8/10 20:00:00
少女がベッドの上に横たわっている。
年齢は14、15くらいだろうか。
女の子らしい淡い色の布団が規則正しく上下に揺れる。
その少女の寝顔を、坂口東吾は静かに眺めていた。
「……なあ佑莉、目を覚ませよ……」
東吾の声に反応はない。
少女――坂口佑莉はただ眠ったままである。
コンコン、と控え目なノックの後、部屋の扉が開かれる。
東吾の、そして佑莉の母であった。
「東吾さん、佑莉は……」
「駄目です。いくら呼び掛けても目を覚まさない」
「そう……」
母親は目を伏せる。
報道によると、同じような被害者はほかにも数万人といるらしい。
『ソードアポカリプス』の乗っ取り事件。そして人質によるテロリストの要求。
どこまでが真実で虚構なのか、東吾には判断が出来ないが、少なくとも妹がこうしてVRMMO世界に取り残され、ログアウト出来ていないのは真実であった。
やるせなさだけが募る。
「病院の手配が出来たみたい。佑莉を運ぶわ」
「……親父は?」
「信吾さんはまだ仕事みたい……」
「娘が人質にされてる時に仕事か。相変わらずだなあの人は」
その言葉に、母親は薄く笑うだけだった。
「佑莉を病院に運ぶわ。車に乗せるの、手伝ってくれるかしら」
「ああ……俺も一緒に病院に行こうか?」
「大丈夫よ。東吾さん、久しぶりの休みなんだからゆっくりして。こんな状態じゃ……休むに休めないと思うけど」
東吾は言葉通り、妹を抱きかかえて母親の車に乗せる。
病院に連れて行ったところでどうなる訳でもないが、同じように意識不明の人間が多数、搬入されているらしい。
テロリストの要求に対し、どう応えるのかは分からないが、人質の解放にどれだけ時間が掛かるか分からない以上、病院で処置を受けるのが妥当と判断した。
車に乗せ、母親が運転席に乗り込む。
「それじゃ行ってくるわ。何かあったら連絡します」
「……気を付けて」
気丈に笑う姿を見て、東吾はそれ以上何も言えなかった。
母が去った後、東吾は一人、リビングのソファに座っていた。
思い返すのは妹、佑莉の事だった。
東吾と佑莉の間に血縁関係は無い。
連れ子同士の再婚によって兄妹になったに過ぎない。
再婚した時、東吾は14、佑莉はまだ4つだったから、佑莉からすれば物心ついた時から兄妹であったのだろう。
東吾は良き兄であろうとしたし、佑莉もまたそんな東吾によく懐いていた。
しかしそんな関係も長くは続かなかった。
思春期を迎えた佑莉は兄を邪険にし、東吾も仕事による疲れで彼女に対して距離を取ってしまった。
その結果、二人の間には見えない壁が生まれ、会話もままならない兄妹になっていたのだった。
「…………」
最後にまともに会話をしたのはいつの頃だっただろうか。もはや思い出す事も出来ない。
そんな彼女がハマっていたのが、VRMMOと呼ばれる新しい技術のゲームであった。
東吾はよく知らないが、この画期的な技術によるゲームは爆発的に売れ、広く国民に知れ渡る事になった。
このVRMMO技術を独占的に所有しているアスタリクス社が販売しているゲームであり、最も売れているゲームが、この『ソードアポカリプス』であった。
VRMMOと呼ばれるゲーム体系で、異世界をまるで実際に体験しているような感覚が味わえるという。
「もしかして……」
東吾はふと思いついたように立ち上がり、佑莉の部屋へと向かった。
彼女の部屋に置いてあるゲーム機を起動し、VRヘッドギアを装着。
そして『ソードアポカリプス』のソフトを立ち上げる。
しかし――
「駄目か」
アクセス制限がされており、ゲームに接続する事すら出来ないようだ。
テロリストの騒動以降、ログインもログアウトも出来ない状態である。東吾がログイン出来るはずもない。
ヘッドギアを取り外し、一人溜息を吐いた。
何をしようとしているのか、自分でもよく分からなかった。
だが――
「ん……?」
携帯に着信が入った。
ディスプレイを見ると、見慣れぬ番号からの着信だった。
少し迷った後、東吾は着信に出る事にした。
「……もしもし」
『あ、もしもし! 良かった、番号変わってないんだな』
「……どちらですか?」
『ああすまん、俺だ。宇治原だ。防大の時、一緒だった』
「文人か」
その声に、学生時代の事を思い出す。
宇治原文人。共に同じ学び舎で学んだ同窓生だ。
