「今日も日常は続きますか?」「いいえ、」
「――て。朝だよ、アリア」
そんな声と共に肩を揺すられ、私はまだ眠っていたい気持ちを押し殺して瞼を開けた。
すると目の前にあったのはクロムが寝間着にしている白シャツ。ゆるゆると視線を上げれば、本人が困ったような笑顔でこちらを見ていた。そういえば、昨夜は結局クロムのベッドで一緒に眠ってしまったのだったか。
「……おはようございます」
「うん、おはよう。おはようなんだけど、ちょっと放してもらっていい?」
クロムの言葉に何を放す必要があるのかと自分の手元を見やると、がっちりとクロムのシャツを掴んでいた。とてもしわになっていそうだけれど、洗濯するなら同じだろうか。
「ごめん、放す」
まだ半分ほど寝ている頭でどうにか上半身を起こし、手を放してからベッドを降りる。そのまま欠伸を噛み殺して洗顔を済ませ、ようやく日が昇り始めたばかりの窓の外を眺めながら、着替えるために自室へ向かった。
屋敷で暮らしていた時ほど数もなく、上等なものはない。けれど、どれも自分で決めたりクロムに決めてもらったものなので気に入っている。店主さんには明るい色の服を着てくるようにと言われているからと、私はクリーム色のワンピースを手に取り、部屋の扉は閉まっていることを確認して着替えた。
さすがに覚めてきた頭でリビングに戻ると、丸テーブルの上には昨日もらったパンときらきら鮮やかなフルーツが用意されていた。初めはもっと品数も量も多かったのだが、私がまったく食べ切れなかったのでこの数に落ち着いた。
「ありがとう。いただきます」
「はい、どうぞ」
椅子に座って紅茶を淹れてもらい、パンをもくもくと口に運ぶ。そんな私の背後では、クロムが髪を結ってくれている。なんだかよくわからないが、私の髪を弄るのが好きらしい。だから私の毎日の髪型は、彼の気分次第。
「ごちそうさまでした」
用意された分をきちんと食べて、自分の食器をこっそり洗い(クロムに見つかると自分がすると言うから)、姿見で身なりがきちんとしているか確認する。クロムは今日、三つ編みの気分だったらしい。
そうお客さん商売であることを考えて、よしと頷いてから、私は用意ができたことをベッド周りを片づけていたクロムに告げた。
「昨日言い忘れてたんだけど、俺明日は休みになりそうだよ」
まだ人通りの少ない早朝の通り。赤いレンガ造りの家々が立ち並ぶ町中を歩きながら、ふと思い出したようにクロムが言った。
「そうなの?」
「うん。ロッツェの旦那が急に家族旅行に行ってくるって言いだしてね。自分がいないと仕事回したくない人だから、店ごと休みになった」
ロッツェの旦那というのは、今のクロムの雇い主だ。この町では名の知れた商人なのだが、少しばかり気まぐれな人で、思いついたように休みをくれたり賃金を上乗せしてくれるらしい。大物なのかテキトーなのかよくわからないが、人望はあるそうで町中の住民と上手くやっていると聞く。
「じゃあ、ゆっくりできるね」
「いや、アリアが働いてるのに休みなんてもらってもな……。俺もパン屋に臨時で働きに行こうかな」
「家でゆっくりしていて」
本気で悩んでいる口調だったので、そう釘をさす。クロムは項垂れたが、普段の肉体労働で身体も疲れているはずなのだ。そういう時にこそ、きちんと休んでもらいたい。
道中出会った婦人や若い娘さんと挨拶を交わしながら、昨日クロムが迎えに来てくれたパン屋の裏口に辿りついた。
「また、お昼にご飯持っていくから。気を付けて」
いつも送り迎えをしてくれる彼にそう言って軽く手を振ると、クロムはにこりと笑って「楽しみにしてるよ」と手を振り返してくれた。
それに安堵して、私は裏口のドアノブに手をかける。
今日も一日、頑張って働きましょう。
・ ・ ・
『当店の看板娘におさわり禁止♪ 発覚した場合は別途料金をいただきます♪』
突如店先に置かれた謎の看板が謎であるまま、午前の仕事が終わった。
