彼女との出会い(1)
③彼女との出会い(1)
「まずは最初の放火殺人があった日のことから話してくれないかしら」
女刑事が急かすように本題へと促す。
よっぽど俺の示唆にとんだ序章がお気に召さなかったらしい。
「魔法学科の生徒が殺された事件のことだな」
「ええ。知ってるでしょう」
「もちろん……よく知ってるよ。なんせ俺も見たからな。焼け跡だけど。あのときの光景は今でも夢に見る。ガキのころから憧れてた魔法使いの夢が一瞬にして、絶望に塗り替わっちまったんだからな」
そう、俺だって昔は異能に憧れてた。
日陰ものじゃ終わらない。
太陽の下に出て、自分以上の存在になれることをいつも夢に見てた。
だって、現実の俺はどうしようもなく惨めな餓鬼で、親の言いなりの僕ちゃんで、自分からは何もできない臆病者だったから。
自分以上のものになれるなら、変われるチャンスがあるなら、どんな無理難題にだって付きあう覚悟はできてた。
でも、あの日。俺はそいつが全然足りなかったことを思い知った。
二〇一八年の四月。
俺はまだ一五歳で三重の西部から上京してきたばかりの魔法科の一年坊主だった。
携帯電話はまだ手の平に形として存在していて、小説家も魔法使いもまだそれ一本で食えてる人間がいた時代。
それがたった二年後に終わりになるとは思いもしなかった頃のことだ。
「あんな早朝に公園に行ったのは……はじめてだった。だから、現場に遭遇したのもたまたまだった。運が悪かったよ」
俺は嘘を言った。
取り調べじゃないんだから、嘘のひとつやふたつは織り交ぜる。
公園に立ち寄ったのがはじめてなのか、それとも入学式以降習慣化していたのかどうかは、連中にとってはあまり重要じゃない。
だから、嘘を混ぜる。
舞台は俺たちの通ってた私立緑桜付属高校のすぐ近くの市民公園。
そこの小さな池の傍にでっかい銀杏の樹があったんだが、ある朝行くと黒焦げになってた。
葉は燃えつけて、裸の幹だけが風で吹き飛びそうなくらい頼りなく立ってた。
焦げ臭さと一緒に強烈な悪臭が漂ってきて、俺は鼻を抑えた。
なんとなく火葬場で嗅いだことのある匂いと一緒に思えて、嫌な予感がした。
墨になった樹の周りには早朝なのにもう何人かの野次馬がいた。
ジョギングの定番スポットだったから、その手の格好をしたおっさんやおばさん、お兄さんにお姉さんが天を仰いで嘆いたり、携帯電話で写真を取ったりしてた。
現場は酷かった。
黒焦げの銀杏の大木にそいつは鎖で縛り付けられたまま燃え尽きてた。
黒墨だ。
悲鳴の末に顎は外れて落ちてた。
正直、見た瞬間はそれが同じ魔法科の先輩だなんてわからなかった。
地面に書かれた、見るに堪えない醜悪な文言に、目にする焼け跡の生々しさに、吐き気がした。
腹に押し込んだばかりの朝食が喉をせりあがってくるのがわかって、俺は口を抑えて池のほとりでうずくまった。
「その一件以来、現場には行ってない」
これは本当だ。
あれ以来、公園には行ってない。
行く理由がなくなったからだ。
俺たちが緑桜を卒業したあと、公園は土地開発で更地になった。
いい公園だったのに。
朝はおっさんのジョギングや陸上部の朝練の定番コース。昼間は親子連れや営業回りのサラリーマンや暇な大学生の憩の場所で、夕方は学生カップルのデートスポット。
春には桜が咲き乱れて、秋には――夏前のことだったから秋のことは知らないが、あんなにでかい銀杏の樹があったんだ。
きっと金色の葉っぱがそこら中に散ってたはずだ。
とにかくでかい樹だった。
樹齢がいくらだったのかは知らないけど始めてみたときはそれが銀杏だなんて信じられないくらいだった。
公園は昔、小津家の所有する土地だったっていう噂があって、それとセットで銀杏の樹は大量のマナが宿った霊樹なんじゃないかって噂があった。
マナってのは魔法を使うのに必要なエネルギーのことだ。
マナは万物に宿ってるが、魔法のエネルギーとして使うには通常生きるのに使う量の何倍ものマナが必要になる。
一人前の魔法使いは大量のマナを体に通して自らを媒介にする。
そうして自然界の八つの元素に干渉する力を得る。
大量のマナが身体を通らなきゃ、魔法どころじゃない。
だから、新入りの魔法使いはまず自分の身体にマナを通すことからはじめる。
もちろん、そう簡単な話じゃない。
多くのマナを通せるようになるにはセンスと長い時間が必要になる。
この時間ってやつが厄介な代物で、万能感に憧れる高校生にとってみれば修行とか努力とか時間なんてものはクソだ。
