社員その⑥ 鬼塚(女性)[2/2]
抑揚のない声が切れる。受話器を丁寧に置く音が控えめに届いたところで、佐倉は目の前のパソコン画面右下に目を遣った。
ジャスト五分。ニューレコード。「理詰めの鬼塚」にここまで耐えたのは知る限りでは今回がはじめてだ。まあ先方も中盤あたりで魂抜けていたかもしれないけど。
今回の戦績を頭の中で記録したところで勝者のご尊顔を一目見たいと首を捻ると、鬼塚さんはすでに喫煙所へ向かっていた。
バトル漫画でいうなれば、「彼女が敵じゃなくてよかった」だろうか。そんな取るに足らない空想を描きながら、ロングヘアを左右に揺らしてセキュリティロックの扉の向こうに消える鬼塚さんの後ろ姿を眺めていた。
自分の心の内に、妙な好奇心が芽吹く。そう思った時にはデスクの上にあった煙草を握りしめ、興奮が沸々と湧いてくる身体を抑えながら席を離れた。
「あ、鬼塚さん。お疲れっす」
さも偶然といった体で灰皿の横につく。手元の携帯に向けたまま私をみたせいか、鬼塚さんは三白眼で睨んでいるような形相となった。喉の奥で震わせるように「よお佐倉ぁ」と気怠そうに放つ。釣り目にくわえてマスカラが濃いせいか、目力が強く感じる。
「そーいや五分くらい面倒な客に捕まってましたね」
煙草につけると早速訊いてみた。
「五分くらいじゃねえよ。五分ちょうど、な」
「あ、はい、すみません」
あまり正確なのも憚れるから「五分くらい」といったものの、結局指摘されるなら婉曲的に表現しなくてよかったのか。まあ「五分」ってところは間違いないんだけど。こういう遠慮のジレンマってなんだろうな。
「あんのじじい、客が神様でも思ってんのか。それはお前がいうことじゃねえんだよ、こっち側がいうことなんだよ畜生め。お客様相談室がなんでもほいほい聞き耳立てる御用聞きと思ってんなら、とんでもない勘違いだ。さっさと天国逝って悔い改めやがれ」
無遠慮な言葉が、艶のあるピンクの唇からぽろぽろとこぼれる。自分にいわれているように感じるのか、段々と煙草が不味くなった。
「……でもさぁ佐倉、ウチ思うんよ。なんでみんなマッチングサイト使うんやろうって」
わざとゆっくりと息を吐いて考えている振りをしていると、そのまま鬼塚さんは続けた。
「一時的な性的欲求を満たしたいがために入会して、高いサービス料金を払って、さらに出会った女性にはふんだくられて。そんな安い欲求なんて風俗で一発解消できるじゃないか? その判別すらつかなくなるくらいバカなのか、男ってのは」
煙草を挟んでいた指に熱が伝う。フィルター近くまで燃えていたそれを灰皿に捨て、新しいのを一本取り出した。鬼塚さんはだんまりとしている。口に銜えた煙草に火をつけるや私は口を開いた。
「性的欲求を満たす方法が多様化してきたんじゃないんすか? お店があらかじめ用意したプロと交わるよりも、なににも属しない素人を出会うところから攻略したいという欲求がはらんでいるとか。もしくはお店に行くよりも安価なると決めこんでいるとか。いずれも殿方たちの希望的観測に過ぎないんですけどね。だから……騙されるんで、しょ」
不意にむせてしまう。心臓に鳥肌が立つような嫌悪感が身体中に伝染しているようだ。
「佐倉にもそんな悪態をつくことあるんだな。なんか新鮮。まあ結局のところさ、ウチが思うには死に至らなきゃいいわけさ。誰かが死んでまったらどうしようもない」
反射的につけたばかりの煙草を灰皿に投げ入れる。鬼塚さんが眉間に皺を寄せてこちらをみた気がしたが、「お疲れ様です」と一方的に言い放って私は辞去した。速さを増した鼓動を抑えたいためか、一人になったエレベーターでは胸元あたりをずっと握っていた。
落ち着いてから自席に戻った瞬間、お問い合わせ専用の受信ボックスにメールが届く。本文には「たいかいきぼう」と稚拙な文章が並んでいた。退会処理のため顧客情報を表示する。視界に飛びこんだプロフィール写真の中では、ふたつのハートマークで目元を雑に隠した還暦近くのおっさんが歯茎をむき出しにして微笑んでいた。ちょうどその日、五十人目の退会者だった。
退会処理をするためメールをクリックするとすでに対応中となっていた。右手後方から壊さんばかりにキーボードを叩く音が断続して届く。確認したところ処理者は乾。
雑音ジェネレーターの異名を持つアホな後輩だった。




