それぞれの明日へ
エピローグ その一
未来のシナリオ 1
スラインローゼの復活、ゼナの暴走の停止、ダルトンの打倒、やるべきことはすべてやったという達成感の中、ダルトンの叫びを背中に聞いて、アモールとサラサはシレーネたちのもとへ帰ってきた。
言われる当人にも、言う側にとっても、つらい報告をするために…。
そんなこととは露知らず、シレーネとメモリーはアモールたちの凱旋を、歓声を上げて迎え入れた。
シレーネと逢ったアモールが最初したことは、ゼナとスラインローゼの関係と異界への旅立ち、シレーネらと分かれて以後の出来事を全て話すことだった。
「そう、わかったわ。なんとなくだけど、そんな予感がしてた…」
泣き出すかな、と思っていたにもかかわらず、シレーネは意外に聞き分けがよくアモールの報告に素直にうなずいていた。
もしかしたら、単なる強がりだったのかも知れないが、たとえ空元気だとしても泣き続けるよりましなこと、幾百倍である。
メモリーは何を考えているのか、何も考えていないと見るのが正しいのか、ただ黙って微笑んでいた。
一通りの事情説明がすむと、四人はマルコの待つ一階の部屋へ向かった。
まだ夜明け前であるから、起きているとも思えなかったが、万が一起きていたとしたら、かなり前に目を覚ましひたすらアモールたちの帰りを待っているとしたら、そう想うと居ても立ってもいられなかったのである。
置き去りにした負い目があるサラサは特に…。
「おそ~い!」
階段を下り、長い通路を通ってマルコの待つ部屋へと四人が姿を現した途端、怒声の平手打ちが四人の顔をしたたかに打ち付けた。
「遅すぎるよ!! 目を覚ましてみれば誰も居ないし、いくら待っても帰ってこないし、お腹はすくし、寒いし、暗いし、それに、それに…」
置き去りにされた怒り、独りぼっちの寂しさ、心細さ、みんなが無事に帰ってきたことの喜び、それらの感情が入り混じり、自分でも何がなんだか判らなくなったのだろうマルコは、アモールの胸に飛び込み声を上げて泣きだした。
暗く、ジメジメした密室にただ一人で居ることは、小さな子供だけに留まらず、大人にしたって耐えがたい苦痛である。普段はもちろん、こんな生死を分けるような危険な場所ではなおさらだ。
そんなところに一人で置き去りにされれば半狂乱になって騒ぎ出すのが当然である。
それなのに、勝手に動き回ればアモールたちの邪魔になる。そう考えてジッとしているというのが、なんともいじらしい。
「バカ、バカ、バカ。あたいを独りぼっちにして、みんな居なくなっちゃうんだもん! 大ッ嫌い!!」
栗色の大きな瞳から、やっぱり大きな真珠を零して、アモールの胸を叩く。
「で、でも、それは…」
とりあえず、弁明の一つもしょうとアモールが言葉を探す。
だが、下から見つめるマルコの涙に濡れ、潤んだ瞳を目にしたとき、そんなものが何の慰めにもならないことを悟った。
置き去りにされた理由はマルコが一番良く知っている。
彼女が欲っしているのはそんなありふれた言い訳などではないのだ。
「ごめん、悪かったよ」
素直に謝り、アモールはマルコを抱き上げた。そして、右の肩に乗せる。
「わっ!!」
急な行動に面食らって、声を上げたマルコだが、嫌がる素振りは見せず。アモールの頭を抱きかかえるようにして、優しく捉まっている。
「お詫びに街まで乗っけてってやるよ。案内を頼むぜ、船長!」
塔の出口へと歩きはじめて、アモールは肩の上の少女に、そう声を掛ける。
たった一人の家族である親父さんが船乗りである少女にとっては、それが一番うれしい呼ばれ方だったのである。
アモールには、それがよく判っていた。
「……。よろしい、出帆旗ヨーソロ!」
一瞬の沈黙は、涙を拭く間だった。
涙を拭き取り、上げたマルコの顔は晴れた青空のように爽やかに輝いていた。
マルコのかけ声とともに、アモールは走り出していた。光りあふれる外界へと、無限の広がりを見せる世界目指して。
