愛あるゆえに
「・・・・・・」
《記憶》の記憶からその場の空間に投影されていた映像が消えたとき、そこにあったのは長い沈黙だった。
事前に知らされていた話や、事象によって自分の中に組み立てつつあったものが音も立てづに雨散霧消していく。
漠然とではあったが見えかけていたゼナを正気に戻すための対策や、シレーネ救出の方法が意味を無くし、初めから考え直さねばならない。
そう感じてアモールは、目の前が真っ白になるようなめまいを覚えていた。
「・・・これでいくと、俺はゼナだけじゃなくダルトンや女神スラインローゼをも相手にしなきゃなんないって事になるな」
ゼナの暴走を誘発し、シレーネをさらったのがダルトンで、ゼナの暴走を止めるための切り札、女神スラインローゼの覚醒は、ダルトンの持つ女神の《力》を取り上げねばならない。
そのためにはダルトンと闘わねばならず、必然的に女神の《力》をも敵にすることになるのだ。単なる人間の狩人に過ぎないアモールには荷が重すぎる話である。
なおかつ、この一連の作業はゼナの暴走が限界に達するより前、シレーネがダルトンによってゼナの力を受け入れるための《器》とされるより早くに、やり遂げねばならない。時間までもがアモールにとっては敵なのだ。
「奇跡でも起きない限り、俺に勝ち目はねぇな。この分だと…」
想像してた以上に複雑に絡み合った事態を嘆き、弱気になるアモール。その目前に更に悪化した事態が姿を見せた。
最も考えたくなかった状況が、そこに実体化したのである。
「キーヒッヒッヒッ、奇跡など起こりはしませんよ」
全身黒づくめ、背丈より長いマントを引きづって、小柄な男が立っている。その傍らには、素っ裸の女性が立っていた。直立不動の姿勢ではあるものの、全身に力がなく、筋肉には張りがなかった。
言うなれば糸の切れたマリオネットが微妙なバランスのもとで、かろうじて立っている。そんな感があった。
トパーズ色のつぶらな瞳にも光がなく、笑顔の一つも見せれば男供を虜にするぐらいわけはないだろうと思われる幼さを残した童顔には生気がなかった。
察するに、この娘が女神の《感情》なのだろう。封印されたばかりでなく、ダルトンの操り人形に成り下がっているのだ。
本来は最も感情的な娘になっているはずなのに、その端正な顔には感情の影さえ見えない。
「・・・!! あれは、まさかっ!!」
女神の一部を持つ娘が、操られているだけとは言え、敵対する。
それだけで十分闘いずらい相手であったが、白磁器の様な白い裸体を惜しげもなくさらす娘の左手に握られた短い棒は、更なる危険に満ちていた。その棒はダルトンによって《力》を封印された錫杖に他ならなかったのである。
「貴様、なにしにきた!!」
「すでにゼナの暴走は限界に達しつつありますし、わたくしの魔術も八割方は完成しました。つきましては、わたくしの最大にして最高の魔術が完成するまで、あなた方にはここで遊んでいてもらおうと考えたしだい。もちろん、この娘を殺していただいても構いませんよ。ただ、そんなことをすれば、女神スラインローゼの覚醒は不可能になることをお忘れなく。クックックッ」
アモールの怒気、そのものと言っても過言ではない怒声を軽く受け流し、ダルトンはカンにさわる含み笑いを残して、現れたとき同様、音もなく消えた。
「メモリー、下がってろ。邪魔だ」
ダルトンが姿を消した途端、目に生気が蘇り、感情を露にした娘を見て、メモリーを言葉だけでなく、実際に手でも押し退けながら、アモールは剣を抜いていた。
娘の顔に浮かんだ表情は、どう見ても友好的なものではなかったのである。
「で、でも、殺してしまったら…」
「判ってる。だから離れてろ。相手に致命傷を負わせずに、誰かをかばい続けられるほど器用じゃねぇんだよ。俺は」
この時、アモールには何の解決策も考え出すことができなかった。
もとから覚醒の方法がハッキリしているわけではないのだ。その上から封印され、洗脳されているとあっては、手の施しようもない。
「ゼナ・・・暴走…止める…邪魔…奴殺す」
娘が途切れ途切れに呟く。
どうやら、この娘の思考は封印される直前で止まったままらしい。