中学の三年間で時間なんてものが案外あっという間に過ぎるもんだってことがわかった。
高校の三年間は一分一秒も無駄にはしちゃいられない。
当時はまだブレインフォンがなかった。
だから手っ取り早い方法とか、おまじないには即食いついた。
誰もいない朝の公園で銀杏の樹に触れると霊樹がマナの通り道を分けてくれる。
そんな都市伝説があって俺は入学式の朝、早起きをして、こっそり実行に移した。
公園には誰もいなかった。
決して会社や学校に行く通り道とか、近道の途中にはないような場所だったから、人目に触れずに樹に触ることができた。
樹の表面はごつごつしてて、他の樹と変わらなく思えた。
手のひらが暖かくなることも、足の裏から元気が湧いてくるようなこともなくて、体調の変化と言えば花粉症のせいで鼻がむずむずしはじめたことだけだ。
最初のくしゃみは何としても我慢しようと思った。
鼻炎持ちならわかってくれると思うが、最初のくしゃみはその後につづく地獄のはじまりみたいなもんだ。
一度許したら最後、止めどない洪水に襲われることになる。
けど、自然の摂理には逆らえない。
春風が首を撫でて、寒気がした拍子に俺は特大のくしゃみをした。
青々とした葉が微かに揺れて、上を見た。
空から女の子が落ちてきた。
正確には樹の上から。
「きゃっ!」
短い悲鳴とスカートのひらひら。
考える余裕はなかった。
俺は咄嗟に女の子をキャッチしようとして腕を広げたが、できるわけがない。
あっさり押し潰された。
軽く頭を打ってくらくらしてると声が聞こえてきた。
「すみません! 大丈夫ですか!」
目を開けると俺の身体の上に、女の子が乗っかってた。
「え、あ……」
息が止まりそうだった。
彼女があまりに俺好みだったからなのか。
それとも彼女をキャッチするときに強く胸を打ったせいなのかそれはわからない。
俺は言葉を失った。
黒髪で目が大きくて、顔の小さな、とびきり可愛い女の子。
やたらめったら形容詞を使って表現してもいいけど、彼女が客観的にどんな容姿でどんな体形の女の子だったかなんていくら事細かに語ったって意味はない。
あんたにとっての好みの子を想像してくれればいい。
あんたにとっての高値の花。
手の届きそうにない深窓の女の子を、思い浮かべてくれればいい。
服装はピンクのリボンに白のブレザーとスカート。
乙女の純潔を守るために魔法陣を織り込んでデザインされたっていう緑葉付属の制服は、その目的に反して多感な青少年の心を容易く擽った。
彼女が俺の腹じゃなくてあと数センチ後ろにずれてたとこに乗っかってたら、せっかくの出会いが台無しになるとこだった。
「あの……」
反応の鈍い俺を見下ろして、女の子が首を傾げる。
さらさらの黒髪が彼女の頬を滑る。
俺が見惚れてると彼女はハッとして立ち上がった。
「あ、ごめんなさい!」
彼女がどいて名残惜しいなんてことは考えなかった。
なにせ、体勢が体勢だったし、早朝とはいえ市民公園のシンボルみたいな場所だったからいつジョギング中のオッサンかお姉さんの目にさらされるかわかったもんじゃない。
俺のすぐ横にしゃがみこんで彼女は髪を耳の上に掻き上げた。
くりっとした黒い瞳に俺の形の影が映る。
俺は思わず彼女の顔から目を逸らした。
太陽を直視しちゃいけないのと同じように女の子の顔は――とくに美少女の顔はじっと見つめてちゃいけない。
くどく度胸がないのなら尚更。
もちろん、そのときの俺にそんな勇気はなかった。
「どこか怪我されてませんか。痛いところがあったら言ってください……頭、強く打ったんじゃありませんか」
「い、いや、大丈夫です!」
彼女が後頭部に手を伸ばす。俺は咄嗟に起き上がって後ずさった。
「本当にごめんなさい!」
彼女は熱心に頭を下げ続けた。
俺ごときの身体を心配をさせたくなくて俺は「こ、これでも鍛えてるので」ってフォローなのかアピールなのかよくわからない返しをした。
「そ、それよりあなたの方は怪我とか、し、してないですか」
「私は全然……あの本当に」
「もう、いいです。僕の方は、ななな、なんでもないし。それよりどうして、上から……落ちて……今、落ちてきましたよね?」
改めて一番低い枝を見上げる。
三メートルはある。
よくもまぁ、あんな高さから落ちてきた女の子の下敷きになって無事だったもんだ。
癖で頭を掻いてると彼女が驚いた顔をして駆け寄ってきた。
突然のことに俺は後退しようとしたが、もう背中は樹の幹についてた。
「あわ、あああ、ちょっと何」
