茶の袋は知恵袋
こんな香ばしいお茶の臭い、一体どこから? ここは人の子一人いない森の中だぞ? 透陽は疑問符を浮かべた。
漂う香気の元を探る。首を捻ると香りが強くなる。ついでに妙な埃っぽさも感じられるようになってきた。
その原因は、そう、己の背後――透陽は一息に振り返った。
「げえ、さっきの!」
「『げえ』とは失礼ですのう。わたしゃ人畜無害でありまするに」
ひょうひょうとした口調で語り、その主は湯呑を傾ける。熱い、とおどけて舌を巻く彼女は、挨原茶狐だ。いつの間に現れたのかはわからないが。
先ほど出会ったポイントまで戻ってきてしまったのかと思えば、そうでもない。見覚えのない場所だ。
まさか、付いてきたのか? 透陽は怪訝な顔をする。
そんなことなど全く意に介せず、茶狐は閉じた目で弧を描き、透陽の顔を見上げた。
「時に人間、お困りのようですの」
「そうだよ! あいつ! シャグマ!」
「おお、シャグマ・エスクレンタ。あれは猛毒キノコのせいか、凶暴で凶暴で。……いやはや困ったちゃんには違いない」
茶狐は一旦湯呑を地面に据えると、肩の横で両手を開く。ついでに肩をすくめてみせた。
透陽も困ったように、ぼさぼさの頭をガリガリと掻く。
「困ったちゃんどころの話じゃないだろ。危険人物だ、あれじゃ」
「さもありなん」
そう言ってから、茶狐は毒気のない笑い声を上げた。
そして、口をへの字に曲げて立っている透陽に向いて、やれやれとばかりに頭を大きく横に振る。その勢いで、頭の上に積もっていた綿毛状の物体が、もうもうと煙を上げる。
(な、なんか汚い気がする。でも、相手はキノコだし……)
きっとあれは胞子だ。決してフケなんかじゃない。フケを被った女の子なんているものか。透陽は変な汗をかきながら、茶狐の様子をぼんやり見ていた。
すっかり上の空の人間に向かって、注意を引くべく、ホコリタケの茶孤はびしと指を突き出した。
「さてお主。何故、シャグマが危ないとお思いか?」
言葉遣いは老獪した者のそれだが、口調自体は相変わらず軽い。
だから、透陽もさらりと答える。
「そりゃ、あんな風に爪で飛びかかってこられたり、丸太で殴られたりしたら、俺、死ぬもん。普通の人間だからさ」
「にょほほ! 我らの姿が見える目を持つ人間よ、もうそれだけで普通ではあるまいに!」
「そう言うことじゃないって!」
奥羽透陽青年の身体能力は並だ。むしろスポーツに対して全く親しみが無い分、学生諸君の中では下位寄りかもしれない。そんな人間が、荒れ狂う野生の力を受けて立とうなど無謀な話。台風の日に増水した川を見に行くようなものだ。
という旨を大声で主張しようとしたとたん、茶狐の方から「冗談だ」という宣言がなされる。
彼女の細い目が作り出すいい笑顔に、透陽は拗ねた思いを抱いたのだった。
茶狐が大きく息を吸い込み、一呼吸置いた後、胸の奥から吐き出す。
さて、と一言置いた後、きりりとした表情を見せた。つられて透陽も真顔になる。
「確かに死ぬ。ひとたまりもないじゃろう。しかしのう、人間。キノコは何故人を殺せるとお思いか?」
「力も強いし、爪もとがっているし。それに、アイツが暴力的で、攻撃的で、危険な奴だから」
「ふむ。間違ってはおらぬが、それは根本的な原因には至らぬ答えよ」
「は?」
透陽は顔をしかめた。一体何を言っているんだ。鋭い爪で引き裂かれたら血が出る。怪力で殴られたら骨が折れる。原因と結果は明らかではないか。
無言のまままとまらない考えを巡らせている透陽。そこに、茶狐の静かな言葉がかけられた。
「何故鋭い爪を持つか。何故人を殺せる怪力を持つか。シャグマ・エスクレンタがその身に宿す力は、何がゆえもたらされるのか。――それはあれが猛毒キノコだから」
「何だって!?」
「おやおや、まさかあれが有毒種だと知らなかったと!」
「違う、そっちじゃない。何で毒があると力が強いんだよ」
「何故と言われてものう。事実を重ね合わせた結果『そういうものだ』としか言えんのじゃ。さすがに、知らぬことは答えられんよ」
茶狐はお手上げだと言う代わりに、そのままのジェスチャーを見せた。
まだもやもやとした気持ちは残っているものの、透陽はひとまず頷いて見せた。
さらば、と茶狐が手を叩く。
「毒性ゆえに攻撃的。毒性ゆえに凶暴。ならば、簡単な話じゃ。毒を抜いてしまえば、よろしいに」
「毒抜き……?」