「殺す!!」
叫んだ娘がアモールめがけて、錫杖を振り下ろした。その動きは、お世辞にも早いとは言えないものであった。基になっているのが女神では、剣術や格闘技に疎くて当然である。
アモールは、その攻撃を余裕で躱…せなかった。人間の手首から肘までの長さしかなかった錫杖から、赤い炎のようなものが出て、娘を捕えるチャンスを作ろうと紙一重で躱そうと考えたアモールの肩口を切り裂いたのである。
「クッ!」
苦痛に顔を歪めたアモール。それでも後方に跳んで、次の攻撃を避け間合いを離すところまでは、骨の髄まで染みついた本能が実行してくれた。しかし…
「こいつぁ・・・ちーとヤバイかな?」
ヤバイどころの話ではなかった。
赤い炎は物を素通りして敵、この場合アモールのことだが、その肉体だけを傷つける事ができる。現に、斬られた肩口の傷は深く大きなものであったが、服自身はまったくの無傷で内側から染みてくる血だけが、傷を負っていることを立証していた。
物を素通りする、ということは剣で受け流すこともできない、ということである。完全に足さばき、フットワークだけで避け続けるしかない。
それは、肉体的にも精神的にも消耗の激しすぎる闘い方であった。
「こりゃ、駄目かな…」
『シレーネ…シレーネ。起きなさい、シレーネ』
頭の中で聞き覚えのある声が話しかける。
「ん、う~ん」
心地よい。すくなくともこの時点ではそう感じていた眠りを妨げられ、不機嫌にではあったがシレーネは目を覚まし、伸びをしようと腕を上げかけた。しかし、その腕は何かに押さえつけられ肩より上にあげることができない。
ガシャッ ガシャッ
異様なほどに重い自分の両腕と、聞き慣れない金属音を不審に思って寝惚けた目を自分の腕へと向けた。
「なによ! これ!!」
シレーネが自分の腕に発見したもの。それは見るからに重そうな金属の鎖つきの手枷であった。
その鎖はシレーネが、たった今まで横になっていた石の台に直接埋め込まれている。ちょっとやそっとでは抜けそうにない。無理に抜こうとすれば鎖より先に自分の肩が抜けそうだった。
「なんで、こんな…」
ことに? と続けようとしてシレーネは言葉を切った。気を失う前のことを思い出したのだ。
アモールやマルコと引き離された、あのあと青く巨大なミミズに襲われたことを。
「…アモール」
そういえば、アモールとあったのも気を失って目を覚ましたときだったっけ。などと感傷に浸ったものの、逆にそのことが気付けの役を果たしたのか、一分と立たぬうちにシレーネは正常な判断力を取り戻していた。
「ここ…どこなのかしら?」
呟いて辺りを見渡すシレーネ。その目に見覚えのある人物の姿が写った。
それは彼女がここへ、ブリオニア大陸に渡るきっかけを与えてくれた女性の姿だった。
さっきシレーネを起こした声も、思えばシレーネに【北へ】と告げた、この女性のものだった。
「・・・・・・!!」
その女性に声を掛けようとして、シレーネは絶句した。その女性は氷の中に立っていたのである。
「氷の柩」
思わず、そんな言葉が口に出る。
死者の美しさを永遠に保ち続ける透明な柩。
もっとも、これではさらしものも同様だが。
だが、そんなはずはない、とシレーネは頭を振った。
もし、この女性が本当に死んでいるのだとしたら、前に出会ったことはともかく、今さっきの《声》はなんだったと言うのか。
彼女は生きている、なんらかの理由で生命活動が止まっているだけなのだとシレーネは確信以上の思いを込めて、女性を見詰め続けた。
視線の熱で氷を解かそうとでもするかのように…。
『シレーネ…』
再び、あの《声》が頭の中で響く。
ハッとして女性の顔に視線を走らせ。その表情を探ろうと試みるが、その顔は凍りついたように、もともと凍っているのだから当然だが微動だにしない。
それでも《声》は伝わってくる。
どうやって伝わってくるのか、普通なら疑問に思い怯えを感じるものなのだが、不思議とシレーネは《声》を自然に受け入れていた。なぜかそれが当たり前のことのように思えたのである。
『シレーネ、我が娘よ』
いま、なんて言ったの?
