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ガライ街のアレフ  作者: かたつむり工房
別離
20/26

10-7 見たことも見ることもなく

 色とりどりのゴミにまみれた泥沼から浮かび上がるような感覚に俺はもう飽き飽きしていた。まだ対面するのは十回かそこらだったとしても、常に諦念とため息とともにあるそれにうんざりしないわけがなかった。


 だが、今回ばかりは鮮烈な悔恨の記憶が背中を押し上げて、俺は強烈な感情のうねりとともに飛び起きる。


 時計に映る日付がいつも通りであることを確かめて、自分の失敗を確信した俺は苛立ちをぶつけるように壁を殴りつけた。


「クソ!」


 また、戻ってきてしまった。


 もちろん収穫はあった。犯人が誰なのか、犯行の様子、彩芽のこと、今まで謎だった様々なことがようやくわかったからだ。


 しかし、もしかしたらここですべてを終わらせられるかもしれないというところで、あんな失敗をしてしまうなんて……。


 もしかしたら俺の中にも『失敗してもやり直せる』という甘い気持ちが生まれてしまっているのかもしれない。


 別人のように生き生きと探偵ごっこをしていたあの了一や、カミングアウトとともに私を守ってと懇願したあの彩芽に出会うことは、もうないというのに。


 いや、でも、彩芽は……? と考えが思い至った時、部屋の呼び鈴が鳴らされた。


 一日目の朝、ここで俺の部屋にやってくる人間は、決まっている。


「早かったわね。起きてた――って、ちょっと!?」


 燻っていた心が彼女の顔を見たとたんに燃え上がる。


 目の前に現れた自分の幼馴染の顔をした女の腕を取って、力任せに部屋に引き込む。大した抵抗もなく、俺はあっという間に彼女をワンルームの床へ押し倒していた。


 やりすぎだという気持ちもあった。


 でも、いつも通りのセリフを吐く彼女がどうしようもなく作り物めいて見えて、俺は自分への苛立ちも彼女への怒りも大きくなり続ける罪悪感も一緒くたにして八つ当たりをすることに躊躇うことはなかった。


「な、なに……?」


 彼女は突然俺に押し倒されたということに随分と困惑した様子で、視線を返した。彼女の気持ちなんて知ったことではないが、抵抗がないほうがやりやすいのは事実だ。


 俺は要求を端的に述べる。


「話せ。お前はどうしてここにいる?」


「ど、どういうこと? 慎、こんなの……」


「ごまかすな! 俺は知っているんだよ! お前が未来から来たことも! シビュラを殺そうとしていることも!」


 口角に泡を立てて怒鳴りつける。こんなことをしても意味はないし、俺の苛立ちを他人にぶつけるなんて卑劣な行為だとも思う。


 けれど、彼女が俺の病を知っていると告白したあの瞬間、そして、それを隠していたことを彼女に謝れたあの瞬間、俺は間違いなく幸せだったのだ。それが偽りだったかもしれないということが、どうしても許せなかった。


 お前は誰だ?


 お前は、本当に彩芽なのか?


「答えろ!」


 驚きに見開かれた瞳がこちらを見返す。


 一瞬、俺は無垢で無実な女を押し倒して怒鳴りつけているんじゃないかという危惧が頭を過る。でもそれがあり得ないということはあのマンションの庭園で銃を握っていた彼女の姿が証明していた。


 じっと俺を見つめていた彼女は決心したように頷いて、それから俺だけに聞こえるように囁くような声で言った。


「……わかった、話すよ。全部」


 ようやくここまで来た。


 俺にできたことはほとんどなかったけれど、それでも初めてシビュラの死を夢に見たあの時から、彼女に事件の解決を頼まれ、了一に相談し、ついに彩芽から話を聞くことができる。


 これで、きっと解決できる。そう思ってほっと安心し、緊張の糸が切れた俺は、しかしさらなる混乱に叩き落されることになった。


 彼女の話の始まりはこうだった。


「私のいた未来では、タイムマシンの争奪によって、第三次世界大戦が起きるの」


 


