社員その⑦ 乾(男性)[2/2]
小隅さんは、ずれた蜻蛉眼鏡を震えた手で直しておもむろに立ち上がった。細長い身体を振り子のように右へ左へと揺らしながら楊井主任の席へと向かう。いつもの光景に乾がプラスされた絵面となった。
「てめえだろこの馬鹿の指導係は!? 単純な業務もロクにできねえくせに、口のきき方すらまともにできねえじゃねえか! てめえの教え方が悪いからだろうが!」
小隅さんは肩を落としながら「すみません」と消えるような声で繰り返している。もしかして私が心の中で「小隅さんみたく~」なんて思っちゃったから? もしそうだとしたら本当にごめんなさい、小隅さん!
「責任感が足りねえんだよお前は! だからいつまで経っても同じような凡ミスするんじゃねえか!? 違うか!?」
これはもういつも通り小隅さんが楊井主任に怒られているだけだ。その証拠に乾は蚊帳の外といわんばかりの面持ちだ。相も変わらず口をだらしなく開けて顎が上がっている。誰がどう見ても元凶は貴様だからな。
結局その日、乾は定時まで咳とペットボトルを掻き鳴らす音を振りまきながらオフィスに居座った。悔しいがその無神経さだけは筋金入りと感心してしまった自分がいた。
定時よりも一時間ほど過ぎたタイミングでタイムカードを打刻する。エレベーターホールに着いて階数表示をぼんやりとみていたところで、用を足し終えた臼木係長がトイレから出てきた。
私は「お疲れ様です」と半身で頭を軽く下げる。同様に「お疲れ様」と返されながらオフィスに戻ると思っていたが、顔の表情も身体の動きも一時停止されたまま係長は滑稽な姿勢で立ち止まった。私が訝し気に首を捻った瞬間、先方から口を切った。
「樋春さんが」
「へ?」
四秒ほど沈黙が通り過ぎる。
「樋春さんが呼んでたよ。佐倉さんのこと」
「あ、はい。わかりました。帰りに向こうのオフィスに顔出してきます」
さっき通り過ぎた沈黙がまた舞い戻る。
「あ、それと廃棄予定のハードディスクがあるから期日までに対応願います。それじゃ」
呟くようにいい、去っていった。
海外にいる人間と電話しているような感覚だ。さほど熟考して答えるような内容でもないのに、なぜあんなにも返答が遅いのだろうか。まあもう慣れたけど。
十階にエレベーターが到着すると一階ではなく、ふたつ下の八階のボタンを押した。またよもやま話を聞かされるのだろうかと思うと、疲労感がずしりと肩にのしかかってきた。
だけど、例のハードディスクがやっと自分の元に届いたと思うと、背中に羽が生えたような心地よい浮遊感が足元から伝った。ただエレベーターが下降しただけなのだろうが。
八階のランプが点灯する。いやに厳かな速度でドアが開くのと同時に、持ち上がっていた口角を引き戻す。