《声》はシッカリと伝わっていた。しかし、その意味までも即座に了解することがシレーネにはできなかった。
なにを意味するのか、そんなことは判っている。だが…。
『・・・戸惑っているようですね。無理もありません、あなたが物心付くより先に姿を消した母が、こんな場所で、こんな姿になっているなど、考えもしなかったでしょうから…でも、これだけは信じて、あなたを捨てたわけではないのです。あなたが、ここへ来ずともいいように、ごく一般的な女の子としてのささやかな、本当にささやかな幸せを追いかけてほしかっただけなのです。…結局は同じになってしまったけれど…』
「でも、あたしに【北へ】って言ったのは、あな…たでしょう?」
目の前の氷づけの女性、この《声》の主が自分の母であるということは《声》と同様に、すんなりと受けとめることができた、それでも《お母さん》とはなかなか言えないものである。特に、こんな異常な状況では・・・。
『・・・えぇ、なにも知らないうちに、あの男、魔術師ダルトンに捕われるよりも、自分の足でこの地へと訪れたほうが、あなたのためになるだろうと考えたから』
その《声》が伝わってくると同時に、シレーネの見詰める女性、母を包む氷の壁が光り、映像を映し出した。もちろん、それに付属する音も伝わってくる。
そこに映し出されたのは、シレーネと別れて後のアモールの姿であった。
アモールが出会い、話した人々の姿と声も伝わってくる。ただし、その映像は《記憶》を捕える結界を破壊するための行動をアモールが起こしたところで、不意に途切れた。
この先は見せられないと思ったのか、それとも必要ないと考えたからなのかは定かでないが、少なくとも、その後の《記憶》の記憶を目にするまでの時間は省略された。
それが、シレーネに対するせめてもの親心というやつだったのかも知れない。
「あなたが、女神スラインローゼの実体、なのね?」
尋ねる必要はないことだった。そうとしか考えようがないのである。
「だから、その娘であるあたしを、ゼナの力を手に入れるための《器》にしょうと白羽の矢が立ったわけだ」
『そうです。我が血肉を分けたあなたには、並の人間をはるかにしのぐ生命力が宿っています。ゼナの力を受け入れることも可能でしょう。ですが、ダルトンがいかに細工を施そうとも、あなたがあなたである限り、ゼナの力が流れ込むことはありません。ダルトンの思惑を否定し、あなたの大切な人たちを護る唯一の方法、それは自分でいつづけること、たとえなにがあっても自分を失ってはいけませんよ』
《声》はその言葉を最後に途切れた。それまで《声》が聞こえて以来、ずっと感じていた鼓膜の裏に水が溜まっているような奇妙な感覚も、それを境に消えたのである。
「・・・自分であり続けること。自分を見失わないこと…」
なにかの呪文のように繰り返し繰り返し呟くシレーネ。
呟く度に、心の中に残っていた弱気や臆病が薄れ、変わりに勇気と希望があふれてくる。闘わなきゃ、という気持ちが強くなりつつあった。
アモールの足を引っ張らないためにも。
シレーネの肚は完全にすわった。
自分が危険に巻き込んでしまったアモールさえも、必死に闘っているというのに当事者である自分が弱音を吐くわけには行かない。その思いが、今のシレーネを支えている。
「絶対、負けないんだからぁ」
単なる負けず嫌い、ということもできようが、事は力と力という単純さを越えて、よりシンプルに心の、意志の強さが全てを決めることになるのだ。たとえ空元気であろうとも、心を強く保つことはダルトンの意図を挫くという点で有効に働くはずなのだ。
「ホーホッホッ。お目覚めでしたか、ご気分は如何ですかな。お嬢さん」
不快な笑い声と共に小柄な男が現れた。それがダルトンであることをシレーネはすでに知っている。
「たったいま、とても悪くなったわ」
冷然と言い捨て、蔑みと怒り、そしてちょっぴりの恐れが混在する瞳で、睨み付ける。
「それは残念。気分が悪くてその美貌なら、普段はもっと美しいでしょうにねぇ」
シレーネの眼光を、そよ風のごとく受け流してうそぶくダルトン。その目が異様な光を放ち、嫌が応にも狂気を感じさせた。
「ですが、気に病むことはありませんよ。すぐに気持ち良くしてあげますからね」
「・・・!!」
ダルトンの言葉にシレーネは無意識に身体を強ばらせ、身を縮めていた。気持ち良くしてあげる、その言葉が、特にこんな状況では、どんな意味を持つのか、そのぐらいのことは山奥の裏寂れた村で生まれ育った純心無垢のシレーネだって知っている。
身の、命の危険は覚悟の上だったシレーネも、一皮剥けばただの女である。貞操の危機を前に平然としていることなどできなかった。