店主さんに尋ねるべきかとも思ったのだが、結局午前中は聞くこともできなかった。
「はーい、今日の分の出張よろしくお願いね」
三角巾を頭につけた店主さんにそう言われて、大きな紙袋をどんと渡された。
お客さんの見送りを終えてからそれを受けとり、「あの」と尋ねてみる。
「この看板、なんですか」
「んふふー。触るなと言われると、逆に興味を持ってしまうものなの」
「はい?」
「いいから早く行かないと。お腹すかせてるわよ? 彼」
そうにこにことした店主さんの笑みに押され、私は言われるがままにパンの入った紙袋を抱えて店を後にした。
おさわり? 別途料金? 興味? 店主さんの考えることはわからないことが多いけれど、今回のものは抜きん出てよくわからない。
パン屋から徒歩で二十分。クロムの仕事場はその距離にあり、お昼そこで働く人たちにパンを売りに行くのが私の大きな仕事だった。お金の勘定もきちんとしなければいけないので、一か月経った今でも少し緊張する。
エプロンと三角巾姿で歩いていると、いろいろな人が声をかけてくれた。あまり長話をするわけにはいかないが、二、三言葉を交わして、私はまた道を進む。初めはどう言葉を返せばいいのかわからなかったけれど、クロムや店主さんの真似をして少しずつ慣れてきたところだ。
それに口元が緩むのを感じつつ、大きなレンガ造りの倉庫が並ぶクロムの仕事場までやって来た。とりあえずは受け付けをしている建物内に入り、用件を伝えて、一番手前にある倉庫に向かった。
「お! きたきた噂をすれば!」
もう待ってくれていた人がいたようで、ちらほらとテーブル前に集まっている人たちがいた。
その中でもいの一番に声を上げたその人は、いつも灰色のツナギを着ている男の人だ。クロムと同い年ぐらいで、私がお昼にやって来ると大抵一緒に待っている。今日も案の定ふたりでいると思ったのだが……。
「その、昨日のお礼に、お昼作って来たんです! よかったら召し上がってください!」
「…………」
一緒に、昨日の金髪の少女もいた。可愛らしいバスケットを持って。
ツナギの人が声を上げるまで弱ったように笑っていたクロムは、慌てたようにこちらを見た。私はそっぽを向いてテーブルに紙袋を置いた。
「モテる兄貴を持つとむかつくよねー、アリアちゃん」
「恰好いいものは仕方がないんじゃないでしょうか。私はツナギさんも明るくて楽しい方だと思いますけど」
「ホント? じゃあ、将来の彼氏枠に予約入れていい?」
「本当に楽しい方だと思います」
「ノーってことね……」
がっくりと肩を落としたツナギさん。本名はもちろん違うだろうけれど、それがあだ名であるらしく、本人もそう呼んでくれて構わないと言っていた。本当に気さくで気の良い人なのだ。
そんなことを思いつつ商品名の書かれた袋を大きな紙袋から取り出して並べていると、ダンッとテーブルを叩かれた。目を上げれば、クロムが無理やり繕ったような笑みを浮かべていた。
「アリア、わかってると思うけど」
「わかってるから大丈夫。女の子が作ってくれた料理を断ったりしないよね、兄さん」
にこにことバスケットを持って待っている金髪の少女を少しだけ見、そう言葉を返した。
顔だちが整っているというのも確かにそうだが、クロムは基本的に人が良くて女性の扱いが丁寧。かといって男性に厳しいわけでもないが、女性に優しくを地で行く人なのだ。だから、こうした好意は受け取るしかないだろう。
「……私は」
そうテーブルから身を乗り出し、クロムにだけ聞こえるようぼそりと呟いた。
「……夜一緒にいてくれたらそれで――」
「えええええええええええええッ!!?」
唐突に聞こえた叫び声に驚いて、思わず声の聞こえた方へ目を向けた。
するといつのまにやら金髪の少女の傍に、同じ青い瞳に短い銀髪の少女が立っていた。
あんぐりと口を空けて、こちらを唖然と見つめている彼女は。
私が何度も殺した生徒のひとりと、瓜二つの姿をしていた。