ねこ
正月三が日明け。母が入院した。
昨年の11月、直腸癌と診断された為その摘出手術を行ったのだ。
幸いにも癌は初期も初期も、ステージいくつなんてレベルでもない早期発見だったので大事には至らず、術後2日の朝には退院できるほどのものであった。
とは言っても手術は手術だ、当日の朝から術後の丸一日絶食をしなければならないらしく、特にやることもないので暇だと言うので母のお見舞いにと私は久しぶり地元に帰った。
早朝に家をでて朝9時過ぎに実家に着くと父が「随分早かったな、昼前でよかったのに」と出迎える。
早く来ちゃったものはしょうがないとしばらく実家でゴロゴロすることにした私は、ある奴の所へと向かう。
出窓の台の上に置いてある小さなクッションの上に横たわるそいつは、我が家にやってきてから20年にもなる妖怪猫だ。人間の年齢に換算するともう100歳近い化け猫である。
私が学生の時に、朝家の前を「ミャーミャー」と鳴きながら徘徊する子猫がいた。
気にはなったのだが遅刻してしまうので私はそのまま学校へと向かった。
学校から帰ってくるとまだその子猫はいた。車の下で「ミャーミャー」と鳴いているのを、小学生が覗き込んでいた。
私は、まあいいかとそのまま家へと入って行った。
夕方過ぎ、母が仕事から戻ってくるとその腕に抱かれていたのは子猫であった。
体はキジトラで足は七分丈の白毛、所謂ソックス猫と言うやつだ。尻尾にちょっと傷を負っていた。
子猫だし、弱っているので固形物は良くないと、母が煮干しを砕いて水に溶かしたものを与える。それをピチャピチャと音を立てて舐める子猫、どうやら元気なようだ。
そうしてこいつは我が家の一員となった。
名前は私が付けた。本当は「ライガーゼロ」と言う名前にしたかったのだが、母にもうちょっとかわいい名前にしろと言われたので、残念ではあるが音速の貴公子ことアイルトン・セナ様から名前を頂戴して「セナ」と命名。以降、私はこの名前で呼ぶことはほとんどなく、こいつを呼ぶ時は「ねこ」と呼んでいる。
ねこが初めてうんこをした場所は洗面所の片隅であった。それ以来ねこはそこでトイレをするようになったので、そこに砂を置き、トイレを教える手間が省けたのでよかった。
母はねこであろうが人であろうが厳しく躾をした。食事はきっちりと適量を与え、飲み物は水のみ、調整乳なんかあげたら腹壊すから絶対にダメだぞ。
おかげでねこは健康に育ち、毎晩家の中を走り回っては親父に怒られるやんちゃ小僧へと成長した。
完全に内弁慶へと育ったねこは、ご飯の時以外には私には擦り寄らず、ちょっと撫でてやろうとすると遠慮なしに噛みついてくる噛み猫へと変貌を遂げる。
その度によく叩いたものである。そして俺の手は傷だらけであった。
外へ連れ出そうとすると烈火の如く暴れだし家の中へと駆け込むほどの臆病猫、知らない人が来ると一日押入れの奥で縮こまっていた。本当に情けない奴だ。
やがて私は大学に進学し、一人暮らしを始めた。あまり実家には帰らない私は数年に一回くらいの頻度なのだが、ねこは私のことを一応覚えているみたいで逃げ出しはしなかった。
さて、母のお見舞いに行く直前、ねこが「オエ、オエ」と餌付きだした。
まあ猫を飼っている人なら知っているだろうが、猫はよくゲボを吐く。
親父が慌てて新聞紙を広げて猫のゲロを受け止めるのだが、歳を取り食も細くなっているので吐き出したのは泡だけであった。
吐き終わった後、目を細めなにやら「すまぬ」と言う表情で固まるねこ。なんかもう完全にじじいだなこいつ。
病院に着くと母は意外に元気であった。手術と言っても切開は行わず内視鏡によるものだったので体への負担は少なく、その日の内に元気に動き回れたらしい。
それでも患者服を着ている母の姿はとてもやせ細り小さく見えた。
1時間半ほど話をして私は帰宅した。
それから2週間ほど経ったある日。私は夜中に泣きながら目を覚ました。
夢の中で「ねこ」が、珍しく私に擦り寄ってきて甘えるのだ。隣にいた母が「撫でてやって」と言うので私はそっと撫でてやった。
寝ぼける頭で、「あぁ、死んだのかな……あいつ」と私は思うと、涙を流してまた眠りについた。
朝になり起きると、そのことが気にはなったのだが仕事に行かなければならない。私はその夢を頭の片隅へとやり家を出た。
今日一日はなんだか落ち着かなかった。ようやく就業時間を終え帰宅。
私は母の術後の経過を聞こうと実家へと電話した。
その後も特段変わった様子もなく、食事もちゃんとしていると言う母、検査結果はまだ出ていないが元気そうでなによりだ。
ねこは、モリモリ餌を食って元気らしい。
おわり