キスすらまだの正真正銘の生娘ならばこそ、その思いの烈しさが増すのは当然のこと。
さきほどの勇気、決意はどこへやら、完全に萎縮してしまったシレーネを、あざ笑うかのように見据え、ダルトンは石台の下にしまってあったツボを取り出し、戒めのない自由なままの細く白いシレーネの足の間に叩き付けた。
ツボは衝撃で粉々に砕け散り、中から半透明の塊が転がり出た、その塊は、やおら天に向かって真っ直ぐに伸びたかと思うとネバっこい仕種でシレーネへと近づいていく。
「わたくしはいたって無芸な人間でしてね。生物の能力を強化すること以外に能力がないんですよ。こいつは、そんなわたくしの自慢の一匹でして、普通は目で見ることもできないほど小さな生き物なのですが、わたくしの力で大きくしてあげたわけです。そしたらですね、このコには意外な特性があることが判りましてね。なんと、こいつは人間などにはめもくれず服だけを溶かして食べてしまうんですよ。ゆうっくりとねぇ」
まるっきり変質者の顔で、ダルトンが言い。喉の奥で笑う。
「い、いやぁっ!」
叫びざま、自由の利く足で蹴りを入れるシレーネだが、怪物のネバ付く身体は石台から離れようともせず、何事もないかのように近づき続ける。
その歩みはナメクジのように緩やかで、シレーネの身体に辿り着くまで長い時を必要としたが、それはシレーネにとってなんの救いにもなりはしなかった。恐怖におののく時間が長く続くというだけのことなのである。
「ヒィッ」
ついに怪物の先端がシレーネの股間に触れた。
今だ衣服の上からであったが、その感触にシレーネは悲鳴を上げた。同時に瞳を閉じ、顔をそむける。
そんなことをしたところで、怪物の動きが止まるとは思えなかったが、怪物が近づき、自分の衣服を剥ぎとっていく様を、直視することなどできようはずがなかった。
ぴちゃ ぴちゃ
ぺちゃ ぺちゃ
ものの数分もたたぬうちに、シレーネの衣服は単なるボロ布と化していた。少なくともシレーネの身体を覆い隠すという役割は果たしていなかった。
「や、やめて。お願い、やめてぇ~」
頭を振り、人間にするようにシレーネは哀れみを乞うた。
しかし、怪物は頓着せずにシレーネの上をヌトヌトと這い回る。脚の付け根から、お尻、女の子にとって命とも言える部分まで近づいていく。
「イヤッ! イヤッ! いやぁぁぁ~」
シレーネはおぞましさと恐怖に全身をガクンガクン跳ね上げ、鎖を鳴らしてもがき泣いた。泣きわめき、あらん限りの力でもがきつづけるものの、どうにもならない。
「抵抗するだけ無駄ですよ。どうやったところで逃げ場などありはしないのですから、苦しみが増すだけという結果にしかなりませんよ。わたくしのかわいい怪物ちゃんに全てを委ねるのです。そうすればつまらない外聞など消えて、あなたは恍惚とした快楽の園で遊べるのですよ」
ダルトンの言葉は、暖かく優しくすらあったが、その裏にある針の存在を隠そうとはしていなかった。
「嫌よ。絶対、ずぇ~ったい屈伏なんかするもんですか」
「ほっほっー。さすがは気丈で知られたスラインローゼの娘御。お強いですなぁ、そのほうがわたくしも責め甲斐があると言うもの、その強がりがいつまでもつか試させていただきましょう。わたくしの怪物は、これ一匹ではありませんからなぁ。ヒッヒッヒッ」
不気味な笑いを残し、ダルトンは姿を消した。他の、更に淫猥な怪物を取りに行ったのに違いない。
ダルトンの姿が見えなくなると、シレーネは初めて怪物の動きに対する反応以外の呻き声を漏らした。
「アモール…助けて…」
気丈、強情の仮面をかなぐり捨て、シレーネが震える声で言う。
その頬を紅涙がつたい、床ではじけた。
「ハァハァ。こ、これじゃらちがあかねぇな。いっそ殺しちまおうか、それで封印が解けねぇとも限らねぇし・・・」
呼吸を乱し、全身を朱に染めて口走るアモール。疲労のため《心》の攻撃を躱す事が困難になりつつあった。身に受ける傷が、しだいに深くなる。致命傷を受けるのも、そう遠くはないだろう。
「アモール!!」
メモリーの悲鳴にも似た叫び。
想像を絶する苦闘の中、思わず弱気を口にしたアモール、その一瞬の隙を付き《心》は剣よりも切れる錫杖を振り下ろしていた。
体勢を崩していた上に、不意を突かれたアモールにとっては致命的な間合い、もはや避けようもなかった。
シレーネ、すまない。
避けることができないと知り、ここで終わりかとアモールは目をつぶった。
・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・。
無限とも言える刹那の時が過ぎ去る。だが、肉を切り裂く斬撃の音も床に叩き付ける血潮の雨の音も聞こえてはこなかった。
