ようこそ、パーフェクトマッチへ[2/3]
――いかにもバブル期物件のみたくれだな。
それは、私が前に籍を置いていた会社の上司がこの街に来ると折に触れてはこぼす台詞だった。ポストモダン建築やらキャピタルゲインやら、しまいにゃ不動産投資やらゼロサムゲームやら、かくかくしかじか。普段耳目に触れることがない単語が湯水のように湧き出ては降りかかるから、こちとら息つく暇もなくてそのまま溺れてしまいそう。
そう仰ってみえても、寸分も理解できませんよ。だって私、平成おじさんが新元号を発表したすぐあとに生まれた生粋の平成人間ですし。そしてそのまたすぐあとにベルリンの壁とバブルが崩壊して、青春時代を失われた二十年とともに歩んできたゆとり世代ですよ?
天井の空調設備に取りつけられたハイブリットファンを目で追いながら、振り返るには取るに足らない過去を頭の中で浮かべていた。目がまわってしまう前に上体を起こさなければとワイヤレスマウスに手を添えて、二十四インチディスプレイ内で跳ね返っているバブルスクリーンセーバーを管理者画面へと遷移させようとした。
「こずみいぃーーっ!!!!」
バブルがまた弾ける。今日はこれで何個目だろうか。
それにしても楊井主任の怒号はまるでバブル。跳ねては誰彼かまわず飛んできて、悪態をつくように小突いてくる。弾けたら弾けたで、いやに粘着性のある得体の知れないものが皮下に浸透して心臓にへばりつく感じ。
嘆息を出し切れないほど呼吸器官は枯渇した。加湿機能がついている空気清浄機をオフィスに三台も設置しているというのに。画面上にも空気中にも、バブルで溢れているのに。ていうかバブルって単語をもう何回頭に思い浮かべただろうか。
「てめぇなにのらりくらりと座ってやがんだ! さっさと来やがれてめぇっ!」
首のすわらない赤子のごとく項垂れる。重たい腰を上げて席を立つ。気怠げに主任の席へと一歩、二歩と近づき――颯爽と通り過ぎて、数分前に出力した顧客データのコピーを複合機から取り出した。踵を返して自席に戻る道すがら、腕も脚も組んだまま射すくめるような目線を振りまく主任を横目で一瞥する。
その隣でべっ甲色の縁をした蜻蛉眼鏡を何度も直している小隅さんの顔を見上げる。二メートル弱ある長身をみすぼらしく湾曲させている小隅。なにを発言するにも「すみません」をあとづけする小隅。天然パーマの頭から剥げた革靴まで、身体中を謝り癖で侵食された小隅。
「佐倉さん」
椅子を引いて座ろうとしたところで呼び止められた。私の名前は佐倉。小隅ではない。入社時の指導係だった先輩、久賀さんから声をかけられた。私の基礎は大方この人でできているといっても過言じゃない。
「どうしましたか、久賀姐さん」
「最新版のハンドブックに誤植が見つかったから手直ししてほしいの。付箋がついているページの緑マーカー部が修正希望箇所。修正後の文言は任せるわ。終わったら製作部にその旨を伝えといて」
「ちなみに期限は?」
「可及的速やかに、と」
「課長がですか?」
「いや、あそこの小うるさい人が」
いまだに罵詈雑言を小隅に浴びせ続けている楊井主任に、久賀さんは肩を竦めながら哀れみの目線を向ける。
「承知いたしました、姐さん」
「あんた姐さんって呼ぶのやめなさいってば。なんだか年老いた気がするわ。まだ三十三歳よ」
「大丈夫っすよ。姐さんは童顔なんで若く見えますって。五歳も年上だとはとても思えない」
「馬鹿にしてんのか」
「してません。すみません」
引き際を見極めることも、この人にご教示いただいたこと。あまり守れていない気がするが。
「まあいいや。それじゃあよろしくね。あ、あとさ」
久賀さんは不敵な笑みを浮かべて、私を見る。
「童顔は褒め言葉じゃないってことを肝に銘じとけ」
私の基礎はこの人からできている、はずだ。そう心の中でいい聞かせながら突っ立っていると、一本の電話が鳴り響いた。反射的に久賀さんが赤く点滅する外線ボタンを押下し、受話器を耳にあてる。
「お電話ありがとうございます。お客様相談室の『多賀』でございます」
小さな背中に向かって軽く一礼をし、その場を離れた。彼女の名前は久賀。多賀ではない。
自席に戻ると息をつく暇もなくコール音が鳴った。しかも二本同時に。二カ所の点滅を確認し、そのひとつを押下する。受話器を持ち上げて、気持ちばかり高めのトーンで応答する。
「お電話ありがとうございます。お客様相談室の『佐原』でございます」
先ほど受け取ったハンドブックをめくりながら応対する。話半分で問い合わせ内容を聞きながら、修正後の文言を頭の中で並べる。くどいようだが、私の名前は佐倉。佐原ではない。




