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最後の期待に青紫


 次に思い出したのは、『彼』と出会う前夜のことだった。

 一度眠りに落ちた意識が手を叩かれたように弾け、ひどい動悸と共に目が覚めた。窓からこぼれる月星の明かりもない暗闇の中、ベッドから飛び起きた私はひとつのことを考えた。

 この夜を越えれば私は『彼』と出会うことになる。私のこれまでの繰り返しの中で、たったひとつの転換は『彼女』と出会ったことだった。けれどそれを避けただけでは、『彼』のことを思い出し、結局学院に戻ってしまう。また同じことを繰り返してしまう。

 だからもしも、『彼』に出会うことさえなければこの身体はどうするのか。嫉妬を覚える相手に両方とも出会わなければ、それが殺意に変わることもないのではないか。そう考えれば、いてもたってもいられなくなった。


 慌てて部屋の灯りをつけ、寝間着から部屋着にしていた深い紺碧のワンピースに着替えた。そして使う機会もなかったブラウンのショルダーバッグに、本当に必要なものだけ詰め込んだ。その時点ではまだ自分がなにをしたいのかよくわからず、とにかく屋敷から離れようと急いていた。ただ明日『彼』がやって来てしまうこの屋敷から、どうしても離れなければいけない気がしていた。


 髪の毛が跳ねてしまっていることも、襟が乱れていることも気が付かずに、外側から鍵のかかっていた扉のドアノブを融かした。そうすれば鍵は意味をなさず、扉を押すだけで開くことができた。きちんと灯りを消して扉をもう一度閉めてから、窓から差し込む月明かりを頼りにゆっくりと廊下を歩んだ。

 その足取りとは裏腹に、動悸は少しも落ち着かなかった。もしもこれが成功すれば、ようやく私は誰かを殺してしまうことからも、自分で自分を殺すことからも逃れることができる。これまでさんざん繰り返してきた益体のないループから抜け出せる。


 もう誰かと一緒にいたいなんて我が侭は言わない。言わないから、どうかそのふたつの繰り返しからは逃して欲しかった。

 けれど明日『彼』に出会わなくても私の身体が言うことを聞かなくなるならば、もうそれが叶う望みはないだろう。私にはこれから遡って、転機などひとつもない。


 期待とそれが叶えられなかった時のことを思い、私は恐る恐る足を進めた。何度か使用人たちと遭遇しそうになったが、物陰に隠れたり手近な部屋に身を潜めたりして、なんとか一階まで辿り着いた。あとはもう、どこかの部屋の窓からでも抜け出せばいい。


 そう屋敷の間取りを頭に浮かべ、すぐ近くに小さな物置部屋があることを思い出した。そこなら多少窓から出ることに手間取っても、誰かが入ってくる心配をする必要はない。いざとなれば壁でも融かしてしまえば良いのだが、出来るならば朝まで気づかれずに屋敷を抜け出したかった。  


 静かに扉を開けて、埃っぽい室内に入り込み、扉を閉める。ひどく薄暗い室内だったが、どうにか赤いカーテン越しに届く月明かりを目印に足を進めた。

 そうしてようやくカーテンに手が触れた時、不意に扉の開く音が聞こえた。


「…………」


 慌てて振り返った先では、開いた扉の向こうに灯りのついた燭台を持つ大きな影があった。

 少し癖のある艶やかな黒髪に、蝋燭の炎を映して不思議な色に輝く青紫の瞳。私も十二分に驚いていたが、その青年も端正な顔立ちを驚いたものにしていた。


 見たことがある顔だった。おそらく屋敷の使用人なのだろう。けれど、私はその人の名前も知らなかった。そういえばこんな人もいた気がすると、その程度の記憶しか持ち合わせがなかった。あれだけ繰り返した中でも、本当に僅かにしか目にしなかったのだろう。


「……こんな夜更けに、どうされたんですか?」


 そう無理やり貼り付けたような笑みを浮かべて言うその人に、私ははたと気づく。見つかってしまった。勝手に出てはいけないと言われていた部屋から抜け出して、こんな格好をしていては、もう言い訳などできない。


 どうする。 

 私はこの屋敷を抜け出さなければいけないのに、このままでは他の人を呼ばれてしまうかもしれない。どうする。嫌に頭の中で鳴り響く鼓動を聞きながら、私はようやく口を開いた。

 

 動かないでください。そうでないと、あなたを融かします――と。


 ようやく見つけた期待の前に、私はなにもかも急いていた。だからといって口にしていい言葉ではなかったが、そうしなければここで全て終わってしまう気がした。失敗してもまた死ねば、少し前に戻れるというのに。

 本当はいつだって、死にたくはなかった。


「それは、困ったな」


 独り言のように呟いたその人は、ぎこちなかった笑みを少しだけ自然なものにして、言葉を続けた。


「俺がこのままここに立っていると、他の使用人にも見つかってしまいますよ。ユーキスアリア様」


 その人の言うとおり、まだ部屋の扉は開いたままだった。私の言葉のとおりに動かなければ、いずれにせよ他の人間に見つかってしまうだろう。

 それに気づいて言葉に詰まると、その人は「少しだけ許してくださいね」と言って、部屋に入り扉を閉めた。


 わからなかった。どうしてこの人が私に都合よく動いてくれたのか。あのままにしていれば、他の使用人が見つけて助けてくれたかもしれないのに。どうして、と思わず尋ねると、その人は困ったような笑みで自分の頭に手をやった。