一度は身も心も許した男の、むごすぎる死を見るに忍びなく、顔をそむけ目を閉じていたメモリーが不審に思い、恐々目を上げる。その目に写ったのは自分同様に不審そうな目で辺りを見渡すアモールと、その周囲をドーム状に覆う半透明の結界だった。
《心》は跳ね返された自分自身のパワーに弾き飛ばされ、部屋の壁にもたれていた。その口元に多量の血糊が付着している。恐らくは弾かれた勢いで壁に叩き付けられたのだろう。かなりのダメージを受けたのは間違いない。
「どうやら絶妙のタイミングで間に合ったようですわね」
アモールにとっては聞き覚えのある声が、半開きになった扉の向こうから発せられた。扉の隙間に長くしなやかな栗毛が見え隠れする。
「・・・サラサか? サラサなんだな」
その栗毛を見た途端、身体の痛みも忘れてアモールが叫んだ。
アモールは世間一般の男性諸氏と同様、男の声や容姿は忘れても女性、それも美人の顔と名を忘れたりはしなかったのである。
サラサは世界四大教団に算えられるシリア教会を代表して信託に従う神官だ。
離れているとは言え目の前にいる仲間の周囲に局地的な防護結界を張るぐらい造作ないことだった。
「足を引っ張るだけかとも思ったのですが、あとを追ってきて正解でしたわね」
そう言って微笑むサラサ。飾り気のない素直な笑顔である。
ほとんど、それだけでアモールは全身の傷が治るような気になっていた。いかなるときも男が恐るべきは、そして頼むべきは美女の笑顔、それにつきる。
「・・・あぁ、助かったよ。正直、絶対に死んだと思ったからね。自分のことながら・・・」
そう言って、はにかんだように微笑むアモール。だが、それはすぐに苦悩に歪んだ。
命の危険はとりあえず去ったものの、状況的には何も解決していないのである。
《心》は壁に叩き付けられたショックで気を失っているが、そのままで居続けるわけではない。いずれは目を覚ます。そして、また襲いかかってくるに違いないのだ。
「どうしたんだ? メモリー、なにかあるのか?」
期待していなかった援軍、サラサの出現で完全に蚊帳の外においてしまったメモリーが、やたらと小首を傾げているのを目に留めて、アモールが尋ねる。
「思うことがあるなら、なんでもいいから言ってくれ。それが突破口になるかも知れない」
三人の中では、彼女が一番女神に関わりがある。つい先刻までは女神の《記憶》を、その身に有していたほどなのだから。
ならばこそ《心》とも何か通じるものがあるのかも知れない。ともあれ、何かのきっかけでもなってくれれば・・・アモールがそんな希望をもつのは、この切迫した状況ではやむを得ないことだった。
「・・・考えたんだけど、もしかしたらあの子、自分が誰なのか判ってないんじゃないかな。普通はどんなに感情が爆発しても、やっちゃいけないことはやらないようにできてるでしょ。でも、あの子にはそういう制止するものがないんじゃないかなって思うんだよね。なんとなくだけど・・・」
自信なげにそう言って、上目づかいでアモールを見るメモリー。その視線の先ではアモールが呆けたように口を半ば開け、立ちつくしている。
バシィ!
不意に甲高い音が室内に響いた。アモールが自分の頬を力一杯張ったのである。
「俺はなんてバカなんだ・・・」
もともと賢いとは思ったことのないアモールだったが、自身の頭がこれほどまでに愚鈍だとまでは思っていなかった。彼は今、生まれて初めて自分の愚かさを呪っていた。
「どうしたのですか? 急に」
心の中で精神を安定させる呪文を唱えつつ、サラサが心配そうに問いかける。
「忘れていたんだよ、あそこに倒れているのは《心》じゃない、《心》は封印されるさいに二つに別れた。あれは《感情》だったんだ。暴走した《感情》を抑えられるのは《記憶》でも《力》でもない、《理性》だったのさ。・・・こんな当たり前の事に気づかなかったとは情けない」
言いながら、アモールはすでに行動を起こしている。先に手に入れていた《理性》と《記憶》を気を失ったままの《感情》のもとへと運び、その眼前に並べて置く、そして、ゆっくりと後退さった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
・・・・・・。
数瞬の間。アモール、メモリー、サラサ、三者三様で見守る中、二つの宝珠が緑色の光を発して輝き出す。つられるように、女性の姿をした《感情》と錫状に封印されている《力》も同色、同波長の光に包まれていく。
それは、絡まりあい互いを確かめあうような動きを見せ、四つの光が完全に一つとなったとき、強烈な光の渦へと姿を変え、光は淡い藍色の宝珠となり、女と錫状は砂になって消えた。
苦労した割りに終わりは結構あっけない。
