた鍋。鍋の上にかけられたザルには、野菜がつやつやと輝いている。

「茄子がちょうどある。うむ。青菜もあるな、よしよし」

 兄は平然とした顔で野菜を刻み始めた。それを見て伏は思わず腰を上げる。

「兄上! 武家のご長男が、なんという恰好で」

「しっ! 伏! ここは狭い棟割り長屋だと何度言えば分かる。ひねった屁の音も響く家だぞ。声が大きい」

「このように隠し立てせねばならんことが問題であると!……わ、私は申しておるのです」

 張り上げそうになる声を抑え、伏は兄に訴える。

 すると今度は聞こえないふりをして、兄は顔を背けた。

 大きな包丁を器用に使い、とんてんとんとん、青菜が刻まれる。茄子の皮もするりと剥かれ、青紫の下に隠されたむっちりと白い姿があらわとなる。

 兄は満足そうに野菜を見つめると、大きな鍋を竈からおろした。油を落とし、充分に熱する。

 幼い頃から厳しい躾に置かれたせいだろう。そんな動きをする時でさえ、兄の所作は美しい。

 舞うがごときの動きを、伏はじっと見つめる。

「空腹ならば家に戻れば良いでしょう。料理番のタケは毎晩、兄上のために料理を作ってお戻りをお祈りしておるのですよ」

「そう苛々とするものではない。よそに聞かれて兄弟げんかと思われたらきまりが悪い」

 ぱちりぱちりと弾けた頃、彼は鍋に大きな茄子を投げ入れた。

 じゃん、と大きな音が響き、壁も揺れるし屋根も揺れる。

 伏の声よりよほど大きい。

 じんわりと揚がる茄子を見つめながら、伏は目を細めた。

「兄上。あなたは荒井義一郎。400石を頂戴する荒井家嫡子であることをお忘れか」

 油の中で茄子が跳ねる。大きく張りのある茄子である。

「遊女のことは……私から父に取りなしますから」

 ……きっと兄の愛した遊女の足もこんな風なのだろう、と伏は苦々しく唇を噛み締めた。

 