透陽は目を丸くする。毒を抜けばシャグマは力を失うのか? そもそも抜けるものなのだろうか、人を死に至らしめる毒というものは。
キノコを毒抜きしてどうのと言う話は聞いたことがあるが、果たして一体どうすればいい。彼は目の前にぶら下がった答えのカードを掴もうと、茶狐に食い下がる。
だが、茶狐は滑稽なものを見るような笑い声を上げると、やれやれとばかりの身振りを見せた。
「後は自分で考えなされ、人間の若人よ。考えて、やってみて、それから反省するのが、己を高めていくコツじゃよ。わたしの知恵袋なんかよりも、人間の知恵の結晶をあてにしなされ」
「知恵の結晶って……」
「なんじゃ。書物の一冊くらい持っておらんのか」
「書物……あっ! ああ!」
ようやく思い至った。
透陽はバックパックを降ろして、すっかりぐちゃぐちゃになってしまった荷物をまさぐる。
掴み取ったのはキノコのポケット図鑑だ。掲載数が少ないと不満は漏らしたが、しかし有名どころは抑えてあるはずだ。
「シャグマ、シャグマ……よし、載ってる!」
夢中でページをめくり、目的の記述を開く。
「『極めて強い毒性を持つ。ただし、ヨーロッパではゆでこぼして――』」
透陽が文字にかじりつく。
彼の姿を見ていた茶狐は満足そうに笑った。
途端、彼女の姿が弾ける。後に残るは、もうもうと空気中に舞う胞子の靄とわずかばかりの茶の香り。
加えて、呑気な声が森に響いた。
「ああ、煎茶は熱いに限る。熱い湯ならば汗と共に、体に溜まった毒素も抜けますからのう」
にゃははという軽快な声が、頭の中にこだまする。
茶狐のヒントと手元の知恵とがリンクし、一つの答えを導き出した。
「……ありがとう」
無意識的に透陽は姿の見えない恩人に謝意を述べていた。
まるでそれに答えるように、ホコリ臭いそよ風が一陣、吹いた。
「あんだよ! またてめぇか! ブン殴られたいのか!?」
どうにかこうにかシャグマアミガサタケのポイントまで戻って来た透陽を迎えたのは、苛立ちがおさまらないシャグマ・エスクレンタの怒号であった。
だがか弱き青年は、意を決したように、無言のままにじり寄る。後ろ手には、秘密兵器が握られていた。
その不穏な気配を察してか、シャグマが戦闘態勢を取り、透陽を睨みつける。何かあったらいつでも飛びかかれる、拳法家がとるような、そんな構えだ。
緊迫感漂う中、二人の間合いが詰まる。あと少し、もう一歩――今だ!
透陽は機を見計らい、背後にしていた右手を、思い切り前方に振った。
彼の手から、いや、その手に握られた金属の容器から浴びせられたのは、今しがた沸かしたばかりの熱い茶だ。
「熱っつ!」
人間なら火傷不可避の熱湯をもろに浴びせられたシャグマ。濡れた後をもみくちゃにしながら、ぎゃあぎゃあ喚いて地面にのたうち回っている。
(やった!)
透陽は顔を綻ばせた。女子に熱湯をぶっかけることに若干の罪悪感もあるが、己の命を天秤に掛ければ、そうも言っては居られない。
これで少しは大人しくなってくれればいいのだが。
山の中で熱湯を入手するのに費やした時間と手間――山火事の危険に怯えながら、ルーペで日光を集めて火を起こし。たまたま目についた不法投棄されていた鍋で、自分の飲用の冷たい麦茶を熱く沸かして、ここまで運んできた。そんな汗の結晶が、報われるものだ。
やがて静かになったシャグマが、むくりと立ち上がる。
彼女と目が合った瞬間、透陽の顔から喜びは消えた。血の気が失せて、息を詰まらせる。
それもそのはず。中途半端に濡れて乱れた髪の向こうから覗くのは、地獄の業火を思わせるように赤い眼光。
「てめぇ……ふざけやがって! よくもやってくれたなあ? あん?」
その体を怒りに震わせながら、引きつった笑みを浮かべてシャグマは透陽ににじり寄る。手袋に隠れて見えないが、きっとそこには青筋が浮いているのだろう。彼女の拳に力が籠っているのは明らかだ。
蒼白な顔をしたまま、透陽はうろたえながら、思わず叫ぶ。
「話が違うじゃないか! 熱いお湯で毒が抜けるって!」
「ああん!? 何言ってやがる! 覚悟はいいだろうなぁ?」
半狂乱の男の目の前に、シャグマが立った。吊り上がった目が、獲物を捕らえて歓喜する。
透陽は必死で頭を巡らせた。何かこの状況を打破する策はないか、と。
茶狐の知恵を借りながら思いついた秘策が失敗し、この上ない危険に晒される今。それでも取れる手段が一つだけある。
透陽は生唾を飲みこみ、覚悟を決めた。