「これで、女神スラインローゼの意識が蘇ったわけだ。後は実体を見つけさえすれば、女神様の復活が見られるって訳だな」
足下に転がっている宝珠を拾い上げ、誰に言うともなくアモールが呟く。その声には一度は死をも覚悟した脅威が除かれ、目的地に一歩近づいた安堵感が込められていた。しかし、それはすぐに別な危惧へと取って変わる。
「それはそうと、サラサ。マルコはどうしたんだ。まさか、置き捨ててきたんじゃなかろうな!! もしそうなら、いかに命の恩人といえどもただではすまさないぞ!!」
いつになく、ぞんざいな口調と態度でアモールが質す。
生か死かという極限状態でのサラサという救援を喜ぶあまり失念していた、もう一人の連れの顔を思い出していたのだ。少し短めの栗色の髪と、クリクリとよく動く大きな瞳の少年のような格好をしている少女のことを・・・。
「置き捨てた、というのは表現が悪すぎます。せめて、置き去りにした。ぐらいにしておいていただかないと・・・あんな小さな子を危険にさらしたくはありませんでしたし、私だけであなたの後を追うと言っても聞きはしないでしょうから、結界を二重に張った部屋に寝かしつけてきたのです。かなり無理をしていたのでしょう横になるとすぐに心地の良い寝息を立てていましたわ。きっと、明日の朝まではぐっすりと眠っているでしょう」
自分のこと同様、またはそれ以上にマルコの身を一心に案じているアモールの優しさを知って、サラサは暖かな微笑みを浮かべている。アモールのぞんざいな口調と態度という仮面をすかして、その内側にある意外なまでの優しさと慈愛に満ちた素顔を覗き見ることのできた者だけが出せる笑みだった。
「心配なのでしたら、シレーネさんを早く見つけて寝た子が起きる前に戻ればいいでしょう?」
「あぁ、そうだな。それをこそ、マルコも望むはずだった」
これまで以上の決意を持って、アモールは天井を睨み付けている。天井を挟んだどこかの部屋に、シレーネが、そして女神スラインローゼの実体があるはずなのだ。
「あっ、うっ・・・くう、はあぁぁあぁ」
混沌とした静寂の中、少女の喘ぎだけがこだまする。
ダルトンの執拗な責めは、少女の肉体を嫌が応にも敏感にし、汚らわしいさとは裏腹に、反応し始めていた。
「くっ!」
くやしさに歯噛みするものの、心をかき乱す汚辱感や陵辱感が、肉体への刺激を更に強める結果になる。もはや、シレーネに抵抗する気力はない。ただただ、滂陀のごとく流れ出る紅涙とともにむせび泣くだけだ。だが、その泪さえも、肉の悦びを昂める媚薬となることを、シレーネは知らなかった。
「クックックッ、いいね。いいですよ、その表情。羞恥と怒り、嫌悪と快楽、相反する意識のなか苦悶にのたうつ美少女。これこそが芸術です…すばらしい」
汗と涙、そして我知らず垂れ流されるヨダレに濡れるシレーネの細い顎を指先で上げ、覆い被さるようにして覗き込み、ダルトンが囁く。その目は陶酔の極みにあり、この男がすでに人の道を踏み外し、人外境へと身を堕としていることを如実に現わしていた。
「ヒヒヒヒヒ。それでは、ちょいと味みといきましょうか」
その不気味な嗤いとともに、ダルトンはシレーネの唇を奪おうとした。己が唇を近づけるのではなく、シレーネの顎を力づくで引き寄せて。
「まてっ!!」
ヒュッ
鋭い制止の声と、握り拳大の石が同時に投げつけられ、ダルトンの卑劣な行ないは寸でのところで未遂に終わった。
「・・・ふっ、おまえか」
石を身長に見合わないほどに長いマントで受けとめ、振り返った先に、全速で駆けてきたらしく肩で息をするアモールを見つけ、ダルトンは嗤った。それは、張り巡らした罠に獲物がかかったことを喜ぶ、蜘蛛のような陰欝さをともない、ただでさえシレーネの身を案じ苛立っているアモールの心を逆撫でる。
「てめぇだけは絶対ゆるさねぇ! ブッ殺してやる!!」
仁王のような形相で押し殺したように言うアモール。その背後に、ダルトンは怒髪天を突くの言葉通りに立ち昇る真紅のオーラを見た。それほど、アモールの怒りは純粋にして強大なものだったのである。
「・・・あなたの怒りは実にもっとです。しかし、わたくしのことを殺すのは話を聞いてからにしたほうがよろしいですよ。さもないと、あなたの大切なものを、あなたの手で壊してしまう事になりますよ」
「時間をかせごうったって、そうはいかないぞ」
ダルトンの言葉に叫び返したアモール。
だが、彼には判っていたのである。ダルトンの言葉が単なるハッタリではないことを、罠にはまったアモールを、とことんまでオモチャにするための意味ある忠告なのだということを・・・。