「じっとして」
彼女の顔が鼻先まで近づく。
瞳の中に映ってた影がはっきりと俺の顔だとわかるくらいに。
彼女は細い指で俺の首をそっと押しのけて、反対の手で俺の後頭部に白いハンカチを宛がった。
体はさっきよりもぴったりとくっついていた。
流れる水のような涼しい香りが俺の身体を硬直させる。
ガチガチに固まった状態で頭を掻いてた右手を見る。薄らと血がついていた。
「少し抑えててください」
そう言って彼女が俺の手を取って、ハンカチを当てた後頭部に導く。
ひんやり冷たい指先に俺はますます困惑した。
何を言ってどう対処するのが正解なのか全然わからなかった。
今の俺だったら軽口のひとつ言えるのかもしれないけど、当時の俺じゃな……。
ハンカチを持って立ってるのがやっとだった。
彼女は樹の脇に置いていた鞄を開けて、小瓶を取り出した。
魔法の薬ってやつだ。
異能の技が政府の無形文化財に登録されて日の目を見ると、一般人の魔法への抵抗感を払拭するために町のあちこちに魔法使いが個店を開いて、昔ながらの魔法の煎じ薬とか塗り薬を売り始めた。最初はどうだったか知らないけど、俺が物心つくころには魔法使いの薬は市販薬よりも安価で副作用も少なくて、なにより可愛い小瓶なんかで売ったりするところが受けて、女子高生の間で大流行した。
俺が中学になる頃には町の雑貨屋の半分は魔法使いの店になってた。
「ハンカチを貸してください」
「……はい」
差し出すと彼女はハンカチに小瓶から取った粉薬――薬草をすり潰して作ったもの。マナの循環を促し、傷を早く治す効能がある――を取って、口に近づけて息をふきかけた。
粉はハンカチの中でふわっと緑色に光った。
彼女はそれを一度ハンカチで挟んでから再び立ち上がって、俺の後頭部に当てた。
「しばらくしたら傷も塞がるはずです」
「あ、あの……」
「はい?」
「顔が……その、近いような」
まともなことが言えたのはやっとそのときだった。
彼女は顔を真っ赤にして俺から離れた。
「ごめんなさい……」
「い、いいえ」
彼女は恥ずかしそうにしゃがみ込んで、そそくさと小瓶を鞄に仕舞った。鞄を肩に背負ってそのまま行っちまうだろうなって思ってたら、タイミングよく鳥の鳴き声がした。
「あ……帰ってきた」
彼女が樹の上を見上げた。俺も同じところに目をやった。
樹の上に鳥の巣があった。
親鳥の帰りを知って、雛たちが小さな嘴を上に向けて元気よく鳴いてた。
「巣から落ちた雛は人が助けてあげないと死んでしまうって、小さいころ何かの本で読んだことがあって。……でも、よかった」
「雛?」
彼女が何の話をしてるのかわからなかった。
試験に受かる頭はあっても、女子との会話に免疫のない俺は内容を飲み込むのにしばらくかかった。
「ああ……え、あの雛を巣に返すために、わざわざ、登ったの?」
「はい」
「で、ででで、でも結構、高さあるよ」
「昔はよく男の子に混じって木登りしてましたから」
「なる……ほど」
まぁ、俺もやれと言われたら登れないこともないが、正直彼女の見た目からは幹を伝って登っている姿は想像できなかった。
「ああ、あの、これ……」
そう言って俺はハンカチを突き出した。
「返します」と率直に言えない辺り、一五歳の俺。筋金入りのポンコツだ。
彼女はやんわり俺の手を押しかえして、
「いいんです。差し上げます」
「す、すみません」
他人の血がついたハンカチだ。
無理もない。
でも、彼女は嫌そうな顔はしてなかった。
逆に俺の制服を見て、パッと明るい顔になった。
「緑桜の人、ですよね」
「え、あ、はい……でも、今日入ったばかりで、まだ何も」
「新入生ですか。じゃ、私と一緒ですね」
「あ……そ、そうなの」
内心は俺もなんだか嬉しかったが、素直に声とか表情にならなかった。
彼女はウキウキした顔で俺に名前を告げた。
「瑞帆って言います」
「え……な、なに、瑞帆さん?」
彼女はくすくすっと笑って、
「瑞帆は苗字です。名前は花楓。瑞帆花楓っていいます」
「あ、ぼ、僕の名前は……護。森高護」
「森高……珍しい名前ですね」
「……き、君も」
互いに挨拶を済ませて、俺はそのまま用もなくトイレに駆け込んだ。
一緒に学校へ行くのは気が引けた。
照れ隠しみたいなもんだ。
掃除の行き届いてないくっさい便所だったが、心は天国にいるようだった。
鏡の向こうにいる冴えないガキのにやけ顔も今日は許せた。
彼女のハンカチで傷口を抑えながら、安い代償だったな、と笑った。




