「砂」
25日の深夜、安っぽいネオン看板であふれる繁華街を歩いていた。何もすることがない。
奴隷の身分からやっとのことでここまで逃げてきたが、あては外れてしまった。決死の思いで地獄から這い上がったというのに、この町には私の長年の好意を無下にした元恋人しかいない。悲しみの渦に落ちるよりも前に、信ずる者を見誤った自分が愚かだったと納得した。私に帰る場所は無く、行く先もなく、悲しみもなかった。
この場所で被害者の面をぶら下げていれば、加害者が嬉々として寄ってくる。二度も拉致されたらたまったものではない。ポケットに手をつっこみ、地面と建物の境目あたりを睨みながらゆっくり歩を進めた。幾人もの薄汚い人間とすれ違った。処理すべき感情も辿りつくべき目的地もない、これが本当の暇であった。
いじめる方も被害者だ、とは誰のお遊びだろうか。加害者に加害者の動機があることはわかる。しかし、加害者全員が子どもというわけではあるまい。平穏に暇を持て余した傍観者の戯言が、もっともらしい言葉をもって世に浸透してしまうとは、この世界の大半は十分に平和であるらしい。
守られた加害者は暇を潰すのに忙しく、私たちのような弱々しい体躯の者を選別する。
かかとを引きずって歩いていると繁華街の一角に奇妙なスペースを見つけた。むきだしの土の地面を薄いベニヤ板で乱雑に囲っただけの、まるで学園祭のお化け屋敷のように安っぽい広場だ。ベニヤ板の所々には白熱電球がくくりつけられ、あたりはぼうっと明るい。人の出入りがある。何かの売場らしい。私はその荒んだ光景に興味を持って空間に足を踏み入れた。
ベニヤ板には、いかにも中古品らしいダーツのまとや汚れた壁掛け時計が無造作に飾られていた。地面にはべっとりと白いペンキで塗られた木箱が並び、大きさのバラバラな錆びかけのネジ、蝶番、塗料のはげた木の表札や折れた風見鶏のようなガラクタが大量に置いてあった。売り物なのだろうが、これらに金を出す者はいないだろう。商品を指さしてああだこうだと言葉を交わす客たちの声を聞きながら、私の視線はひとつの砂時計の上で止まった。1分なら計れそうな小さな砂時計は、その空間においてだいぶまともだった。
私には、その砂時計がなぜそこにあるのかがわかった。コツンと砂時計をひっくり返すと、私は店を出た。時は戻ってきた。今は19日、私に別れを告げたあの男が、まだ私の物だったときの日付だ。
男の家はみずぼらしい木造のアパートの2階にある。
幾度となくそう繰り返したように私は扉を叩いた。
「やあ!」
出てきた男ににこやかな挨拶を送る。「変な店を見つけたんだ、行かないか。」
男は曖昧に笑って着いてきた。この数日後に発する己の別れ文句を、彼は知っているのだろう。
男と私は、安っぽいネオン看板であふれる繁華街を歩いた。何もすることがなくとも、そこには忙しい平穏があった。
久しぶりにうきうきしていた。誘拐の悲劇の傷は未だ癒えていないが、私は新たな一歩を踏み出していける気がした。
「ここだ」
私たちの前には海が広がっている。黒々とした夜空の下にたたずむ、優雅な海だ。
荒い波風はない。水平線より少し高い場所から見下ろす海原は安らぎであった。
「店って?」
「さようなら」
背を蹴られた男は海に落ちていった。
垂直な岩肌にくだける水しぶきに紛れてそれは沈んでいった。
私の瞳には彼のやさしい眼差しが残っている。美しい思い出は褪せないうちに摘み取るのが一番だ。
やることを終えたので、私は繁華街に戻った。
あの奇妙な店は相変わらずそこにあった。だがもう行くこともないだろう。
私は白み始めた空を見上げて歩き出した。
(完)