「今、あの娘に取り付いているのは、わたくしの作品の中でも逸品中の逸品でしてね。大小百本近い触手の全てから絶えずある種の媚薬が分泌されておりまして、わたくしになんらかの物理的な攻撃が行なわれると、それに反応して獲物に襲いかかるよう教え込んであるのですよ。そうやって、その媚薬が直接体内に流し込まれたら、どうなると思いますか? 死ぬか、よくて廃人ですよ。それでもいいんでしょうかねぇ?」
ダルトンのその言葉は偽りのない事実であった。シレーネはイソギンチャクのような怪物の真中に横たわり、無数の触手にまとわりつかれている。触手は、シレーネの身体を締め付け、撫で回し、いいように弄んでいた。先端からは白濁した粘液が滴っている。
「アモ・・・た、たすけ・・・て・・・」
火照った身体の奥のほうから、とけてくるような感覚を抑え切れない無念さと、否定できない肉の悦びに濡れた瞳で見つめ、艶のある声でシレーネが哀訴する。本人の気持ちとは裏腹に、それはアモールの男を刺激するのに充分すぎる色気を放っていた。
「・・・ちっ、顔そのままの汚ねぇ野郎だな。てめぇ~は人間のクズだ!!」
「誉められたと思うことにしましょう。で、その人間のクズに対して、あなたはどう対処するおつもりですかな!!」
「くっ!」
何をするのか、そんなことは聞くまでもなく、すぐさま飛びかかって八つ裂きにしてやりたい、その思いで、アモールの頭はいっぱいである。しかし、それをやればシレーネの身が危うくなる。二つの思いが交錯する中、アモールにできることは悔しさに歯噛みしつつ立ちつくすほかなかった。
「どうしました? 右手の剣は飾りなのですか? 考えることなどないでしょう。ただ振り上げて沸き上がる怒りのままに、力一杯振り下ろすだけで、この老体を真っ二つに切り裂けるのですよ。そして流れ出る血があなたの怒りを昇華し、最高の快感を得ることができるのです。ためらうことなどありません。さぁ、斬り殺すのです」
目を大きく開き、下顎を突き出すようにして、ダルトンは『殺せ』と繰り返し言い続けた。それができないことを知っているからこその挑発である。
アモールは全身をわななかせ、目を血走らせながらも、その言い知れない屈辱と嫌悪をも含んだ純粋な怒りに耐えつづけた。
この邪悪な老魔術師が次の言葉を投げかけてくるまでは・・・。
「なんなら、この娘の処女を奪う役を、あなたに譲ってやってもよろしいのですよ。あの器量ですからね、味もさぞかし良いでしょうな。あなたの目当てもそこにあったのでしょう? そうでもなければこんな所へ命の危険も顧みずに来はすまい? 所詮男の考えることなどみな同じようなものですからねぇ」
「っ!! きさまぁ~!!」
この瞬間、アモールの頭の中でヒューズが二、三本弾け飛び、焼き切れた。
逆上し我を失ったアモールの目に、すでにシレーネの姿はなかった。目の前にいて不愉快なことに人語を話すダニを踏み潰すこと、ただそれのみがアモールの身体を突き動かしていたのである。
「愚かな、しょせん闘牛は闘牛士の引き立て役にしかなれぬということが理解できぬのか・・・?」
不敵な嗤いを閃かせ、ダルトンは突き進んでくるアモールを左手で払いのける仕種をする。その掌圧だけで、アモールは強風にあおられた蝶のように吹き飛ばされてしまった。
「アモール!」
一瞬にして自分を挟んだ反対側の床に転がされたアモールの身を案じて、シレーネが叫ぶ。が、それはすぐに安堵へと変わる。石台と怪物によってダルトンからは死角となる場所で、アモールは会心の笑みを浮かべていたのである。
「いいか、シレーネ。俺は今から、あいつに斬りつける。もし、いや、恐らくは事実だと思うが、あいつの言うことが本当なら怪物の動きに変化が出るはずだ。そうなったら、声でも息遣いででもいいから俺に伝えてほしい。もちろん奴には気付かれないようにな。そうすれば怪物を刺激せず、あいつだけにダメージを与える方法も見つかるはずだ。判ったな」
囁くような小声で指示するアモールに、無言の頷きで応えるシレーネ、それを確認して、アモールは再びダルトンの前に進み出た。
「懲りない人ですねぇ。あきらめて眠っていれば楽なものを・・・」
そう言いながらも不気味な嗤いをやめようとはしないダルトンである。アモールを完全にバカにしているのだ。自分の造り出した怪物、ひいては自分の罠への自信がそうさせるのであろう。
「自分でもそう思はなくはないんだがな。諦めの悪いのだけが俺の欠点でね」
剣の柄を握り直し、ジリジリとダルトンとの間合いを詰めるアモール。その視線が一瞬シレーネの上を過る。シレーネもまたアモールを見つめていた。それはシレーネが、これから我身を襲うであろう快楽という名の拷問に対する不安、それへの覚悟を決めたことを暗に示している。
「そんじゃ、いくぜ」
