あまりにも特別な今日
「無人島に何かひとつ持っていけるとしたら、あなたは何を持っていく?」
「クロムを連れて行きます」
日も落ちてしばらく経った頃。完全に暗闇の下りている窓の外をカーテンで仕切り、私はそう答えながら振り返る。すると振り返った先では、紙袋を抱えた若い女性があらあらと柔和な笑みをこちらに向けていた。
亜麻色の長い髪に、優しい同色の瞳を持つこの人物――彼女はこの小さなイセルという町で、若いながらもパン屋を営む女店主だ。さすがに大盛況とは言えないが、その穏やかな人柄と確かなパンの味に惹かれ、日通いしている客も決して少なくはない。そして彼女目当てに毎日顔を出している男も少なくないむしろ多い。
今日もたむろしていた男たちを思い出しつつ、箒を片手に彼女の元へ近寄った。
「本当に仲が良いのね、あなたたち。これいつものだけど、よかったら食べてちょうだい。その大好きな彼と」
「いつもありがとうございます」
普段通り、持っていた箒と引き換えに、両腕に収まるほどの紙袋を受け取る。それだけでふんわりと美味しそうなパンの匂いがして、お腹が空いたなとしっかり抱え直した。
私はここ一か月、このパン屋で働かせてもらっている。その働きはじめに売り切れなかったパンの残りをもらってから、ずうっとこの好意に甘えていた。最初は申し訳ないと断ったのだが、『それなら、もったいないけど捨てちゃうわね』と笑顔で言われ、どうにも受け取らなければいけない気がし現在に至る。
確かに終始にこにことしている穏やかな女性なのだが、相手に有無を言わせない押しの強さも魅力的な雇い主だ。
「それじゃ、今日もお疲れさま。また明日もよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
そう一礼して裏口に向かおうとしたところ、「そうだ、アリア」と引き留められて足を止める。
すると彼女はにこりとして、手を振った。
「今日も妹さんに悪い虫はついていませんでしたって、伝えてくれる? その彼に」
「わかりました」
これもいつもの通りである伝言を受け取って、今後こそ私は裏口から外へ出た。
通りの裏に面しているこの場所は暗く、空から落ちてくる月明かりと周囲の家々から零れる僅かな灯りだけが光源だ。それだけによろしくない類の人間もうろついているから、気を付けてねと店主さんにも言われている。
ただ、私にはあまり関係のない話かもしれない。
「お疲れさま、アリア」
裏口へ続く扉を開けてすぐ、私が出てくることを知っていたように待っている人がいた。
少し癖のある跳ねた黒髪と、紫水晶のような澄んだ瞳。女性受けの良い端正な顔立ちに、人の好さそうな笑みは普段通りの組み合わせ。背丈も私に比べれば頭二つ分ほど高く、肩幅も広くてしっかりとした体格。
彼の名前はクロムという。年齢は私より六つ上の二十一歳。年上からも年下からも女性にお声をかけられやすい、俗に言うところの色男だ。
一応、私は彼の妹という設定でこの町で暮らしている。だからなのか何なのか、家にまで女性が訪ねてくることもままある。しかも夜に。さすがに少し、不躾ではないかと思う。
「クロムこそお疲れさま。今日も怪我はしていない?」
紙袋を抱えたまま、月明かりにきらめいている彼の瞳を見上げた。
私がパン屋で働いているのと同様、彼もこの町の商人の下、荷物の運び出しや引き受けの仕事をしている。それなりに重量のあるものを運ぶこともあるそうで、その時に怪我をしないかどうか、私はいつも気になってしまう。
けれど彼はにっこりと笑って「大丈夫だよ」と私の頭をゆっくり撫でた。
「お屋敷では力仕事もしてたからね。これぐらい、なんてことないよ」
「そう。それなら、いいんだけど」
彼の身体を上から下まで確認し、確かに怪我はなさそうだと頷く。
そんな私の視線に気づいたのかどうなのか、クロムは苦笑を洩らして「本当に大丈夫だから」と、私の持っていた紙袋を上から取ってしまった。
「俺なんかより、アリアだよ。なにか困ったことはなかった? 変な奴が店内を見てたとか」
「『今日も妹さんに悪い虫はついていませんでした』って店主さんから伝言」
「そっか。それなら俺も安心できる」
当然のように荷物を持ってくれた彼へ、お礼を言うタイミングを見失ってしまった。きちんと言わなければいけないと思うのだが、今言い出すのはおかしいだろうか。
そう紙袋の消えた両手を少し見つめてから下ろすと、下がっていた視線の先へひとつ手が差し出される。知っているその持ち主を見上げれば、もう片方の腕に紙袋を抱えたクロムが青紫の瞳を細めて笑んでいた。
「それじゃ、帰ろうか」
「うん」
迷うことなく自分より大きなその手をとって、ほうと息を吐く。
今日もこの手はあたたかい。今日も私は生きている。ほんの二か月前まで当たり前でなかったことが、『いつも』と言えた――そんな今日も特別な日だ。
「……ありがとう」
「こちらこそ」