「どうしたんだ? 突然電話なんか……」
『どうしたもこうしたもないだろ。聞いたぜ、妹さんの事……』
「ああ……」
どこからか漏れたのだろう。特に隠していた訳ではない。
どうでもいい事を根掘り葉掘り聞かれるのだろうと思ったが、しかし文人は全く違う事を話し始めた。
『お前の事だ。妹さんを助けようとして先走ってるんじゃないかと思ってな』
「俺は大丈夫だ。それに、先走りたくてもどうする事も出来ない」
『…………一つ、話があるんだ』
突然声を潜めて文人が言う。
「話? もったいぶらずに今話せよ」
『電話じゃ言いにくい。なあ今から出れないか? 駅前のファミレスだ』
「……分かった。十分で行くよ」
『すまんな』
電話を切り、ジャケットを羽織る。
まるで意味が分からなかったが、なぜか彼の言葉の裏にある何かに引っかかっていた。
そう思い、東吾は家を後にした。
「ここだ、ここ。久しぶりだな」
史人の言葉通り、駅前のファミレスに入ると既に待っていた文人が片手を上げる。
「お前こそ、大学の時に比べて……少し太ったか?」
「うるせぇ」
席に着き、東吾はウェイトレスにコーヒーを注文する。
少しして、文人が口を開く。
「……お前を呼び出したのは他でもない。『ソードアポカリプス』の占拠事件の事だ」
「ああ、だろうな」
「公式に発表されている情報だと4万人超の人間が今もログアウト出来ず、意識不明の状態にある。その事に関してはお前の方が詳しいかもしれん」
史人は少し左右を警戒した後、眉間にしわを寄せる。
「俺が今、防大を卒業した後、どこにいるか知ってるか?」
「……防衛省だと聞いたが」
「俺は今、内調にいる」
内調、つまり内閣情報調査室だ。
日本の持つ諜報組織の一つであり、内閣府に属している。
「しかしあれは警察庁の出先機関だろう? なんでお前が……」
「伊調内閣の情報庁構想は知ってるか?」
「聞いた事はある。現在の防諜機関をまとめて一元化するという話だろう」
「俺が防衛省から出向している形で内調にいるのは、その情報庁構想が絡んでいる。警察庁、内調、公安、そして防衛省が共同した最先端の防諜組織を目指しているという訳だ」
まるで夢のような話だ、と東吾は思った。
利己主義の強い各省庁が手を組むとは思えない。
その事が顔に出ていたのか、文人が少しだけ笑った。
「無論、どこが主導権を握るだのなんだので揉めに揉めているさ。そこに今回の事件が起きた訳だ。伊調総理はこれを情報庁の為に使うつもりだ」
「……なに?」
「今回の事件解決には情報庁……それに関わる俺たちが当たる。解決すれば大々的にその有用性を世間に広め、失敗すれば表向きは警察の連携ミスとして、一体化した組織の結成を叫ぶ。どちらに転んだとしても情報庁構想にとっては有益なのさ」
「……ふざけている」
「だがこれも政治だ。そしてここからが本題だ。お前にとってもな」
テーブルの上のコーヒーを飲み干すと、文人は目つきを変える。
「『ソードアポカリプス』に潜入し、テロリストの動向を探ってほしい」
「……なんだと?」
「現在、ログインは不可能だ。だが今日の深夜0時、定期メンテナンスが実施される。この時に外部からのアクセスが一瞬だけ可能になる。その隙にならログインが可能なんだ」
「……なぜ俺なんだ?」
東吾の言葉に、文人はすぐに答えようとしなかった。
少しだけ沈黙の後、口を開く。
「……先ほども言った通り、今回の作戦の裏にはドス黒い陰謀が渦巻いているのさ。そしてその焦点は、情報庁が設立した際、誰が舵を取るか、という点に当てられている」
「ばかげた話だな」
「だが、それも人だ。そして俺たちは、所詮命令を受けて走る猟犬に過ぎない」
皮肉めいた言葉に、東吾は眼を閉じる。
「そしてこの事件を解決させる為に俺の上――つまり防衛省のお偉方が動いた訳だ。何としても、防衛省として先手を取り、他省庁に後れを取るなとな」
「……だからと言って俺は関係ないだろう」
「……今回の作戦は非公式のものだ。失敗したとして俺個人の独断という形で処理される。そして、実際に潜入する者も同じ扱いだ。単なる部外者というポーズ。それが望ましい」
「だから俺だと?」
「ああ。妹が人質として捕らわれ、対外的に見ても戦うだけの理由がある。だからこそ、失敗した時も容赦なく切れる。そう判断した」