そう声をかけ、老魔術師にも避けることの可能な範囲の――アモールにとっては通常の半分程度の――スピードで斬りかかった。今度は先程とは違い、わざと反撃させる必要はないので、気がねなく闘える。
もちろん、実力の半分を温存したままで、ではあったが・・・。
「はっ!」
気合いを入れ直し、下段に構えていた剣を左手一本で、切先を上へ向けて右下から左上へと振り上げる。いわいる袈裟切りの逆をやったわけである。
その一閃を上体を反らして避けようとするダルトン、本来なら避けようと考えるより前に、彼の命の炎はかき消えていたはずであったが、避けることを計算にいれ、または避けてもらうために放った一撃であるだけに、アモールの切先は、かろうじてマントをとおして薄皮一枚切っただけで終わった。
「はぐっ・・・かっ・・・うっ、あぁはぁぁ・・・」
ダルトンの口から苦痛の呻きが漏れるかと思いきや、その苦悶の声はまったく逆の場所から発せられた。シレーネを捕えていた怪物の動きが、ダルトンの負傷によって活性化され、シレーネに対する責めが、より悪辣なものとなったのである。
「き、貴様ぁ! 自身の勝利のために女を見殺しにする気か!! 恥を知れっ、恥を!!」
今さっきまでの妙に作った感じの丁寧な言葉も忘れ、地で叫ぶダルトン。
自分のことは遙か遠くの棚の上にでも置いてあるのか、ずいぶん勝手な言い草である。だが、大なり小なり人間とはそういうものなのかも知れない。生まれついての悪人がいないのと同様、生まれついての善人も存在しない。問題なのは自分の行動が全体的に見て、善なのか悪なのかを自覚しているかどうかである。
アモールは自分が卑劣にして無能な男であるとの自覚を持ちながら、それでもなお最後の勝利を得るための努力を払っているのであって、ダルトンのようにシレーネの苦悶にのたうつ姿と声を楽しんでいるわけではないのだ。
「寝言は寝てから言え、ゲスめが!」
つづけて突き込まれる斬撃。どれ一つとして致命傷とは程遠い擦り傷であったが、ダルトンの身体に新しい穴があく度に、シレーネは快楽と苦痛の狭間をさまようことになる。
「ヒッ、ヒイィィィ」
まさか、シレーネの苦悶を無視してまで攻撃してくるとは考えもしなかったのだろう。ダルトンはアモールの攻撃を去勢された豚のような悲鳴を上げて、床を転がり回って避けようとしている。
無様という表現が、これほど当てはまる様もなかった。むろん、そんなことでアモールの剣撃を躱せるはずはなく、アモールの中剣はダルトンの身体を捕え続ける。
「あっ!」
「ぐっ、ぎゃぁぁ!!」
アモールの剣先がついにダルトンの足を貫いた。決して、アモールが意識的にしたことではなく、ダルトンの無秩序な動きがよんだ偶発的な事故であった。
「シレーネ!」
ダルトンの尋常ならざる痛がりようを見、慌てたアモールがシレーネを振り返る。
アモールが振り返った先には、無表情に、うつろな瞳で虚空を見つめるシレーネの姿がある。無論、怪物の触手は、その身体を捕えたままだ。
「シ、シレーネ!!」
よもや、すでに人格が崩壊しているのでは…、考えたくはない最悪の事態が脳裏に浮かぶ。たまらず、アモールはシレーネのもとへ駆け寄ろうとした。が、その刹那焦点を失っていたシレーネの瞳に生気が戻る。そして、その口からかすれた、しかしハッキリとした声が漏れた。
「今のに、怪物は反応しなかったわ」
反応しなかった。つまり、ダルトンと怪物を繋ぐ目には見えない糸に、今の攻撃は触れなかったということである。
だとすると・・・、この時、アモールの頭の中では脳細胞が本来の役目。考えるという機能を回復させ、自己の存在意義を無言のうちに主張する機会を得ていた。以前、少ない予算で新しい剣を買おうとして以来、およそ三年七カ月ぶりのことである。
彼の脳細胞は、まずダルトンに対しての攻撃を始めたときから、今の一撃までを思いだし、斬撃の一つ一つを再検討することから始めた。
それは感情と勘で攻撃する癖があるアモールにとっては実に迂遠なことであったが、そうするうち最後の一撃と、それまでの斬撃との決定的な違いを発見することができたのである。それは・・・、
「それは、これだぁ~!」
叫びざま、アモールが切ったのはダルトンの胸元にある大きなメダルであった。
そのメダルは彼の長すぎるマントが、身体からずれないように縫い留めておくためのもの。それが切られた途端そのマントは、床に転がったままのダルトンを払いのけて舞い上がった。
そして、ムササビのような姿でシレーネを捕えている怪物のもとへと飛び去ったのである。
どうやら、姿はまったく似ていないが、このマントとあのイソギンチャクのような怪物は親子みたいなものらしい。
マントが飛んでいくと怪物はシレーネを放りだし、マントを掻き抱いた。
「シレーネ、無事か!!」




