“元”社員 佐倉(男性)
元、と肩書きをつけるとしたら田沢もそうだった。でもやつのことは心底どうでもいい。後ろめたさも罪悪感もないと豪語したものの、この会社に限ってただひとつ気がかりなことがある。
それはある女性――俺と同い年で既婚、しかも子持ち――のこと。彼女はパーフェクトマッチの会員だった。サクラではなく、一般会員として。
彼女からの電話を受けたのは俺が入社して二年目になる頃。執拗なまでにストーカーまがいの行為を繰り返す男性会員がいるとのことだった。
通常は利用者同士のトラブルに仲裁は入らないのだが、仕方なしにメールの内容を見てみたところ、そこには惨憺たるやり取りが表示されていた。それはもう思わず嘔気さえ催すような。
「某とセ○レになりましょう」
「ほ別(ホテル代は別という意)二万でどうですか? いいだろ?」
「愛人契約しませんか? 旦那では味わえない悦びをあなたに……」
などなど性欲を持て余した哀れなものばかり。しかもその中には自身の局部の画像を送ったメールもあった。俺の独断だったが当該男性会員は有無をいわさず永久追放した。
そのこと彼女に伝えると、すすり泣くような声が受話器から漏れ出た。悪質な男性会員を淘汰できた安堵からなのか、こんな低俗なサイトに登録をしてしまったことに対する落胆からなのかは、今でもわからない。
ただその時、俺が脊髄反射的に出た言葉は、今思い起こしても身体中がむず痒くなるようなくさい台詞だった。
――お客様が安心して利用できるようなサイトをつくるために尽力いたします。少しでも困ったことやあればいつでもお問い合わせください。私たちが、私が守りますから、パーフェクトマッチを信じて利用してください。
折に触れて伝える欺瞞に満ちた回答ではなく、本心だった。切電後、目の端に映った久賀さんの歪みに歪んだご尊顔は今でも脳裏に焼きついている。
うちの会社ではご法度だったが、いち男性会員として彼女とメールのやり取りをした。“逆”サクラとでもいうのだろうか。会社には一銭の利益ももたらさない無益な行為だ。だけど俺は辞める直前までそれを続けた。そして交流を深めるうちに、彼女がパーフェクトマッチに登録をした理由が徐々に明るみになった。
晩婚化が進んでいるといわれている昨今で、彼女は早くして結婚し子どもを授かった。デキ婚だったらしい。今だと授かり婚なんて着飾っていうのだろうか。はじめこそ絵に描いたような幸せな生活を送っていたそうだったが、ジェットコースターが滑落するかのごとく日々は急に地獄と化したらしい。
旦那が彼女にも子どもにも無関心になり、仕舞いにはほとんど家に帰って来なくなった。追い打ちをかけるように子どもが第一次反抗期にさしかかって、そのストレスから育児うつになりかけた。反対を押し切って籍を入れたということもあり親も頼れず、気軽に相談できるような友人とも疎遠となっていたらしい。
そこで彼女が藁にも縋る思いで登録したのが、奇しくもパーフェクトマッチだった。
登録している男性も女性も、十把一絡げにみてしまえば、下心あって利用する会員が多数を占める。利用目的としてはてんで間違ってはいないので結構なのだが、中には彼女のように癒しの場を求める純粋な会員もいる。また、他会員に個人情報が通知されることは一切ないので気軽に利用できるし、逆にいえば気軽に辞めることもできる。疚しい気持ちはないのだろうが、彼女にすれば秘密裏に利用したかったのだろう。
そんな彼女の心の拠り所であったパーフェクトマッチはもう存在しない。彼女はどうしているのだろうか。俺は彼女の背中を押すことができただろうか。逆にこのことが仇になって自分をまた閉ざしてしまってはいないだろうか。間違っても、自ら命を絶つような真似だけはしないでほしいと切に願う。
彼女だけではない。今まで潰してきた会社の社員、上司にも家族がいただろう。曲がりなりにも懸命に積み上げてきた社会的地位が崩れ去った今、この世界のことを、そして俺のことをどれだけ憎んでいるのだろうか。
夜の街並みを映した窓ガラスに浮かぶ俺は救世主か、それともただの復讐鬼か、わからなくなってきた。
飲み干したグラスに残るアイスが、現実へと引き戻すように乾いた音を鳴らして崩れる。向かいのビルに雑に張られているテナント募集の文字――数カ月前に俺がいた場所――を眺めながら、ひとり喫茶店で物思いに耽っていた。
彼女へ思慕に似た思いを寄せたせいか、はたまた少しばかり感傷に浸ったせいか。次に目星をつけた会社に送りつける履歴書の紙面を、ボールペンは思うように滑ってくれなかった。
履歴書を途中で投げたしたまま店を出ると、夕刻の暗雲垂れこめる空がこの街に雪を散らせていた。人混みを避けながら家路へと向かう中、眼前を通り過ぎる雪は短命と知りながら地面へと着地し、その身をもって地面に溶けていく。大義名分の名のもとに儚く消える様に、自分の頭の中はさらに濁りを増す。
人はおろか雪でさえ目に触れたくないため、狭い路地へと入った。古びた青いポリバケツや、異音とともに生温い空気を出す室外機が、陰鬱な空間を作っている。
足を止めて、空を見上げた。林立するビルで切り取られた空から隙間を縫うように粉雪が降りてくる。その中のひとつが蛇行して近づく。いかにもバブル期物件の見たくれをしたビルの間から落ちてくる。乾燥した頬にそれが着地した瞬間だった。
刹那、世界が震えた。
冷えた空気が細く、そして短く肺へと入りこもうとするも、喉元あたりで塞き止められる。目の奥が突然熱くなり、手足の指先が急速に痺れていく。瞼が自然とさがっていく。胃の底から、というよりも胸元からなにかが溢れ出そうとしている。
誰かの足跡が遠のいていく。自分が自分でいられなくなるような曖昧な視界のすぐ先に、湿り気のある地面があった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。下水の臭いが鼻の内側に佇み、それに追随して鉄の臭いが覆いかぶさってくる。虫の息のような切れ切れな呼吸にも、背中の痛みは憚ることなく断続して全身に走る。救世主ならこんな無下な最期を迎えないよなと、諦念に似た感情が冷えた頭にゆっくりと過った。
一片の雪が頬を撫でる。背中に生えた無機質なナイフが自分の存在証明を示し続けている最中、俺はまた世界から拒絶された。
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