「一度、お嬢様とお話がしたくて」


 不躾なのは、わかっているのですが。

 そう続けたその人の言葉に、自分の目が見開くのを感じた。


 話がしたい。そんな風に言ってくれたのは、『彼』以来初めてだった。


「ずっと言葉を交わしてみたかったんです。だからこの部屋に入って行く姿を見つけて、つい」


 唖然としている私を前に、その人は本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。


 それが『彼』のものと重なり、背筋が凍る。

 私は駄目な人間だ。優しくされたらその分だけ、笑いかけられたその分だけ、相手に執着する人間だ。そんなことはこれまでの何百という繰り返しの中で何度も見せつけられていた。だから、私は誰かと一緒にいたいだなんて我が侭を言ってはいけない。優しくされたいなどと願ってはいけない。それが叶った分だけ、私はまた同じことを繰り返す。


 私はその繰り返しから逃れたいだけなのに、どうしてこうも上手くいかない。


「……どうか、されましたか?」


 そう心配げにこちらを窺うその人が、一歩踏み出した。

 それに肩がびくりとし、私は耐えきれず背を向けてカーテンも、その向こうにあった窓も全て融かした。濁った液体が床に滴り落ちる中、私は必死で窓から部屋を逃げ出した。その先にあった裏庭の芝生の上を何度も転び、どうかどうかと、誰も聞いてくれなかったことを願った。願っても願っても裏切られてしまうのに、もう願うことにも疲れてしまったと思っていたのに、ぼろぼろと溢れて止まらなかった。


 殺したくない。殺したくない。殺したくない。殺したくない。殺したくない。

 死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。


 もう嫌だ。どうして私がこんなことばかり。まるで決められているみたいに同じことばかりを。どうすれば逃げられる。どうすれば。助けてなんて言わないから。そんなものは叶わなくてもいいから。どうか。どうか。どうか――。


「待って……!」


 必死に押し殺したような呼び声と同時に、左手を掴まれた。振り返ればもう屋敷の外まで出てしまっていたのか、灰色の塀が見え、それを背景に立つ先ほどの使用人が息を切らしていた。

 私もこんなに走ったのはこの身体では初めてのことで、荒い呼吸を繰り返しながらも、離してと叫んだ。ここで捕まるわけにはいかないと、必死にその手を振りほどこうとした。けれどその手は少しも離れず、痛いほどに左手を掴んでどうにもならなかった。

 

 どうせ私から離れてしまうくせに近づいてこないで。どうせ止めてしまうなら声なんてかけないで。どうせ私以外を見るなら笑顔なんて見せないで。 


 勝手なことばかり叫んだ。その人には関係のないことばかり叫んだ。ただ屋敷を抜け出す私を追いかけて来ただけだろうに、何を言っているかもわかってもらえないというのに。もうしばらく見ていない、両目を失った暗闇の中で零したように、堪えきれず言葉を繋いだ。


 もう視界も滲んで歪んでしまった頃、私は不意に握られていた左手を引かれた。そしてよろめいた先で身体を受け止められ、気づけばその人に抱きしめられていた。


「俺の名前はクロムです。あなたが重ねている人間ではありません」


 なにも知らないだろうに、その人は知ったような言葉を口にした。それに怒りすら覚えるのに、罵倒の言葉はひとつも出てこなかった。


 何度も何度も繰り返した。生まれてから死ぬまでを。意味も分からないまま何度も何度も何度も繰り返した。一度目に犯してしまった罪の罰なのか。何度も、何度も、何度も、何度も。それなのに、こうして誰かに抱きしめてもらうことすら、私は一度も経験したことがなかった。手を引かれた覚えもない。自分以外の体温なんて知らなかったから、私は容易く言葉を収めてしまった。ああ、なんて――。


「だから、俺は離れません。声をかけていいと許してくださるなら、いくらでもあなたと話したいことがあります。それに、ずっとこれまで、俺はあなただけを見てきた」


 嘘だ。私はあなたと言葉を交わしたこともない。これまで名前も知らなかった。自室からもほとんど出ることが叶わない私をどうして見ていたというのか。


「嘘じゃありません。ひとり寂しがっていたあなたを知っています。本当はご家族と普通に話がしたかったことも。外に出たかったことも。他にも、たくさん」


 知ってます。知ってるんです。

 そうその人は震えた声で繰り返し、私の身体をぎゅうと抱きしめた。


 クロム。クロム。クロム。

 何度噛みしめても覚えのない名前。それなのに、どうしてそんなにも私の想いを知っているのだろう。


 そのままの疑問を思わず口にすると、その人は僅かに身体を離して、下りていた私の両手を握った。そして、くしゃりとした笑みを浮かべて言った。


「だから、言ったじゃないですか。俺はずっと、あなたのことだけ見てきたんですよ」

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