35話
昨夜、王宮からカリュザイール邸に帰ってきた時刻は深夜近くになってしまい、今朝は眠気がとれずだ。
朝食を食べ終わるとすでに、ガトゥーラ候爵家から料理人たちが手伝いに訪れていた。彼らは何時に起きて出発してくれたのだろうか?有り難い。
侍女頭のミネルバさんが候爵家の料理人たちを別邸の厨房へと案内すると、私も直ぐさま着替えを終わらせて急いで後を追った。
別邸の厨房では、早々とカリュザイール公爵家の料理人たちも何人か来ていて準備を始めていた。料理長が候爵家の料理人たちに指示を出すと、テキパキと指示に従って動き出した。
今日は、2日後の婚姻式の後に領民らに配る焼き菓子を作るために料理人たちに集まってもらったのだ。調理台の上には、チョコレート味を作るためのカカオの粉末、アーモンドスライス、ベリージャムなどがズラリと並んで出番を待っているかのようだ。
私も慌てて料理長に指示を仰ぐ。
「料理人たちが、計量、振るい、混ぜ方を終わらせるので、リュシエル様は型を作って冷やしてくれますか?冷やすときは、保冷庫に順番に並べて下さい。冷えた順からカットして焼き上げますからね」
今日の作業は、焼き菓子の生地を作り3時間以上保冷庫で寝かせた生地からカットして焼いていくの繰り返し作業だ。料理人たちは15時には帰る予定なので、今日中に焼くことが出来なかった生地は、明日に続けて焼く予定になっている。
ちなみに明日はパンを焼く予定だ。
料理人たちは黙々と材料を混ぜ合わせコネコネしているが、最初のころに比べると段々とペースが落ちてきている。それもそのはずだ。地道な作業で利き腕の力も数を作ると疲れが溜まって動かしにくくなるのだろう。
「セクレイト様、ダン様!貴方たちの筋肉を活かすときですよ!身に着けているエプロンは飾りではありません。さっさとコネコネしなさい」
扉の前で、エプロンを着けているのに、ただ突っ立って暇を持て余しているだけの2人に声をかける。
すると、2人は渋々と料理人らに声をかけて計量された材料をボウルに入れてもらい生地を作り始めた。
凄い!コネコネしている腕の筋肉は、料理人たちの3倍から4倍はある。そして、コネコネしながら動いている筋肉はピクピクと動いている。その動きから目が離せず、じーと見ていると筋肉の動きが止まった。
「ふぅー。リュシエル様、貴女様の仕事が溜まって来ましたよ。さっきから何を見ているのですか?やりづらいのですが?」
「あっ、ごめんなさい。ねぇ、セクレイト様···腕の筋肉なんだけど、ダン様の方がムキムキしてるわよ。セクレイト様の筋肉はニョキニョキって感じで、ダン様の筋肉はピクピクと動いているの。どちらも剣を使っているのに···どうして違うかしら――」
「はぁー?馬鹿にしているのですか?···ダンと比べるなんてあんまりでしょう。彼は騎士の家系に生まれてるから、幼いころから剣を持っていますが···私が剣を持ち始めたのは、学院に入ってからですからね」
あんな化け物と一緒にしないで下さいと、散々な言いようだ。隣でめちゃくちゃに言われている当人は、何を言われていてもお構い無しで無表情で生地をこね続けている。
「リュシエル様···子供の頃に遊んだ粘土を思い出したのですが、これで何か創作してから焼いたら···例えば、城を作って焼いたらどうでしょうか?」
「無理でしょうね。上だけ焦げて、中は生のままで食べられませんよ。しかし、ダン様の発想は素晴らしいので、明日のパン作りで一つだけ作ってみてはどうですか?」
パッと晴れやかな笑顔をこちらに向けて「はい!」ととても嬉しそうな声で返事が返ってきた。
···ダン、可愛いー
···意外すぎるぅー
「そ、そんな笑顔も出来るのですね。明日、どんな形のパンが出来るのか楽しみにしていますね」
二人の助っ人に、予定より早く生地が出来上がり明日の準備も料理人たちが帰る前には総て終わらせる事ができた。
その後で、四阿で味見を兼ねてのティータイムをすることになった。
アンとエリー、セクレイトとダンの4人と私でテーブルを囲むのは初めてだ。焼き立ての菓子を頬張りながらセクレイトとダンが笑い合い、生地を捏ねたことを自慢気に話している。
「リュシエル様。とても寒いです。風邪を引いてしまいますから中に入ってお茶をしましょう」
エリーが鼻をすすりながら眉尻を下げて私に訴える。
季節外れの寒さに、みんな鼻頭が赤く染まりだしてきたところで、私は空間魔法を発動した。
四阿を囲んだこの場所に、瞬時に暖かな空間を作ると、最初から暖かくしてくれればよかったじゃないかとエリーが頬を膨らませた。
「ごめんなさい。初めてみんなでテーブルを囲んだから···寒い中でのひと時が思い出深いものになるかと思って···」
「リュシエル様の魔法は、本当に凄いですね」
「そうなの。ダン様の言う通りなのよ。私って、かなり凄いはずなのにね。マキシがいるから霞んでしまうのよね」
「俺とダンが、護衛している意味がないと思う。飾りでいいなら他の奴等でいいと思うのだが?」
「何を言っているのですか?どうしてお二方が護衛なのか分かっていないのですか?···私からは言えませんが―――」
アンが話の途中で口を噤むと、ルキがこちらに向かって歩いてきているところだった。
「アンの声がこちらまで聞こえたぞ。···どうしてセクレイトとダンが護衛を任せられたのか?だったな。リュシーから目を離した瞬間、何をしでかすか分からんだろう?更にマキシリアンもだ。二人そろうと悪知恵が働くからな」
「イルキス様、それは護衛とは言いませんよ」
