自殺未遂をした活動休止中のアイドルを家に連れ帰ってホットミルクを飲ませたら、ずっと一緒に居たいと笑ってくれるようになった。
Q.目の前の人間が電車に飛び込もうとしたら貴方はどうする?
「ちょっと待て!」
A.俺なら全力で助ける。電車が止まるのはだめだから。
――俺は目の前の少女の腕を思いっきり引っ張った。重心が傾いた彼女が、胸に飛びこんでくる。
そのまま俺たちは後ろにひっくり返り、地面に尻餅をついた。
彼女の足すれすれのところを轟音を立てて電車が通り過ぎていく。
「いって……大丈夫?」
一瞬の緊張感から抜け出して、ようやく胸の中の少女に声をかけた。
分かっていたけど、反応はない。
「立てる?」
もう一度優しく声をかけてみると、ようやく彼女は頷いた。ふらふらと震えるような足で立ち上がる。まだ線路の間際にいるから、危なっかしいことこの上ない。
「ちょっとベンチ座ろうか」
俺は彼女の腕を捕まえたまま、ベンチへと連行した。すぐ傍にあって助かった。まだ震えたままの彼女を、そのベンチにゆっくり座らせる。
「どうしようか……どうする? ちょっとゆっくりしたあと家帰れる? 俺が送ることもできるけど、家知られたら怖いよね」
少女が顔を上げた。その拍子に、フードが顔から滑り落ちる。
雪交じりの真夜中のプラットホームだったけど、表情は造形はやたらはっきりと見えた。ツヤがはっきりと見える長い黒髪に、紺色がかった瞳。その目は切れ長で、くすんだホームの蛍光灯を存分に映している。全てのパーツが完璧で、だけど薄い唇とその下にあるほくろがどこか官能的だった。
その見覚えのある顔に、声を上げそうになる。どうにか我慢したけど。
「家知られるのは絶対よくないよね」
彼女の様子を見てそう言う。たぶん今は落ち着く時間が必要だろう。幸いにも俺には、このあとすることがない。だから、いくらでも付き合ってあげられるけど……
「今日は冷え込むから」
雪もうっすら積もりかけているし、何より時間が時間だ。
それに――国民的アイドルとして有名な彼女と長い間一緒にいるというのが、俺にはどうにもできそうになかった。
一ノ瀬 香夜。
それは国民的アイドルとして一世を風靡し、またそのあまりにも整ったルックスから世界の美人100位のうち1位に何度も選ばれた非の打ちどころのない美少女。
歌やダンスも完璧。19歳ながらにしてバラエティもそつなくこなし、日本中の期待を背負って、ステージに立つ。密着された番組では常人の域を超えた熱意を語り、その言葉に負け地とストイックな姿勢を見せた。
今後もっと……世界にも通用するアイドルになり、人気になるだろうとみんなが予想していた矢先――彼女は突如活動休止した。
理由はとある俳優との不倫が発覚したため。事務所や本人は否定したが、期待の数だけ寄せられた誹謗中傷に、彼女は一時休むことになった。
芸能界に疎い俺でさえそこまで知っているのだから、相当だろう。
ひとまず落ち着いたらしく、震えがじゃっかん収まってきた彼女に、俺は持っていたカイロを差し出す。自販機で何か暖かいものを買ってあげたかったが、目を離したすきに彼女はどこかに行ってしまうかもしれない。また電車に挑むことだって考えられる。
そう考えると、うかつには離れられなかった。
「……いいんですか」
天使の囁きとも言われている声を、彼女はとうとう発した。掠れていて、震えていて、どうにか絞りだしたというようなその声。
ずきり、と胸が痛くなる。
「寒いでしょ。まずはあったまろう」
彼女は頷いた。ぎゅっと握りこむようにして、カイロを受け取る。
「……私、怖かったです」
「うん」
「あの、ありがとうございました。本当は、本当は怖かったんです」
――あぁ、その気持ちは俺にもよく分かる。
それでも一歩踏み出そうとする瞬間に、覚えはあるから。もちろん、全てが上手くいかなかった時に、良かったと安心して、心の底から怖くなるのだ。
「助けていただいてよかったとは、正直思いません。でも……ありがとうございました」