シレーネ、サラサ、メモリーの三人は、そんな二人を微笑をたたえて見守っている。
やがて、顔を見合わせ目で頷いた彼女たちも、アモールの後を追って走り出した。その顔から苦闘の疲れも悲しみも消え、地平線に顔を覗かせる朝日に向かって、駆けていく勇気と希望の色だけが鮮やかに浮かんでいた。
塔の外に出、街の廃虚を横切って外に出た彼らの目に、青と紅、紫の微妙な色使いが美しい空が写った。
一点の雲もなく、晴れ渡った空は彼らの心同様に澄み通っていた。
もはや、暗黒の雲に覆われ、死の大地と呼ばれた場所はどこにもない、あの巨大な《白き竜》も姿を消している。
荒れる風も肌を突き刺す氷片も飛んではいない。一面に広がる白銀の大地だけが凍てついた過去の名残りをとどめるのみ。
冬が終わり、春が到来するのだ。
全てのものに…。
「これでもう、氷世雪が起こることはないわよね」
寒波による冷害に苦しめられ、村を捨てることをも考え、絶望に曇る村人たちの顔がシレーネには思い出される。
だが、もう悩む必要はない。
絶望は希望に、苦しみは喜びに変わったのだ。雪に閉ざされ、氷に塞がれた大地が永い眠りから覚め、小さき命が芽吹きはじめる。
美しくはあっても、危険と苦悩にさいなまれる白と銀の時代が終わりを告げ、青と緑の命の輝きに満ちた穏やかで緩やかな時が流れていく。
我知らず、彼らは歩き出していた。
本来あるべき場所に、彼らを待つ誰かのところへ。 吹き抜けていく風に、小鳥のさえづりを聞いたような気がした。
小高い丘の上に立ち、蒼くどこまでもつづく水平線を見つめる。
そこにはもう氷の道はもちろん、一つの氷山もなかった。
凪いだ海原がただ横たわっている。
引いては帰す波の音も、心なしか優しい響きで伝わってきた。
「マリーナ!」
「シレーネ!!」
そんな海岸のほうから、二つの呼び声が聞こえてくる。
同時に二人の人物が姿を現した。
一人は口髭をはやしたむくつけき大男で肌の色と赤茶けた髪から船乗りであると知れる、もう一人も逞しい体つきではあったが、こちらはいかにも山の男という感じの若者だった。どちらの男も、優しそうな瞳を持っている点は同じである。
「父ちゃん!」
「ボルガン!!」
意外な人との、意外な場所での再会に戸惑い、驚きの声を上げる二人の少女。
だが、その驚きはすぐさま喜びへと変わる。 変わるやいなや、歩みが自然に速さを増していく。
マルコとシレーネがそれぞれの大切な人のもとへと、駆けていく。
アモール、サラサ、メモリーには再会するような人はいない。駆けていく二人の後を遠慮しながらゆっくりと追いかけるだけだ。
「父ちゃん」
もう一度呼んでから、マルコは熊のような大男の胸倉にしがみつく。
言葉の様子から、この男がマルコの父親なのだろうが、ハッキリ言って似ていない。
似ていないどころか、別の生き物のようにすら見える。
間違いなく、マルコは母親に似たのに違いない。それにしても、こんな大男に抱かれて、よく壊れなかったものだ。と、その場にいた人間はマルコの母がどんな人だったのか、考えずにはいられなかった。それが死者への冒涜であることは承知の上で、である。
「マリーナ! このおきゃんが、親に心配かけるなんざふてい野郎だ!!」
おきゃんとは、お転婆と同義語である。
明朗活発にすぎて慎みのない娘、という意味であるが、マルコことマリーナ・リスニィほどこの言葉がしっくりとはまる女の子はそうざらにはいないに違いなかった。
「い、痛い! 痛いよ、この馬鹿力!!」
身長の優に五倍近い大男に、首筋を後ろから抱え込まれたマルコ、否、マリーナが悲鳴を上げる。
「何だと! 久々に逢えた親にたいして、挨拶ぐらいきちんとせんか!!」
「説得力ねぇよ。その久々に逢えたかよわい娘にいきなり技かけるような奴が言ったってな!! だいたい、この半年なんの連絡もよこさねぇで何処ほっつき歩いてたんだよ」