「タイムマシンなんてそんな簡単に言うけどどうやって実現するんだ」


「タイムスリップは時間と空間を超える神の業よ。そんなことができるものなんてたった一つしかないわ。アレフ――シビュラよ」


 またシビュラ、か。


 世界そのもの。


 生きる真理。


 人間の始祖にして、この世に現れた神。


 こんなにも超常的でオカルティックなことが立て続けに起きているというのに、そのすべてがたった一つの源泉から湧き出たものでしかないわけか。


「アレフを研究した緒方華はタイムマシンを作成し、その理論は公表された。でもシビュラは一人しかいないわ。誰がどんなに頑張っても彼女がいないところにタイムマシンは作れない。そこから生まれるのは当然、奪い合いよ」


 タイムマシン――というよりもシビュラの奪い合いによって、世界は争いを始めた。地下資源だのなんだの割合ですら戦争が引き起こされるのに、この世にたった一つしかない資源が戦争の引き金にならないはずがない。


 そうして彼女がこっちに来るまでの間の死者はおよそ五十六億人。ついには核ミサイルの使用がちらついてきたところで、彼女たちは過去改変に踏み切ったのだという。


「緒方先生はね、このタイムマシンで過去改変はできないって言っていたわ。シビュラの中のアレフを休眠状態に落とすことによって新たなアレフを生み出すこの方法では、新たな世界を引っ掻き回すことしかできないって。それでもよかった。私たちにとって必要だったのは救いじゃなくて、贖罪だったから」


 彼女の心は重く沈む。積もり積もった感情にがんじがらめになって、ただやれることをやるしかなくなったとでもいうのか。本当に欲しかったものが手に入らないとわかっていても、それを手に入れようとする行為に彼女は固執してしまっているのだろう。諦めるなんてことはできないから、歪んでしまう。


「緒方先生と知り合いなのか?」


「そ。私は慎とは全く関係なく白波大に入って、緒方先生の研究室に入ったの。入った時はまだタイムマシンは公表されてなかったけど、シビュラはいた(・・)わ」


「いた?」


 引っかかる言い方だった。


「すでに試作機としてのタイムマシンは出来上がっていた。でもね、このタイムマシンっていうのは、シビュラが接続するアレフを基準にそこへ接続するシビュラの力を使ってタイムスリップするの。だから、簡単に言えばね、彼女はタイムマシンの部品としてそこにいたのよ」


 衝撃的な未来に、俺は絶句するしかなかった。


 彼女が、部品として……。


「私はそこで、計器とケーブルにつながれたシビュラの『手入れ』をしていたの」


 手入れという言葉に、俺の胸はさらに締め付けられる。


 確かに彼女のその内情は明らかに人間じゃあない。でも、彼女は、人間の誰よりも感情豊かに笑うじゃないか。


「秘匿プロジェクトとして参加した私は事前にシビュラについて聞かされていた。世界の核で、真理を内包していて、不老不死で、永久機関。最初はそんな奴、怪物かなにかだと思ってた。でも、機械に固定されて常時バイタルを取られて部品としての機能しか要求されていないのに、彼女はそれでも私に話しかけてくるの。そしたら、いつの間にか、もうそんな風には見れなくなってた……」


 声が少しずつ涙にぬれる。


 目尻から雫が零れるころには、彼女の甲高い声は吠えるようにワンルームの部屋に響いていた。


「だから、本当は殺したくなんかない! でも私はタイムマシンのない世界を作らなきゃいけない! だってそれがこの戦争で死んだ人たちへの手向けになる。死んだ人は生き返らないけど、世界を変えることはできる! それを私が証明してやらなくちゃいけないの!」


 もう半ば泣きながら、それでも激情を吐き出すように彼女は話を続けていた。


 そんなのでたらめだと言いたい気持ちはあった。そもそも第三次世界大戦なんて荒唐無稽すぎるし、シビュラの奪い合いで五十六億人? そんなの嘘に決まっているというのは簡単だったろう。ただ、彼女が燃やす感情の強さが、それがただの口から出まかせではないということを物語っていた。


