社員その⑤ 笹川(女性)
陰口を叩く人も叩かれてしまう人も、総じて嫌いだ。
私自身が一切の愚痴やら不満がないわけではないが、それを職場の人間同士で揶揄し、ひけらかすのはどうかと思う。だから私はそう感じた時、心の中でそっと独り言ちるのだ。
笹川さんが、笹川さんのことがとても――大っ嫌いだ。
『だからてめえさっきから何遍もいってるだろうが! 今すぐキャンセル処理しやがれってんだ! こんな詐欺まがいのサイトに一円も払う価値なんかねえんだよ、このダホが!』
「はあ」
鼻で笑うように答えるのが笹川さんの常。これを無意識でやってるから救いようがない。団子鼻ってところが笑えるけど。
真後ろの席でビジネスフォンのスピーカーとマイクをオンにしたまま、話半分どころか聞く耳も持たず生返事を繰り返している。いや、受話器くらい持てよ。
『お前じゃ話になんねえから上司出せ! わしゃついこの間まで豚箱入ってたんじゃぞ!』
笹川さんを擁護するわけじゃないけど、だからなんだってんだよ爺さん。
ちなみに豚箱ってのは留置場のことだ。簡単にいうなら、悪いことしちゃって警察の管理下に置かれちゃう場所のこと。詳しく知りたいなら自分で調べてくれ。ここで大事なのは、警察のご厄介になったらみんな豚箱に収容されるって勘違いしている人が多いってこと。そしてそれをひとつの脅しの材料で使っちゃうこと。この爺さんも恐らく――
『一升瓶を丸々一本飲み干したあと、気づいたら豚箱におったんじゃぞ! どうじゃボケ!』
ああ、やっぱり。「トラ箱」と勘違いしているなこのボケた爺さん。
トラ箱とは保護室のこと。もうその名の通りで保護するための場所で、爺さんの場合なら「超絶面倒臭い泥酔者をほっといたままにしてしまったら周りの人たちに危害を加えかねないから、警察の面子を保つためとこじつけて渋々保護しちゃるわ」という感じか。
そんなもので物怖じするとでも思っているのだろうか。まあいずれにせよ身の程知らずだし、笹川さんがこんなことで臆するはずなどない。彼女は会員に対しても職場の人間に対しても、利他の心がまるで皆無だ。筋金入りともいえよう。
「繰り返しになりますが、利用規約の第六条に明記しております免責事項より、すでにお支払いいだいた料金につきましてはいかなる場合でも一切返還いたしません」
『そんなの知ったことか! いいから金返せ! あと消費生活センターと弁護士と警察にこのこと通報するから覚悟しろよこの野郎!』
「ご自由にどうぞ。話が平行線となりますのでお電話切らせていただきます。お問い合わせありがとうございました。本日はわたくし『笹見』が承りました。失礼いたします」
間髪入れず切電した。本当に辛辣だ。あんな人が奥さんだったら毎日地獄だろうな。そう思った直後、笹川さんの首がぐるりとまわって私に向く。
「佐倉さんなんかいった?」
「い、いえ。なにも。へへへ」
多少漏れてたかもしれない。地獄耳かもしれないな。くわばらくわばら。
笹川さんは抽斗からメモ帳を取り出し、大袈裟に音を鳴らしながらなにかを書き殴っている。ボールペンをデスクに放り、大きなため息をついて立ち上がると久賀さんの元へ近づいた。
「久賀さーん。さっき受けたお問い合わせの件なんですけど、どうすればいいですかねえ?」
隣の席の久賀さんに目を遣ると、受け取ったメモをしかめ面で見ている。文字がミミズのようでとても読めるものじゃないが、後ろからどんなやり取りをしていたか聞こえていたので問題ないようだ。
「主任に相談して先生に報告するかどうか指示を仰いでみたらどう?」
ちなみに先生というのは、うちの顧問弁護士のこと。規約の作成やら、風評被害サイトの削除なんかを請け負ってくれる。今回のような会員とのトラブル時にも仲裁に入るのだが、当方が「弁護士を通して~」と伝えると、大概は会員の方から引いてくれる。いってしまえば、ひとつの脅しの材料だ。
視界の端で笹川さんの歪んだ顔が視認できた。
「えー主任にですかあ? 久賀さん代わりに訊いてくれませんかあ?」
胸の前で手を組んで哀願した。笹川さんは主任を毛嫌いしている。まあ笹川さんだけではないが。
「甘えないの。それくらい自分でやりなさい」
「ふぁーい」
気の抜けた返事をし、自席へと戻った。
笹川さんはなにかにつけて久賀さんを頼る。尊敬の念というよりも、傾倒に近い。もしかしたらレズビアンかもしれないというのが私の見解だ。カジュアルデーに着てくる服装はストリート系でボーイッシュだし。一人称は「僕」だし。主任いわく処女らしいし。レズビアンの素養があり過ぎる。だがしかし――
へっくちょっ。
これだ。無駄に可愛らしいクシャミが妙に女の子らしいのだ。私はただただ癪に障るだけ。久賀姐さんに倣い舌打ちをした。今度こそ漏れないようにと心の中で密かに。
その直後、お問い合わせ窓口の回線に一本の電話が入る。すぐ後ろでその回線を押下する音がぱちんと短く鳴った。その方に顔を向けると笹川さんの隣にいる鬼塚さんが受話器を持ち上げ、指切りげんまんのように伸ばした細い小指で長い髪を耳にかけていた。
戦闘開始、かな。少しばかり武者震いした身体をごまかすように前に向き直り、呼吸さえ憚るくらい息を潜めて耳を傾けた。