丸太のような腕の中で、手足をばた付かせながらマリーナが喚く。その語尾が涙声になったことに本人は気がついていないらしい。
「ある海賊に多額の賞金が懸けられてな、何としても捕まえてやろうと一攫千金を狙ってたのさ。そしたらどうだい、連中船を無くしてカリスの港でたむろってやがった、だから捕まえて縛り上げてたのさ、そしたら、おまえらがブリオニア大陸に渡ったって情報が入った。だから、こうして迎えに来てやったんだ。ありがたくおもいな」
その、ある海賊というのは、酒場でマリーナに因縁を付けていた。そして、マリーナとアモール、シレーネがともに冒険の旅に出ることを決定づけた、あの連中のことに間違いないだろう。
マリーナの口から親父さんが船乗りだとは聞いていたが、商船や漁船の乗組員と言うのではなく、海賊退治専門の賞金稼ぎであったようである。
「奴らをノーウッドの監獄島に引きづっていきゃ、母さんの夢だった酒場兼宿屋の開店費用ができる。そしたら、あの船も売って、どこかの小さな港で、おまえと一緒に暮らそうなんて…想ってるんだがな」
「…。父ちゃんも、覚えてたんだ。もう、忘れてるのかと思ってた…」
意外そうにマリーナが呟き、親父さんは照れたようにニッと笑ってみせた。
「てめぇの親父様を見縊るんじゃねぇ」
照れ隠しのつもりなのか、両の拳でマリーナのこめかみをグリグリしながら言う。
痛みに顔を歪めるマリーナだが、その表情はどこか嬉しそうだった。
エピローグ その二
未来のシナリオ 2
離れた場所では、シレーネがボルガンにしがみついて泣いている。
またか、という気がしないでもないが、アモールに泣きついたときとは微妙にニュアンスが異なる。アモールの時は、単に泣きつく場所がほしかっただけ、極言すれば誰でも良かったのだ。
だが、今は本当に心の許せる人間の胸に顔を埋め、気持ちのたがを完全に外して、無防備でおもいきり泣ける。
逢って二日余りのアモールと、産まれたときからの幼馴染みで乳兄弟のボルガンでは見せる、見せられる顔も違ってくる。薄いヴェール越しに見せる顔と、素顔の違いだ。
泣きつかれたボルガンのほうは、黙ってシレーネがしがみつくのに任せて仁王立ちになっている。
こんなとき、普通なら嗚咽するシレーネの肩を抱くぐらいのことはするものなのに、根が純朴に過ぎるボルガンはしない、できないでいる。
だが、それがかえって今のシレーネにはありがたかった。この男の、この無器用さをシレーネは好きだったのだから……。
「もう、いい加減に泣きやめよ。涙の中で溺れる気か?」
ボルガンが声をかけたのは、十分は優にたってからだった。
言われて、顔を上げるシレーネ。
だが、両腕はボルガンのシャツを握り、離そうとはしない。
そんなシレーネの視界に、今まで顔を埋めていたボルガンの胸元が、自分の涙と鼻水でベチャベチャになっているのが見えた。
思はずこぼれる、照れた笑い。
「…ごめん。ごめんね、もう泣かないから…あたしってば悪い子だね」
袖で涙を拭き、無理に微笑むシレーネ。その笑顔は、幼い日のそれと変わらない無邪気さを放っていた。
「ああ、悪い子だ。俺になんの断わりもなしに、こんな所に来て、危ないことはしちゃいけないと言っといただろう?」
まるで、小さな子供への大人のセリフだが、それがボルガンの偽らざる本音であった。
幼い頃に両親と別れ、村の長老に育てられたシレーネ。実の子とわけへだてなく接するボルガンの母に自身の母をかさねて見つめるシレーネの、その寂しげな横顔を見たときの想い、僕がシレーネを守るんだ! それが無意識の中での決意にしろ…ボルガンの中で、その想いは日増しに強くなり、今につづいているのだ。
「鎖にでも繋いで、側に置いておかないといけないな。そうじゃないと危なっかしすぎるんだから、おまえは…」