 はあ、はあ、と彩芽が熱い息を吐く音だけが耳に響いた。


 彩芽が抱えているもの。


 俺が今まで見えていたもの。


 この期に及んで、俺には自分にできることがなんなのか、わからなくなってしまった。こうして無理に彼女を問い詰めて、すべてをさらけ出させて、そうしたことで、余計に問題の解決が遠くなってしまったような気がする。


 事件の解決は簡単だ。犯人を突き止めて、証拠をそろえて、罪を認めさせればいい。


 じゃあ、問題の解決は? 彼女が抱えている問題を、俺はどうやって解決してあげればいい?


 永遠に続くかと思われた問いかけへの答えは、意外と簡単に示されることとなった。まさに、その本人から。


「実はね、あなたが私と一緒にいてくれるなら、彼女を殺さなくても済むの」


「は……?」


 俺が、彩芽と、一緒に?


 それでなにが解決するというんだ?


 そういえば、彼女の目的が先ほどのものだとすると、こうやって引っ越してきたり、デートをしたりというように俺に近づいてくることに理由がつかない。


「さっきも言った通りタイムマシンを開発したのは緒方先生。それに水谷了一」


 了一も? でも、確かに、現時点で、その可能性に気がついている彼らがいつか作り上げるというのは納得のいく話ではある。さらに言うなら、了一なら「不老不死なら別に部品にされてもいいでしょう?」と考えてもおかしくはないようにも思える……。


「でも、あの二人だけでは完成には至らないの。そこに、慎がいたからよ」


「俺が?」


「そう、慎がシビュラと恋に落ちたから」


 こ、恋って……。


「恋に落ちたシビュラが慎に自分の身の上を話して、それをあなたが彼らに話したから、タイムマシンは出来上がるのよ」


 俺は彼女の言うことを何度か頭の中で反芻して、咀嚼しないと飲み込むことができなかった。


 タイムマシンが原因で第三次世界大戦が起きて、そのタイムマシンを作ったのが緒方先生と了一で、そして、俺がそれを作れるようにお膳立てした張本人だと。


 それじゃあつまり、第三次世界大戦の原因は、俺……?


「だから、慎、あんたは未来を救わなきゃいけないの。ううん、救えるのは、あんただけなのよ」


 救う、か。


 俺には未来の五十六億人を救うことができて、もっと言うなら救う義務と責任がある。それをしたのは未来の遠野慎、あるいは別世界の遠野慎だけれど、それでも、それが俺であるということに変わりはない。


 だから、俺は――。


「あんたがこれからシビュラと会わなければ、それですべてが救われる。みんな幸せでいられるの。だから、お願い」


 …………あ………………もしかして、今、俺は迷っていたのか?


 迷う理由なんかあるはずない。


 あっていいわけがない。


 だって、俺はあの時決めたはずなんだ。もう、俺という存在が消えて不幸になる存在は作らないって。


 それなのに、俺は今、考えてしまっていた。「もしもう会えないと話したら、シビュラが悲しんでしまうだろうか」と。


 今まで日和って、足踏みして、迷って、間違えていたツケじゃないか。


 俺が間違えたから、シビュラが悲しまなければならないのだ。


 間違えさえしなければ、俺がすべての不幸を背負って消えて、何十億人もの人間が幸せになって、それでめでたしめでたしだったのに。


 何十億の幸せがたった一人の悲しみに代えられるなんて思わない。彼女にとっては彼女がすべてなのだから。


 でも、きっと彼女は俺がいなくても幸せになれると、そう信じる以外に、俺が取れる道はただの一つもない。


 懇願するように俺を見つめる彩芽の潤んだ瞳と紅潮した頬を視界に入れる。


「ああ、わかった」


 もしかしたらこの一言が未来を変えるかもしれないというプレッシャーからぐるぐると世界がゆがんでいくような錯覚を覚えながら、俺は首を縦に振った。

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