 荒井の家系は、鎌倉の争いまで遡る……とは叔父の談。

 それは言い過ぎだとしても、それなりに古い家である。もったいなくも400石を頂戴する旗本の家として、上の覚えもめでたい。

 問題など起こりようもないこの家に、騒ぎが持ち上がったのが1年前。

 荒井義一郎……荒井家嫡男がお菊という吉原遊女に夢中になったのだ。

 吉原と言っても大見世の女ではない。彼女はいわゆる、切見世の女だった。

 狭い部屋の中、時間貸しで客を取る最下層の遊女だ。

 しかし伏の兄は……義一郎は一晩どころか10日、一ヶ月、半年と毎日のように通い詰め、父をずいぶん怒らせた。それでも屋敷に戻っている間はまだよかった。

 一ヶ月前、ぷつりと戻らなくなるまでは。

 急に連絡が途切れたことに驚いて探し出せば、浅草の裏長屋に住み着いていることが分かったのである。

 吉原に探りを入れたが、お菊という娘は姿を消していた。

 義一郎が密かに身請けして、隠しているのだ。と、皆がそう思った。

 父が何度も話し合ったが、義一郎は屋敷に戻らない。焦れた伏が兄を説得に訪れても、義一郎はこの調子で話にならない。

 五回目だ。と、伏は拳を握りしめる。五回、朝も夜も関係なく、ここへ訪れた。しかし、兄はまるでウナギのような雰囲気で、伏の小言をツルリツルリと逃げていく。

 そして今宵も兄は、まともに話をしようともしないのである。



「伏は情けのうございます。兄上がこのような狭い部屋で過ごされているのを見ると」

 泣き落としのような声をあげても、義一郎はスンとも動じない。

 伏の言葉などどこ吹く風で、冷や飯を鍋に落とす。そこに水と青菜を加え、ゆるりと混ぜた。

 そして義一郎は立派な塗りの壺を、土間の下から取り出してみせる。

「見てみよ。これを少し入れるとな、うまいのだ」

 それは義一郎の身を案じる、おせん特製の味噌壺だ。開けると、ぷんと懐かしい香りが鼻をつく。

 父は家の人間に「義一郎に会いに行くことなかれ」と命じているが、おせんは密かに通っているのだろう。そう思うと、情けなくなった。

「おせんが味噌を届けたのは、食の細い兄上を案じておるのです。おせんだけではありません。皆が心配しております。心配されるうちが花と、そう思いませぬか、兄上」

 義一郎は答えもせずに、秘蔵の味噌を雑炊の鍋に落とし、混ぜる。と、甘い香りが部屋に広がった。

 この香りを嗅いでなお、兄の心は揺れぬのだから、なんと情のない男よ。と伏は義一郎を恨む。

「思い違いをしておるな、伏。放蕩の俺を案ずるは、今や伏ばかり。おせんはとうに、諦めておる。どうせ父上も叔父上も、義一郎など放っておけと言っているだろう」

 伏はその言葉に何も返せなかった。

 父、そして御徒町で剣術の道場を持つ母方の叔父も、早々に兄の素行を放置したのである。

 今では勘当のようななりで、話題にも上がってこない。


(としても……放っておけるわけがない)