「…大丈夫よ。もう離れたりしないから、もう、ずっと……」
囁くような声で、シレーネが呟く。
うつむいていて、表情は見えない。
「そうとも、もう勝手に遠くに行くんじゃないぞ。ずっと俺の傍にいろ。ずっと…ずっと?」
鈍すぎの山男でも、今のシレーネが口にする【ずっと】の意味の深さには流石に気付いて問い返す。
「えぇ。ず~と、よ」
「じ、じゃあ。えっと、その、つまり、なんだ、…けっ、結婚…して、くれるのか?」
真赤になって、吃りながらボルガンが訊く。頬に紅が差し、シレーネは無言で頷いた。
「本当は、もっとかっこいい申し込みを期待してたんだぞ。コラ!」
朝焼けの暖かな光の中、二つのシルエットが重なり合う。
「…見せつけてくれるよな。俺も独身主義返上して、彼女でもつくろうかな」
重なり合う影を見て、アモールが一人語ちる。いろんなしがらみに縛られるのが嫌で、特定の彼女も、定住の家も持たず、気ままな一人旅をしつづけてきた彼でも、否、だからこそ独り身がつらく感じられることもある。帰るべき家がある、帰りを待っててくれる人がいる。そんな生活も悪くない、そんな気になっていた。
「じゃあ、わたしが立候補!!」
メモリーが右手を上げて宣言する。
「…本気にするぞ」
脅しつけでもするような、低い声でアモールが言う。
「してくれていいわよ。だって、わたし他に行くとこないんだもの」
相変わらずの意味のない明るさで応える。だが、その瞳は笑っていなかった。彼女にしては珍しいことに、真剣なのである。
「なるほどな……マルコ、じゃなかった。マリーナ、せっかくの親子水入らずを邪魔して悪いが、こいつを下働きとしてでも使ってやってくれ」
なにを想ったのか、妙に爽やかな。晴れ晴れとした表情でアモールは言った。
「どっちみち誰か雇はなきゃ、親父と二人だけで店を切り盛りするなんて無理だもん。それはかまわないけど…」
親父さんと顔を見合わせ、無言の相談を交わしたマリーナが応える。
「良かった。じゃ、こいつ預けるから、こきつかってやってくれ。メモリーもいいな?」 良いわけが無かった。
「え~? なんで? 一緒に暮らしてくれないの?」
アモールの言葉に、当然のことながらメモリーがごねる。それはそうだろう、あれだけ思わせぶりなことを言っておいて、他人に預けると言うのではごねないほうがおかしい。
「バカ、勘違いするな。今の俺には、自分の家を持つだけの財産なんかないんだよ。それこそ、マリーナの親父さんみたいに賞金稼ぎでもして稼がないことにはな。だから、それまで待ってろって言うんだよ。いつか、迎えに行くから」
「ほんとう?」
「ああ。だけど、俺って奴はタコみたいなもので、一度あがっちまうとなかなか下りれない、だから、糸の端はしっかりと持っててくれよ。どんなに、糸が長くなってもさ」
「はい」
生死を賭けた闘いの後で、男女の仲が、急激に進展するのはよくあることだが、もちろん、全部が全部そうとは限らない。
なかには当然あぶれるものも出てくる。一組のカップルが成立するとき、必ずその影で泣くものがいる。それはやむをえざる事実である。
今回もしかり、シレーネとボルガン。アモールとメモリー。親子もカップルと表現していいものなのなら、マリーナとその父親。一様に相手がいるなか、ただ一人サラサだけが蚊帳の外に置かれていた。
もっとも彼女自身は、風の吹き抜けるがごとく、水の流れるがごとく生きるのがシリア教団の教えだとかで、しばらくの間はアモールの冒険に同行し、修業を重ねたいと言っている。
まぁ確かに、戦士と神官なら、冒険の旅に出るのには願ってもない組み合わせではあったし、アモールの無事の帰りを望むメモリーとしては、愛する人の身を守る頼もしい中間として頼みにしたい反面、旅の途中で、変な気を起こすのでは、という懸念も捨て切れないでいる。女心とは、常に微妙なものなのであった。