「そうだね」
俺は彼女のこれからの人生に責任を持てない。だからこそすごく残酷な行為をしてしまった自覚はある。それでも、目の前の命がひとつ失われないで、本当に良かった。
「これから私、どうしたらいいんでしょう。母も怒ってて……私が勝手に芸能活動、やめようとしたから。でも続けたくなかったんです。あんなに悪意を向けられる場所に私、いたくありません。それに、それだけじゃない。人にも言えないような辛いことは、沢山ありました」
「うん」
誰に言われるまでもなく、彼女はその胸の内を語り始めた。完全な部外者の俺に話をするのは、それだけ切羽詰まっているからか、それとももう芸能界に復帰するつもりがないからか。
「なので私、居場所がないんです。今日も母と大喧嘩して家を飛び出してきたところで。家にも帰れないし、グループの仲間にも仲間外れにされています……」
「それなら……」
俺は言いかけて、それがあまりにもよくない提案であることに気づいた。でも、他に思いつかない。それに理性ではだめだと分かっていても、感情が許してくれない。
「俺のうちに来る?」
彼女は目を瞬かせた。星が瞳に移りこむ。それから小さく、頷いた。
「いいんですか」
頷いた時に覚悟ができていたと言ったら嘘になるだろう。でも、もう戻れないことは既に分かっていた。
「これ、ホットミルク」
「ありがとうございます」
家に入ってきた彼女を座らせ、マグカップを差し出した。こういう時は温かい飲み物に限る。
「お風呂沸かすから、いつでも入ってね」
「分かりました」
体を温めることも重要だ。とにかく食って寝る。それだけで少しマシになることを、俺は知ってる。
そういえばこういう場合、俺と彼女の関係はどういうものになるのだろう。誘拐、とかにはならない、か……?
俺は大学1年生で18歳。彼女は19歳。
一応成人しているから大丈夫だろうけど、不安要素は残る。
「お母さまに連絡しなくていいの?」
気づけば俺はそんなことを口走っていた。彼女の中で母親のことはかなりネックになっている様子だったから、口に出さないようにしておこうと決めていたにも関わらずだ。
「私が家を飛び出すのはよくあることです。喧嘩はよくしてましたから。そのたびにネカフェに泊ったりして1週間ほど帰っていませんでしたから、今回も大丈夫でしょう。心配してわざわざ連絡をするような人ではありません」
「そっか」
思っていたよりも重い言葉に、俺はただ頷くことしかできない。
「それより……私は貴方に下心のようなものを感じていないのですが。芸能界で生きてきましたから、これでも人の感情にはかなり聡いつもりです。貴方はどうして、私を泊めてくれたのですか?」
「それは……」
彼女な真っ直ぐな視線に息が詰まりそうになった。
「言えないけど、でもどうしてもそうしないといけないと思った。居場所がないんだったら作ればいい、じゃないけど、なんて言うか……」
慎重に言葉を選びつつ、必死に紡ぐ。
「君はどこか、居なくならないでって言ってくれる人を探してるように見えたから。せめて俺が君によく頑張ったね、でももう頑張らなくていいよって言わなくちゃいけないと思った」
オレンジの光だけつけた中、彼女は瞬きをした。それから、一度自分の膝に視線を落とす。
次に顔を上げた時には、その端正な顔に涙が浮かんでいた。酸素を求めるように口をはくはくと動かし、必死に言葉を送り出す。
「確かに……確かに、誰かによく頑張ったってずっと言って欲しかったんです。居なくならないでって、思って欲しかったんです。誰かが私のことを肯定して、一緒にいてくれるなら私は……」
死にたくなかった。
その痛切な言葉を聴きながら、俺はドキリとまた心臓を跳ねさせた。
『居なくならないで』と願って欲しいのは、俺もまた同じだったから。
翌朝彼女は帰って行った。またいつでも来ていいよと言ったら、ぺこりと頭だけ下げて去っていった。
「大学行くか……」
単位を取らないと進級が危うい。
