EDEN〜憩いの場所〜
人生って何が幸いするか分かりませんね〜ってな感じの話でございます(>_<)
「水野……詠伝さん」
受付の女性の声が昼前の病院の待合室に響いた――……
夏が終わる。今年最高気温を記録した暑い夏が、もうすぐ終わる。私にとって高校生として過ごす最後の夏。絞り出すような蝉の声、風鈴の涼しげな音。それらは蒸せるような熱気と瞬間的な清涼感を交互に演出する。
『……はぁ』
言葉にならない溜め息を吐く私。志望校にも合格し、進路は決まった。行き先はあるのに、空しいのは何故だろう。
熱帯に近い猛暑と晴れの日が続き、それらを和らげるためなのか久しぶりに雨が降った。でもそれは余計にバスの車内を蒸し暑くする。窓は雨のせいで開けられず、まさに生き地獄……。
高校に着く頃には雨も止んでいたが、じめじめになった制服のスカートがベタッと張り付くようで気持ちが悪かった。スカートの中を下敷きや持参の団扇で仰ぐ生徒達。こんな女子高生活とも、もうすぐお別れ。
蝉はとうとう最期を迎え、夜が長くなる頃。華も情熱もない、つまらない女子高生の私は自転車を走らせていた。だいぶ涼しくなった夜の一般道路。信号が青に変わり、すぐにペダルを踏み出すと、丁度左折の乗用車が右目に映り――停まった……
「――……」
白い天井、カーテン、話し声。
「?」
私は混乱するわけでもなく、ぼんやりとそれを眺め――思考回路は停止していた。
「何か食べる?」
私を見下ろす母の顔。穏やかに笑っている。
「うん……」
私はゆっくりと身体を起こす。手の甲に刺さる点滴、掛け布団の下から伸びる長い管……それらは皆、この身体に繋がれていた。
「……」
私は母が剥いたりんごをかじった。
「伊吹さん、おはようございます」
病室のドアが開き、白衣を着た男性と女性が現れる。
「……」
この光景を目にするのは初めてではなかった。何度目か分からないけど、初めてではない。でも、何一つ覚えていないのは “その” 瞬間。私の時間はそこに置き去りにされ、まだ
止まっている。
私は車に跳ねられた――その記憶はなく、故障した身体の痛みを感じながら自覚する。高校生として最後の夏を私はその病院で送ることになった。そのことに特別な執着心があるわけでもなかったが、貴重な時間を失った気がした。
骨折した足に大袈裟に巻かれた包帯。歩く時には松葉杖を使えと言われ
『外したい』
退屈なことには慣れている。待たされることも苦手じゃない。なのに……
『病院から出たい』
大人しくて、静かで、目立たないのが好きだった私
『私は誰?』
理性はあるのに、破壊的な感情が生まれては消え――生まれては消え……
『後遺症?』
被害妄想になりかける。止めようと思えば止めることもでき、捨てようと思えば捨てられる感情。なのに捨てようとはせず。
何が不満だったのかよく分からない。でも、お見舞いに来てくれる友達はみんな輝いて見えた。青春を謳歌し
『置いて行かれる』
そう感じ、涙が出た。
朝食を終え、気分を紛らわすように病室から出た時だった。行く途中、階下から一人の少年が階段の手摺に掴まり、ゆっくりと上がって来るのが見えた。私は黙ってその姿を眺めていた。歳は多分私と同じぐらい。青色のパジャマを着て、髪はブリーチした金髪が伸び、だいぶ根元から黒い髪が伸びてきている。目鼻立ちが整っていて芸能人みたいだ。そこら辺の普通の女の子(?)よりよっぽどかわいい。そんなことばかりを気にして見ていると、彼は既に二階まで到達しようとしていた。
『がんばれ!』
私は心の中で応援した。やがて少年は最後の一段を上り終える。
「……」
私は、ほっとした。
次の日、自然と私の足は “その場所” へと向かっていた……
彼は毎日そこの階段で上り下りの練習を続けていた。私は日課のようにそこを松葉杖で通過する。彼は早く怪我を直したくてあんなにリハビリを頑張っていた。それに対し私は、もうすぐ怪我が直るのに憂鬱だった。早く病院から出たかったはずなのに、包帯が煩わしかったはずなのに
『まだ治らないで』
そう願う自分がいた。
数日後、とうとうそれは宣告された。
「もう退院して大丈夫ですよ」
担当外科医のその言葉に母は歓び、私は落胆した。
「日取りは自分で決めてください」
