社員その⑧ 樋春(女性)[2/3]
樋春さんは口を尖らせながらふくれっ面をしている。張りのない皮膚が伸びて、真っ赤なチークが気持ちだけ薄くなった。こみ上げてきた失笑をごまかすために首を捻りながら深呼吸した。
「それで今日はなんのご用ですか? ここに来る前に樋春さんのデータを確認しましたけど相も変わらず絶好調ですし、ダントツ一位のメルレじゃないですか」
メルレとはメールレディのこと。出会いを求める女性になりきって男性とやり取りしてもらうだけのとても簡単なお仕事。要はサクラだ。ちなみに私や小隅さんが行っていたメール送信に返事がきた時はメルレの方たちが対応している。
「きゃー佐倉ちゃんに褒められたわぁ。マンモスうれぴー」
もうそれ死語っすよ。舌先を飛び越えてその言葉が転がってきそうだった。
「まあ私どもとしては樋春さんの男性会員への接し方は舌を巻きます。津々浦々から届いた老若問わないメールに対して深入りしすぎず、だけど軽くなりすぎない絶妙な距離でやり取りしているんですから。他社と比べてもここまで量も質も整っているメルレはいないと思います。ここに樋春さんがいてよかったし、サポート担当としては本当に役立てているかってくらい悩まされます。頭が下がる思いでいっぱいです」
これは冗談でなく本心だ。ホワイトマッチは間違いなく樋春さんという稼ぎ頭に支えられている。このオフィスに似つかわしくもない感慨に浸っていると、樋春さんは少しだけ俯いてだんまりとしていた。
「どうかしました?」
「……いや、常套句かもだけど佐倉ちゃんに褒められると純粋に嬉しくってね。わたし若い頃は水商売で汚れた仕事ばかりやってきたし、テレクラが流行ってた時もテレフォンレディで日銭稼いでたりしていたのよ。だけどテレクラも尻すぼみになってきて、いよいよヤバいって思った時だったわ。パーフェクトマッチに出会ってメルレっていう助け舟にしがみついて……本当に運がいいと思う。佐倉ちゃんにも出会えたし」
心なしか樋春さんが鼻をすんすんと鳴らしている。それに、と加えて続ける。
「佐倉ちゃんにはいっぱいサポートしてもらってるわ。わたしがしょうもない世間話しかしないのもあるけど、飽くことなく耳を貸してくれるし」
「私がお話を聞くのは樋春さんが私のことを慮ってくれてるからです」
「嬉しいわ、ありがとう」
「いえいえ、とんでもない」
「これからもよろしくね」
「もちろんですよ」
「旦那に先立たれたことも、佐倉ちゃんのお陰でなんとか乗り越えられている気がするわ……」
「……樋春さん」
「あらやだ、ごめんなさい。こんな辛気臭い話しちゃって……」
「……ねえ、樋春さん」
「やあねえ佐倉ちゃん、そんなわたしの名前を連呼しないでちょうだいな。死んだ旦那と恋人だった頃を思い出すじゃない……」
「いや、勝手に旦那を殺すなっつーの」
樋春さんは急にひょっとこみたいな顔面を作った。
「あぁあーもー。せっかく悲劇のヒロインを演じようと思ったのにぃ。もうちょっとで佐倉ちゃんの心を鷲掴みできたのにぃ」
「なにいってるんですかそんなことで揺らぎませんよ。旦那さんめちゃめちゃ健康体じゃないですか。朝の通勤時に銭湯帰りの旦那さんとちょくちょく会いますし。還暦前とは思えないほど矍鑠とされてる」
砂を噛んだような面持ちで樋春さんはふんと鼻を鳴らした。
「あんなの甲斐性無しのハゲ散らかした忘却じじいよ。寝室別々なのに鼓膜が破れるかってくらい鼾うるさいし。わたしまでハゲちゃいそうだわ」
「仲睦まじくてなによりです」
「ふーんだ」
バツが悪くなって樋春さんは幼子のごとくそっぽを向く。
ふと腕時計に目を遣るとここに来てかなり時間が経っていた。鬼塚さんじゃないが、私の残り少ない人生のひと時を無下に費やしてしまったようだ。