今日もやる気の無さを嘆きながら、俺はゆっくりと準備して家を出た。雲ひとつない快晴。雪が降っていたのが嘘みたいだ。
あれから一夜経ったが、昨日の事件については何かに抜かれたりしていないらしい。少なくともネットニュースには載っていなかった。せめてこの世界が彼女にとって戻りやすい環境であって欲しいから、少しだけ安心する。
「またいつでも来ていい、か」
この時俺は、もう彼女がこの家に来ることは無いだろうと思っていた。
「うわっ……びっくりした」
家に戻ったら、玄関に国民的アイドルが座り込んでいた。一応活動休止中の。
「いろいろ上手くいかなかったんです。居なくならないでって、言ってもらうために来ました」
彼女は俺の姿を見て立ち上がる。
変装しているのか、今日はマスクをつけ、帽子を被っていた。
……一応このアパート、住んでいるのがお年寄りばかりだからバレないだろうとは思うけど。
「ホットミルク飲む?」
問いかけると、彼女は大きく頷いた。
「活動休止を解こうって、マネージャーさんに言われました。そろそろみんなあのゴシップには飽きてきたし、大丈夫だからって」
「なるほど」
「でも私は全然戻りたいと思いませんでした。……いや、戻りたいです。戻りたいですけど、今のまま戻りたくはない。戻るならもっと何か違う形でしたいと思っています。けど、それも反対されてしまって……」
「嫌になった?」
「嫌になったというか、誰も私を求めてるわけじゃないのかなって思ってしまって。あくまで世間に求められてるのはアイドルの私であって、私ではないんだろうなと思ったらなんだか……でも貴方はあの日、おそらく心から、必要としていると言ってくださったじゃないですか。一度考え直して、ここに来ようと思いました」
「うん」
「また、言ってくださいます、よね……?」
「もちろん。それに俺は、今のままの君の方が魅力的だと思うし、それをちゃんと感じてくれる人もいるはずだから。だからどうか……」
『居なくならないで』
あの日から何度も何度も、彼女は来るようになった。その度に愚痴をこぼす。
俺は一度だけそんな情報を漏らしていいのかと尋ねたけど、むしろ悪用して欲しいという返事が返ってきて困った。
もちろん貴方がそんなことをしない人だと分かっているから言っている、とも言われて、冗談か本気なのか分からなかったけれど。
「そういえば、貴方のことは何も知りませんでしたね」
彼女が家に来るようになってから1年ほど経ったときだろうか。急にそんなことを言われて戸惑う。知られないから一緒にいて楽なところもあったのに。
きっと彼女は今まで人のことを知ろうとする余裕がなかったのだろう。でも最近の彼女は少し心の余裕を取り戻してきたように見える。
芸能界には一応復帰していた。最近ではまたテレビでの活躍も目立つようになってきている。
「どうして1人暮らししているのかとか、どんな大学に通っているのかとか、どんな生活をしているのかとか、どんな性格をしているのかとか、本当に何も知りません」
ホットミルクを啜りながら、彼女は続ける。
「知りたいです。貴方のこと。もっと深く、知りたいです」
彼女のその真摯な言葉に、俺はただ冷や汗を流す。
変に焦っていたからだろうか。口から出てきた言葉は最悪なものだった。
「ごめん。もう来ないで」
大学に行っても友達はいない。入学してからずっと、友達作りに失敗して、仲のいい人はおろか、喋る人すらできなかった。
高校時代もそう。高校時代は別に俺が悪いわけじゃなくて、ただクラスが最悪だっただけだけど。
親は早くに無くなって、祖父母に引き取られた。でもその祖父母も俺が受験が終わる頃に亡くなった。おかげで失敗し、偏差値の低い大学に行くことになった。
かなり人生を失敗してきた方だと思う。他にもっと辛い目に合っている人がいることは確かだけど、それでも俺は俺の中で世界一不幸だ。
そんな風に生きてきたから、もちろんそんな希望なんてものはなくて。いろいろ考えて今俺は生きているけど、でもそれすらも辛いときはある。そういうときは、近所の海に、電車で向かった。深夜、誰もいない時を狙って。