セクレイトが呆れた表情を浮かべると、ルキは間違えていないと首を横に振る。
「過ちのないように守ることだから、間違えていないだろう」
ニヤリ顔でセクレイトとダンに言うと、アンが淹れたての紅茶をルキのテーブルの前に置いたところで、白いものが視界に入った。
辺りを見回してから空を見上げると、ふわりふわりと雪が舞っている。
「ゆ、雪だわ!」
私の言葉に、みんなが空を見上げた。
「私、初めて雪を見ました」
アンは、初めて見る雪に感動して泣き出した。
「私、みんなに教えてきます。アン!行くわよ···ほら、貴方たちも一緒に行くのよ」
エリーがアンを連れて、そしてセクレイトとダンにも声をかけて邸に戻って行った。
「我が家の使用人は、優秀だな」
ルキの言葉に私が首を傾げると、彼の腕が腰に回され肩の上に頭を乗せた。
「優秀って、そういうことだったのね」
多分エリーは気を利かせて、私とルキが二人きりになるようにみんなを連れて行ったのだと理解した。
「リュシー、婚姻の前に伝えたかったことがある」
「何かしら?」
「今までで···ずっと、言わなかったこと···言えなかったことがあるんだ」
「そのこととは、良いこと?悪いこと?私が聞いてもいいのかしら?」
すると、ルキは私の頬に手を当てて申し訳なさそうな声で呟いた。
「言わなくてはいけないことだから···リュシーが怒るかどうか分からない。いや···多分軽蔑されることだ」
「···そう。聞くのが怖いわ。···でも、私が知らなくてはいけないことなのね」
そういって、私の頬に置かれている彼の手の上に私の手を重ねた。そしてしばらくの間、二人で降り出した雪を見ながらの沈黙が続くとルキは意を決したように口を開いた。
「婚約発表をした日···学園での後夜祭の後を思いだして欲しい―――」
後夜祭の後···?後夜祭を終えると私たちは王宮に行き、王宮医師の診察を受けた。体に何事もなくそのまま婚約の書類を作成しお互いの家が一通ずつそれを持つことになった。
そして、事が終わり父様と母様と一緒に席を立ち帰ろうとするとルキは私の手首を掴んで「リュシーは帰さない」と言い、父様が「リュシーも帰るんだ」と言い争いになった。
長くお互いの主張が繰り広げられ、国王陛下と王妃様が割って間に入ったが収拾がつかず、それを見兼ねた母様が「イルキス殿下···殿下が我が邸にお越し下さい。両陛下、第二王子殿下をお預かりいたします」そして父様を睨み「それでいいわよね」瞬時に争いの幕が下りた。
帰りは、ガトゥーラ候爵家の馬車に母様と私が乗り、王家の馬車に父様とルキが乗り帰路についた。
ガトゥーラ候爵邸に着くとエントランスでは、急な第二王子の来訪に使用人らが驚きあたふたとしたが「急な事だが、第二王子殿下が我が家に泊まることとなった。夕食の追加を厨房に知らせてくれ。それと、客室も至急準備するように」父様が執事にそう伝えると、母様が「客室は必要ありません。どうせリュシエルの部屋で寝るのでしょうから。大浴室の用意だけでいいわ」その言葉に父様だけでなく、執事も使用人らも顔面蒼白になった。父様が母様に小声で何やら話をするが、母様が「早いとか遅いとか、いい加減に諦めなさい」父様を叱ると、シュンとなった父様をエントランスから引っ張っていった。
夜、ルキはガウン姿で私の寝室に入室してきた。そして、初めてルキと結ばれたのだ。
「後夜祭の後、王宮に婚約の書類を作成しに行ったわ」
「そうだ。···書類を作成するにあたり、医師の診断を受けただろう?」
「えぇ、何事も無かったって···ほ、本当は?何事かあったの?」
「いや、何事かあったわけではなくて···したんだ」
「え?した?って何を?···何をしたの?」
ルキは、怯えた表情をし肩や手が震えだし、涙を流した。
「ごめん。リュシーと、俺の体に···魔術で避妊の紋を描いてもらったんだ」
「な、なんてこと?···では、私たちは子供が出来ないの?···どうして?どうしてよ?今更言うなんて···」
「ごめん。でも、違うんだ。子供はできる。明日の夕方、描かれた紋を消すのに···また医師と偽りマキシリアンが腹を触ることになるから···許して···ほしくて···」
それを聞いて、私は開いた口が塞がらなくなった。
「え?···マ、マ、マ···マキシ?···マキシが私を騙して、私のお腹を触ったわけ?信じられない。信じたくない···ルキも酷いわ、私を他の男に自ら触れさせたなんて···知らない間に強姦された気分だわ」
私は、ルキの手を払い除けると立ち上がり「2度も他の男に触られるなら、このままでいいです」そう言いながら見下ろした彼の顔は罪悪感で震えていたが、私も怒りで震えていた。
···どこから私は間違えた?
···ひとりで生きていこうと決めたのに
···あぁ、私は自分で道を外したんだ
···前世のときも孤児で蔑まれていたのに
···愛なんて偽りでしか得られなかったのに
···とんだ勘違いの人生を選んだのは私
···あぁ、なんて滑稽なんだ
「············―――」
誰かが何かを言っている。
でも、何も聞こえてこない。
「············―――」
誰かに何か言われている。
でも、何も聞こえてこない。
···煩わしい
···聞こえないのに耳障りだ
考えることを止めた私は、もう一度空を見上げた。
見上げた空はどんよりしていて、私の心の中の色を表しているようだ。
その後、冷たく感じない雪に首を傾けると私はその中を一人で歩いて邸に戻った。