 伏はこれまで「お菊」の顔さえ見ていない。この部屋には櫛も鏡も置いていないため、おそらく兄がどこぞかに囲っているのだと思われる。

 それほど好いているのなら、屋敷に引き取り一緒になればいい、と伏は思っていた。

 遊女を適当な御家人の養女に出して、身分を整え嫁に取ることなど、どの家でもやっていることだ。

「兄上が屋敷に戻らなければ、お家断絶もあり得るのですよ」

 伏が訴えても、義一郎には響かない。

 鍋の中では茄子がつやつやと色よく揚がっていくのが見えた。

 隣の鍋では雑炊がいい具合だ。ゆっくり混ぜればとろりとろりと湯気が舞う。粘りの出たその汁に、兄は卵をこんと割り入れる。

「おお。おお。見よ、我ながら美味そうだ」

「父上は先日、盂蘭盆の灯籠納めをお一人でなさったのですよ」

 嬉しそうな兄の言葉を遮って、伏の小言は続く。

 譜代や老中などを勤める家や、将軍の覚えもめでたい家は、盂蘭盆のこの季節寺院へ切子灯籠を納めるのである。

 左右に武士を引き連れて灯籠を竹にくくりつけて進むのだ。そして普通は嫡子がそれに付き従う。

「たったお一人でですよ。兄上がいないせいで。父上はもう隠居をしてもおかしくはないご年齢だというのに」

 どれほど奇異のまなざしで見られたか、想像するだけで伏は悲しくなってしまうのだ。

「何度も言うが、家はお前に任せる。俺はお菊と共にあると決めたのだ……とはいえ、遊びには来てくれ。不思議なことに俺一人では、自分の食いたいものがわからんのだ」

「ではせめて、お菊とやらに会わせてください。私から話を」

「今のお前に会わせれば、可愛いお菊が怯えてしまう」

「怯えさせなど、いたしません」

「どうだろうなあ。お前の顔は恐ろしいから……見よ見よ、今も鬼のようだ」

 義一郎はカラカラ笑いながら、鍋を覗き込む。

 そしてからりと揚がった鍋から茄子をすくい上げると、そこに醤油をひとたらし。

 とろとろと煮上がった味噌雑炊には胡麻をひとつまみ、振りかける。

「まあ、そのうち会わせてやるから、そう焦るな……ああうまそうだ、うまそうだ。食っていいか?」

 義一郎は万年床に腰を下ろすと、伏の言葉を待たず食い始める。

 この家には、飯を食うための膳もないらしい。

 彼は欠けた皿を床に置くと、もったりとした雑炊をずるりとすする。揚げたての茄子の柔らかいところにがぶりと噛みつく。

 溢れた汁を袖で拭い、彼はうまいうまいと子どものような顔で笑うのだ。

 その無作法さに伏はあきれかえった。

「兄上。それよりこの食材は……いったいどこから」

「寄進だ」

 その言葉に、伏の目がカッと見開かれる。

「また人様をだまして稼いでおられるのですか……わ、私の用立てた銭は……?」

 家を出て以来、父は兄への援助を断ち切った。

 おせんが泣いて頼むので、伏が1両だけ用立てたことがある。困っていることもあろうかと、そう案じてのことだった。

 けして安い金ではない。これで身なりを整えて、家に戻ってきてくれたらと、願ってのことである。

「渡した1両を使い果たし……分かった、お菊にやったのですね。あげく町のものから銭をせしめて」

 寄進と聞いて、伏の胸が詰まる。それは悲しみではなく怒りだ。

 義一郎は幼い頃から嘘をつく悪癖がある。

 人々を口車に乗せては、菓子だの玩具だのを「寄進だ」と言って奪い取るのである。

「もうしないと、約束をしたではないですか」

 前のめりとなった伏をみて、義一郎は眉を寄せた。まるで大人が子供に諭すがごとく、伏を見つめる。

「伏よ。人聞きの悪いことを言うでない。これは人助けだよ。幽霊絵が売れぬとナマズの大家が嘆くのでな。幽霊を退治して絵に閉じ込めた侍のフリをしてやったのだ。おかげで絵は本物の幽霊だ、と売れに売れた。その礼にと、食い物が寄進されたのだ。この長屋の連中はな、皆どうにも親切なのだ。こちらが善き行いをしてやれば、必ずお礼にと何かしら動いてくれる」

「それをだましている。というのです。荒井家の嫡子ともあろうお方が」

「静かに、静かに」

「しかし、兄上」

「でも……まあ、伏がそこまでいうのであれば、一度くらい家に帰ることを検討してみてもよい」

 雑炊の最後の一口を飲み込んで、義一郎は顎を指で支える。

「……伏が一つ頼まれごとをしてくれるのであれば」

 その目が真剣であることに気づき、伏も思わず居住まいを正した。

「頼み、とは」

「ここいらいったい、100年前の大火事で焼け落ちたことは伏も知っているだろう」

 伏は頷く。

 ここ浅草は100年ほど前の大火で焼けた。浅草だけでなく江戸の大半が焼け落ちるほどの火事であったという。

 もちろん伏はその惨劇を直接には知らない。しかし今でもあちらこちらにその痕跡は残っているし、当然語り草にもなっている。

「火事のあと、慰めのために多くの寺が浅草に集められたことはよく聞く話だ。しかし100年。100年は長いな、伏。それを慰める寺もほとんどが相続されずに残された。今では廃寺の方が多い始末だ」

 火事のあと、ここいらには寺院が多く建てられ、死んだ魂を慰める読経が多く読まれたという。

 とはいえそれもすっかり昔の話で、兄の言うとおり廃寺となった寺院も多い。

「そこで……つきものなのは幽霊話よ」

 憑きものだけにな。と、義一郎は面白くもない冗談を言って一人で笑う。

「長屋の裏にある川のそばにいくつもの廃寺がある。そこのどこかに、女の幽霊が出るそうだ。どうやら悪い連中がそこに女の死体を埋めたという噂がある。それで皆が怯えておる。残念ながら、俺は幽霊だのおばけだの、そういう物がとんと視えない体質だ」