一ノ瀬 香夜と出会ったのは、そんな夜だったのだ。
彼女にもう来ないでと言った日から、本当に彼女は来なくなってしまった。
寂しいけど、仕方ない。ずっと居なくならないでほしいと言っていた人が本当は居なくなりたかったなんて思っていることを彼女が知ったら、どう思うだろうか。
そんなことを考えながら、俺は今日も海に行く。
海を見ていると、なんだか心が楽になる。
海からすべての生物が生まれたからだろうか。深夜の黒々した海は怖くて仕方ないけど、それでも吸い込まれるような、そんな魅力があった。
仁王立ちでひたすら海を見つめる。もし死ぬなら……俺は海を選ぶかもしれない。電車だと人に迷惑かけるし。
「あの!」
急に声をかけられて、俺は振り返った。
……真っ白なワンピースを着た、彼女が立っている。
「海、綺麗ですね」
白いワンピースを着た彼女は、月明かりの中、ぼんやりと光っているようだ。海よりも彼女の方がよっぽど綺麗だと俺は思った。
「電車から姿が見えて。どうしても会いたくなって」
「もう来ないでって言ったのに」
「そう、ですね……でも、どうしても会いたくて。本当はね、貴方の言葉に関係なく行こうと思ってたんです。でも、自信なくて……嫌われてるんじゃないかって」
「嫌いだなんて、そんな……」
アイドルであることとか以前に、俺は彼女のことを好きでいた。恋愛的な感情と言うよりも、人間的に。
彼女は砂浜を踏みしめたまま続ける。
「私、貴方のこと本当に何も知らないんです。でもね、不思議と……なんだか一緒にいてとても居心地がいいんですよ」
「でも、それでも俺は……」
「電車から見た貴方の背中は、とても寂しそうで、消えちゃいそうでした。だから思わず、言いたくなっちゃったんです」
『居なくならないで』って。
俺はその言葉に目を見開く。
ずっと、言ってほしかった言葉。それはあまりにもあっさりと俺の耳に届けられた。
胸の方がじんわりとするけれど、あまりにもあっさりしすぎていて少し残念だ。
「あの、私、貴方のこと、もっと知りたいんです。なんていうか、こんなことを言うとちょっと軽い言葉に聞こえるかもしれないですけど、それでも貴方の隣にもっと居てみたいんです」
彼女は俺に近づきながらそう言った。
俺は頷くこともどうすることもできず、ただ黙っている。
「私は、そうですね……貴方に助けられました。お返しがしたいんです。お願いします。嫌なら嫌と言ってくれて構いません。もっと……深い関係になりたいです」
ついに目の前まで来て、頭を下げられる。
確かに、俺は彼女の話をよく聞いていた。どんな愚痴も、悩みも、ただの趣味の話だって聞いていた。
だけど、それほどだっただろうか。それほど彼女の支えに、俺はなれていたのだろうか。
分からない。分からないから、そこまでして一緒に居たいと言ってくれる彼女のこともよく分からない。
だけど……
「分かった」
いつの間にか俺は答えていた。やっぱり、どこかで一緒にいてくれる人が欲しいと思っていたのかもしれない。
彼女がほっとしたような顔で笑う。
「じゃあ、これから、行ってもいいですか? 元々その気だったんです。勇気を出したくて」
「いっぱい……聞かせて。今までの話。それから、俺の話も……聞いて欲しい」
「はい!」
2人で連れ立って海沿いを歩く。
時に笑い声も混じったり、少し潤んだ声が混じったりしながら、俺たちは家まで向かった。
「あの、」
声をかけられて、俺は台所から振り返った。手元には、さっき鍋で温めたホットミルク。この5年で、作るのもだいぶ上手になった。
「大好きです。ずっと一緒にいます。それだけを、言いたくなって」
彼女が見ているテレビでは、一ノ瀬 香夜が涙を流しながら思いを告白しているところだった。そして同じようなセリフを言っている。
でも真っ直ぐな彼女のその言葉を聞けるのは、俺だけなのだ。
「うん。ありがとう……俺もずっと、傍に居たい」
そう返すと、彼女は花が咲き誇るように笑った。