それともう一つ、付け加えておくとシレーネとボルガンは村に帰ったらすぐに式を上げ、マリーナに対抗して宿屋を始めると言っている。あの様子だと、かかあ天下になるな。というのが一同の共通した見解である。
なんにせよ、いつまでもこんな北の果てに留まるわけにも行かない、氷世雪は静まったとは言え、まだまだ寒気は激しく、黙っていると鳥肌が立つほどには寒いのだ。
彼らはマリーナの親父さんが所有している船の最後の航海の乗客となった。
彼らの乗せた船は、シレーネとボルガンを降ろすため、もう一度カリスの港街へと寄港した。
カリスの街は、どうやって知ったのか氷世雪を静めた勇者を一目見ようという数千人の人々で埋まっていた。
近隣の村々から総出で出てきたとしても、これほど多くの人が集まることはないはずなのだが…。
その中に、シレーネの身を案じ続けたバーベラ村の長老をはじめ、村人全員の姿もあり、シレーネとボルガンはあっという間に人の波に呑み込まれてしまう。
ハチの巣をつついたような、とはこういう状況のことを言うのだと、誰もが認め、言葉の適切さを肌で感じられるほどの大騒ぎであった。
その様子を、アモール、サラサ、メモリー、マリーナはゆっくり、静かに港を離れていく船の上から見ていた。
騒ぎに巻き込まれたくなかったというのが本音だが、それとは別に勇者と呼ばれるべきなのはシレーネだけと、彼らには思えたのである。
彼女がいなければ、誰も冒険に加わることなく、サラサだけがあの場所で、あの時に死んで、全てが終わっていたに違いないのだ。
誉められるべきは、称えられるべきはシレーネなのである。
いつか必ず、逢いに来ることを自身の心に誓って、アモールたちはカリスの港町を後にした。
さよならの一言さえ、告げることなく。
「行っちまったな。本当に良かったのか?さよならも言わないまま別れて」
数千人の群集の中を、もみくちゃにされながらも通り抜け、人目に付かないよう街を出たボルガンとシレーネはブリオニア大陸を臨む海辺に立って水平線に沈む太陽を見つめている。その赤い大きな光の球は、柔らかい熱を伝え、そよ風が頬を吹いて過ぎる。
「いいの。あの人は風だったのよ。あたしの中を通り過ぎていくだけの。だから、さよならは言わない。季節が巡れば、何時かまた逢えるでしょうから」
「風…か?」
「そうよ。だって、彼の名はアモール。風と恋の神」
(ある神話では、恋の神をアモールと呼ぶのです。…作者・注)
エピローグ その三
その後
あの日から、十年の歳月が流れている。
シレーネとボルガンは公言どおり、村へ帰ってすぐに式を挙げた。誰もがそうなることを望み、いつまでも煮え切らないボルガンに対して、避難が集まりかけていた矢先だったこともあって、村中の祝福を受けての式だった。
ボルガンの母が、この日のために縫っておいた純白のウェディング・ドレスは奇をてらわない、どことなく地味なものであったが、逆にそれがシレーネの慎み深さを強調するかのようであった。
ボルガンも、それなりにおしゃれしての晴れ舞台、となるはずが、緊張のあまり手と足が同時に出る体たらくを見せ、参列者、つまりは村人全員に失笑をかうしまつだった。
もっとも、結婚式の最大の主役はなんといっても花嫁である。他の者など、花婿も含めて、花嫁の引き立て役でしかない。
無論、宿屋のほうも完成し、しっかりと営業している。木の温もりが伝わってくるような、シレーネの優しさがにじみ出るような、小さいが感じの良い宿である。
ただし、店を切り回しているのはシレーネだけで、ボルガンは今だに木こりと狩人を兼ねて山に入り、シレーネの料理に供する材料を取ってくる毎日だ。
子供も二人、生まれている。八歳の女の子と、五歳の男の子で、名前はメイムにアル。何処かで聞いたような名だが、大方の想像どおり、メモリーとアモールから取った名前だった。