 義一郎が鼻を動かしながら伏を見た。

「お前も視えないだろうが鼻が効く。その鼻で、嗅ぎ分けてくれないか」

 義一郎は床に地図をはらりと広げる。浅草の裏通りを、細道に至るまで細かく書き出した地図だった。

 義一郎は地図の数カ所を、とんとんと叩いて指し示す。

「墨で丸を書いてある箇所が、寺だ。朱色でバツを付けているのは、すでに調査済みのもの」

 兄の言葉を聞いて、伏は呆れたようにため息をついた。

「兄上……ひと月も家に戻らず、まさか寺を巡って幽霊探しをされていたというのですか」

「当然だろう。まあ色々探ってみたものの、女の幽霊も死体もとんとみあたらん。で、残っているのはあと3つだ。いずれもここからも近い、伏、見てきてくれまいか」

 義一郎は伏のため息を無視して、その地図を押し付けた。すでに10もの廃寺を確認したと思われる痕跡を見て、伏は頭を押さえる。

「……幽霊がいたとして、どうします」

「そうだなあ。証拠がほしい。遊女の霊がいるのなら、なにか言いたいことはないか聞いてくれ。声が無くとも、簪など何かしら落ちているかもしれん。そういうものを持って帰ってこい。さすればそれを俺がカァッと祓って、近所の人間には安心せよと言ってやる」

「私に詐欺の片棒を担げと?」

「人助けだよ」

 義一郎の言葉に伏はあきれ果てる。

 ふと気がつけば、扉の隙間に薄い光が揺れていた。誰かが外を提灯でも持って歩いて行ったのだろう。

 窓のないこの家は、傾いだ扉から漏れる光でしか外の空気を感じることができない。

「兄上、だいたいそのような噂話は、嘘ばかりです。実際は悪い連中が集っておるのです。幽霊が出ると脅して賊でも住み着いているのでしょう」

「ならば斬り捨てよ」

 ふ、と義一郎が笑う。その言葉に伏の背筋がぞわりとふるえた。

「……まさか、人殺しを囁かれるとは」

「物騒だな。そこまでは言ってない。悪漢の髻でも斬って、証拠として持ってまいれ」

「私が幽霊の正体を見破れば、兄上は家にお戻りか」

「お前は嫌に家にこだわるね。家など、大義を前にすれば消し飛ぶほど小さなものだ」

「家にまさる大義がありますでしょうか」

「伏もいつか分かるさ。家よりももっと大事なものがあることを」

 義一郎はだらしなく、床に伸びる。食い終わった皿もそのあたりに投げたまま。

 挙げ句、肘枕などをして伏を見上げるのだ。

「伏、それほど家が悩みの種だというのなら、お前が継いで自由にすればいい」

「出来ぬことを分かっているくせに、本当に、兄上は意地が悪い」

「おう。俺は意地が悪いのさ……さあ、行ってこい。まもなく夜5ツの鐘が鳴る。幽霊が出るにはちと早いが、早起きの幽霊ならそろそろ起き出す時刻だろう」

「兄上」

「幽霊ならば時間は問わぬが、お前は生きた人間だ。木戸の閉まる前に行かねば、面倒なことになるぞ」

 面倒くさそうに手をふる義一郎を睨みつけ、伏はぎりりと歯を食いしばる。言いかけた嫌みをぐっと飲み込み、扉を乱雑に蹴り開ける。

 途端、外からきゃあ。と黄色い声が上がった。



「みてみてみて。ほら、顔を出したわよ」

「義さまの弟御ですって?」

「ずいぶん綺麗な子ねえ……まだ20にもなってないわよ」

「見て御覧なさい、袴の折れ目も美しい」

「御徒町の若いご指南らしいわ」

「まあ、あたしのこと、囲ってくれないかしら」

「あんたじゃ無理よ、おたんこなす」



 聞こえてきたのは若い娘の嬌声だ。

 渋々顔を上げれば、長屋のあちこちから白い顔が覗いている。

 まだ若い娘たちは、伏と目が合うと慌てて盆灯籠に顔を隠した。しかしその光に揺られて、地面に彼女たちの影が伸びる。

 海藻のように揺れる影と一緒に、高い声がきゃあきゃあ聞こえてくるのだからたまらない。

(なんと、くだらない連中ばかりだろう)

 伏は扉を蹴飛ばしたい衝動をぐっとこらえて前を向く。

「……行くか」

 幸い、兄に比べて剣術は得意な方である。


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