そう言われたのがせめてもの救いだったが……どう言い訳して日を延ばすか? 私はそのことばかり考えていた。
翌日も私はあの場所へと向かった。松葉杖は一本になり、私は怪我人でありながらこの病院にいることに疎外感を感じるようになる。そしてあの場所へ来ると
――時間が止まった。
そこに彼の姿はなく、次の瞬間零れたのは
「はぁ……」
深い溜め息だった。
『もう退院しちゃったの?』
『私の恋は終わった』
そう思った。その時
「良かったね」
その声に私は振り向いた。
「はは……ありがとう」
すると病室から車椅子に乗ったあの少年が出て来た。彼は笑顔で、横にいるのは母親らしき中年女性と看護師の女性。
『!?』
私は思わず “あ” という口をした。そして両手を口に当て――松葉杖が床に倒れる。
「?」
少年がそれに気付き、こっちを向いた。私はよろめいて床に転ぶ。目には涙が滲んでいた。それは痛かったからではなく、彼に会えて嬉しかったから……
「大丈夫?」
少年は車椅子を漕いで助けに来てくれた。
「……はい」
私はそう答えるだけだった。彼は松葉杖を拾い、渡してくれた。
その日の夜、私は病室から夢遊病者のように出歩いていた。夜の病室にホラー映画のような不気味さはなく、静けさだけが漂う。私はやがて “あの場所” へとやって来るが、そんな時間にもちろん誰もいなかった。 昼間のことを私は後悔する。せっかく彼に会えたのに、せっかく親切にしてもらえたのに “ありがとう” も言えなかった。
せっかく話せるチャンスだったのに……目の前に居たのに
見れなかった。
「!?」
運命とは
どれだけ『残酷』で
どれだけ『親切』なんだろう?
私の少女時代を余分に切り取った挙句、こんな……
「あっ?」
病室から彼が出て来た。車椅子ではなく、松葉杖を使い。
「……あ」
なのに私の口から出たのはそれだけ。何で気の利いた台詞を言ってあげられないんだろう。
「君も高校生なんでしょ?」
彼はそう言い、松葉杖で数歩歩いてから立ち止まった。
「は、はい」
私は堅い返事を返した。嬉しいのに緊張して、うまく笑顔を作れない。すると彼は優しい声で言った。
「オレも高校生なんだ。だから敬語使わなくていいよ」
「そうなん……だ?」
高校生なんだ。一つ情報が手に入った。
「K校なんだ」
「そっか……」
名前は? 私はそのことが気になっていたが
「君はT校でしょ? ごめん、看護師さんに聞いちゃった」
罰の悪そうな顔で彼はそう言った。
「うん……」
私はぶっきらぼうにそう答え――ああ、これで会話が終わってしまう……! と自己嫌悪に陥った。
「あっ、名前言うの忘れてた。オレ、水野 詠伝ていうんだ」
水野……何? と私が疑問の表情を浮かべていると彼は言った。
「“詠伝” てちょっと変わった名前でしょ?」
「うん……」
「うちのおじいちゃんが付けたんだ」
詠伝か――と私は心の中で復唱した。
「へえ……」
そう言えば私の名前を言ってない。私はそれを伝えたかったが
「君は “伊吹さん” だよね? 下の名前は?」
彼は知っていた。
「倫子……」
何で!? 何でこんな格好いい人が……何で私の名前なんか知ってるの!? と私は衝撃を受け、感動までしていたが
「そっか。倫子っていうんだ? 上の名前は “看護師さん” が呼んでるの聞いて、知ってたんだけどね」
彼がそう答え、何だそういうことか……と私は少しがっかりした。でも、まぁ話せたから良かったと思いながら
「じゃあ、またね “倫子ちゃん” 」
と彼は廊下を松葉杖で進んで行った。
“倫子ちゃん”――私はそう言われたのが、嬉しくて嬉しくて仕方が無かった。そして心の中では飛び回っていた。
でもその数日後。私は母の決めた日にあっさりと退院させられてしまった。
天気予報が外れた。恵みの雨は降らず、その日も干からびるような猛暑。私は定期的な検査の為ある大学病院へと向かっていた。幸い事故の後遺症も残らなかったが、数日間意識が無かったこともあり様子を見なければならない。その病院は駅から徒歩で五分ほどの所にあり、歩いてすぐだった。なのに遠く感じる。照り付ける日光の熱をアスファルトが反射して、着く前に倒れてしまいそうだった。
やがて病院の入口前までやって来る。べたつくような汗が服に滲み、髪は首に張り付いて不快で堪らなかった。私はオアシスを求めて病院の中へと進んだ。