宿の前には、小さな、本当に小さな花壇がある。新婚の頃、ボルガンが山歩きをして帰ってくるとき、必ず一輪ずつ取ってくる多種雑多な花々を、シレーネが心を込めて植え替えたもので、ボルガンの無器用な愛の証であった。
今、その花壇では二人の子供が、草むしりの手伝いを知ながらじゃれている。そんな子供らを、ボルガンのためにセーターを編む手を休め、シレーネは慈愛に満ちた眼差しで見つめている。
「あっ! 父ちゃんだ」
木々の間から出てきたボルガンを、めざとく見つけたアルが叫ぶ。
一斉に駆け出す子供たち、シレーネも立ち上がって愛する夫が近づいてくるのを待つ。 だが、リスのような軽快さで駆けていく子供たちの足が、不意にとまる。
ボルガンは一人で帰ってきたのではなかった。客をつれていたのである。
三・四歳の子供を連れた夫婦らしい男女と、仲の良い姉妹のような女性二人。
どの顔にも、見覚えがあった。
「懐かしい客をつれてきたよ」
愛する夫の言葉も、シレーネには届いていなかった。
女性二人の中で、年齢の高そうなほうはシリア教団の神官服を着ていた。司祭の位にあることを示す白鳥の刺繍がまぶしい。
もう一人は、すこし短めの栗色の髪と、同じく栗色の瞳を持った若い、どちらかというとボーイッシュな感じの娘だった。
子供を抱いた、母親と思しき女性は、いささか所帯擦れしてはいたが、若い頃の輝きを失ってはおらず、幸せなんだなと思えた。
そして、男のほうは屈強の戦士、歴戦の勇士であることは、いたるところに見て取れるキズ跡が証明している。
「わかるだろ? サラサ、マリーナ、アモール、メモリー。そして、シーネちゃんだ」
恐らく、いや、間違いなくシーネとはシレーネの名から取った名だろう。
だが、当のシレーネは気がついていないようだ。
懐かしい仲間たちの、予期せぬ訪問に喜ぶよりも先に驚き、心ここにあらず、といった様子だ。
だが、それでもボルガンの言葉に反射的に頷くシレーネ、しかし目は四人と一人の上に釘付けになっている。
やがて、シレーネは息を一つ吐き出し、最高の笑顔で、最高の客を迎え入れた。
「いらっしゃいませ」
エピローグ 4
あいつはどうした?
パンッ!
ピキッ!
バキン!!
あれほど厚かった氷に、徐々にではあったがヒビが入り。固まった血のような色の霧が這い出してくる。
『ふ、ふふふふふ。ふっかぁ~つ』
氷の割れ目から這い出た。その奇妙な物体は、外に出るなり異常な音を出して辺りをフワフワと漂った。
それが、どんな仕掛けで動いているかはともかく、壊れていることは確かだった。何処をどう見ても尋常なものではない。
そのまがまがしい姿を、巨大な、そう巨大になった太陽が照らす。すでに光度を下げ、明るさはさほどでもない。輻射熱の凄まじさは一種形容しがたいほどである。
かつては氷世雪と呼ばれる寒波の発生地であったこの大陸も、今では夜でも摂氏四十度、昼ともなれば七十度は越える灼熱の大地だ。 だが、その物体は気が付かない。
かつて世界を席巻しょうとして果たせなかった老魔術師ダルトン。
不死にこだわり、永遠に死なない体となったために、人間、生き物として持つべきものを全て、命以外の全てを捨てた愚か者の成れの果てであることを知るものはすでにいない。 少なくとも、この地上には…。
『わたくしが復活した以上。この世界は全て、草木の一本に至るまで、全てわたくしのものとなるのです。わたくしが、世界を支配する』
それこそが、彼の望みだった。その野望を実現させるために、彼は不死の身体を欲し、求めたのだから。
そして今、彼の野望は完全に叶えられた。 この世界は、もはや彼のものなのだ。
彼以外、この世界を欲するものはいないのだから、彼以外にそんな意志を持てる生き物はいないのだから、この世界にあって動くものは彼だけなのだから…。
『わたくしこそ、世界の王。未来永劫不滅の王なのだ。ふふ、ふははははははははははははは…………………………………』