「……俺が裏切るかもしれないが?」
「お前は裏切らんよ。お前はどこまでいっても兵士だ。戦闘単位でしかない」
「…………」
東吾は思考する。
文人にも思惑はあるが、少なくとも東吾にとっては魅力的な提案だ。
元より東吾自身、首輪のついた猟犬に過ぎない。
命令を受ければいかなる作戦であったとしてもこなすだけだ。
「……この作戦を知っているのは?」
「俺と上の人間が数人、それだけだな。あくまでも俺の独断での行動だ。組織的なバックアップは望めない」
「最終目標は?」
東吾の問いに、文人がにやりと笑った。
それは在学中によく見た、悪友の笑みであった。
「平和の実現、それだけだ」
話を終えた後、東吾は文人に連れられ、マンションの一室へと向かった。
今回の作戦の為に急遽用意されたというマンションは、家具もほとんど置いていなかった。
部屋の中央にはVRゲーム機が置いてあるだけ。
「時に東吾、お前はVRゲームをやった事はあるか?」
セットアップをしながら文人が尋ねる。
「いや、やった事ない。ゲームなんて子供の頃にやったパズルゲームくらいだ。それも下手だったけどな」
「そうか。まあいい。VRゲームってのは、ゲームの上手い下手よりも、思考や肉体の使い方に大きく影響する。俺がお前を選んだのもそこだ」
「素人でも大丈夫なのか?」
「まあ最低限の知識はおいおい覚えてもらう。ただそれ以外は問題ないだろう。データをこちらで改竄する」
「改竄?」
「ステータスを書き換えるんだよ。改造、チート、まあ何でもいいが、お前の能力値を書き換えて最強にする」
「そんな事が出来るのか」
「出来るには出来る。ただ恐らくテロリスト連中も同じく改造データを使っているはずだ」
セットアップの手を止めて文人が告げる。
「ゲームマスター……GMがゲーム内には存在するんだが、こいつらは無敵状態にあった。しかしテロリストの襲撃を受けてGMたちはみんな強制ログアウトさせられた。向こうの使ってるキャラもステータスはカンストしてるはずだ」
「……つまり、相手も条件は一緒って事か」
「むしろ相手の人数が分からない以上、数的不利は否めないだろう」
「……ほかに分かっている事は?」
「GM三人が別々の場所で同時に襲撃を受けた。少なくとも敵の数は三人以上だろう。連中は【星の死】と名乗っている」
「連中の目的は身代金か?」
「ああ。百億ときたもんだ。まあ人質の数を考えれば妥当か」
「……交渉は警察庁があたるのか?」
「さっきも言ったが表向きは警察、ただその後ろには情報庁の連中が控えているはずだ」
そしてその裏では東吾たちが秘密裏に動いている。
「俺たち以外にも同じように潜入している連中はいないのか?」
「同じように突入計画は立てられているはずだ。SATが動いているはずだが……」
「SATの連中がこうしてゲーム機を使って突入作戦なんてな。世も末だな」
「ははは、戦争もテロも様式を変えたという訳だな」
そうこうしている内にセットアップが終わり、東吾はVRヘッドギアを装着する。
「さて習うより慣れろだ。零時ちょうどに潜入する。残り十分、準備はいいか?」
「さあな。よく分からん。とりあえず行けば分かるだろう」
「その楽天的なところ、俺は好きだぜ」
「……そっちの趣味はないが」
「俺もな」
薄く笑う文人は、そのあと、真剣な表情を作る。
「……さっきも言ったが、今から入る方法は不正手段でのログインだ。その場合、向こうでキャラが死んだ時は、お前自身の意識に大きな影響が入るだろう。最悪、二度と意識が戻らない可能性もある」
「ああ、らしいな」
東吾には具体的な論理は分からないが、不正規な方法でVR世界にログインすると、精神のバックアップが行えないという。
つまり、たとえゲーム世界であったとしても、キャラの死は、東吾の死として反映されてしまう。
あまりにもリアルすぎる世界故に、脳が死を受け入れてしまうのだという。
「それでも――」
「それでも、俺は妹を助けられるなら、どこにだって行くさ」
東吾の言葉に、不安を表情に出していた文人も顔つきを変える。
「……分かった。時間だ」
「ああ。頼む」
「安心しろ。こちらから指示は出す。お前はお前のやるべき事をやれ」
ゆっくりと頷き、東吾は目を閉じる。
そして、彼の意識は次第に闇へと沈んでいく。
深く、深く、静かに。