『涼しい――!』
ドアが開くと、そこはまさに天国だった。ひんやりとした冷房の空気が心地よく、私の身体を冷してくれる。
私は受付に行き診察券を出すと待ち会い席に座った。横には三才ぐらいの男の子と付添いの母親。前の席には甚平を着た病人らしきおじいさんと中年の女性。他にも何人か人がいた。それから数分が経ち、まだ呼ばれないと思った私は一旦トイレへに行く為席を立った。
戻って来ると一気に人が増え、席はほとんど埋まっていた。
『うわっ……混んで来た!』
毎度のことながら、どうしてこんなに病院に来る人は多いのか? よく分からないけど、この現象には関心してしまう。
診察を終えると支払いの為、もう一度待ち合い席に座った。
『もうすぐお昼だなぁ。お腹空いてきちゃった……』
などと私は考えていた。一人で外食するのは苦手なので途中でパンでも買っていこうかなぁとか。
側に病院の玄関があったが、そこから見える景色は丁度影になっている。どうせ暑いんだろうなと私は大人しく座っていた。周りにいた人のほうが何人か先に名前を呼ばれたが、後は支払いだけなので、特に苛立ちはしなかった。そして、そろそろ呼ばれるかなぁと思ったら隣りにいた男性が呼ばれ――次かな? と待ちわびていると
「水野詠伝さん」
受付の女性の声が響いた。
「!?」
聞き間違いではないかと私は受付に向かう人を見張るように観察する。
『詠伝くん……?』
そこに現れたのは金髪の少年ではなく、黒髪の少年だった。遠いのと他の人がたまに動いて視界を遮るのとで顔がよく見えない。すると
「伊吹倫子さん」
名前を呼ばれてしまった。私は彼のことを気にしながら素早く会計を済ませようと焦った。彼はこっちに向かって歩いて来る。
「780円です」
金額を言われ、私は急いでバッグから財布を取り出した。
「あ……」
すると財布に携帯ストラップが引っかかって下に落ち、慌ててそれを拾おうとしてバッグが傾き中身が散乱した。私は混乱して泣きそうになった。拾うのを手伝ってくれる人もいたが、ほとんどの人は邪魔そうにそれを避けていく。
「これも?」
ミラーを差し出された。
「え?」
私が顔を上げるとそこに
彼がいた。
十月に入り衣替えの季節になると皆長袖を着るようになった。その頃にはもう私の怪我はほとんど直っていた。
今年の夏は良いことと悪いことがいっぺんに起きた気がする。交通事故は私にとって大きな災難だった。でも、そのおかげというかきっかけで彼に出会えた。
病院で松葉杖を落とした時――彼は拾ってくれた。
バッグの中身を落とした時も――彼は拾ってくれた。
私に降り懸かったいろんな災難を彼は幸せに変えてくれた。
それとも
彼と関わりを持つために災難が起きたのか。
そうだとしたら
私の運命は
なんて『親切』なんだろう……
急に海が見たくなった。何故だろう。彼のことを思い出したら見たくなった。彼の名前には不思議な響きがある。
『水野』『詠伝』 『水の』 『楽園』……EDENは旧約聖書で神様がアダムとイブに与えた楽園。彼のおじいさんはそう思って名付けたのだろうか。
私は電車に乗った。あてもなく海を求め。土曜の電車の中は空いていた。私は空いている座席に座り、窓から景色を眺めた。そこに見えたのは家々や木々、レールだった。それがパターン化されたように延々と続く。
私はどこへ行くんだろう……
あてもない旅はそこで終わった。
所詮ただの気まぐれにすぎなかった。どこへ行けばいいのか、自分にもよく分からない。私は空しく引き返すことにした。
私は何をしてるんだろう……
私が行きたい場所はどうすれば辿り着けるんだろう
行きたい場所はどこにあるんだろう
それは本当に海なんだろうか
私は寂しくなった。分かっているのに問いかけてしまう。私が求めている場所は “彼” がいる場所。私にとっての楽園。彼こそが私のEDEN(楽園)だ。
最後に病院で会えたのは奇跡だったのに、私はそのチャンスを無駄にしてしまった。あの時何か行動を起こしていれば、何かが変わっていたかもしれない。
運命を変えたい
EDENはアダムとイブの楽園
私のEDENは 水野詠伝
水野詠伝は 私のEDEN《楽園》
私はそのEDEN《楽園》を探し……
『見付けた』
――接続部のドアが開き、 “彼” が現れた。




