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  作者: 茂上 桔梗
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○小畑希望、0日目

 大通りは避け、不自然じゃないように、しかしできる限り早くアパートへ着くよう走ってきた。

 打ちっ放しのコンクリートが冷たい印象のアパート。その三階までの階段を、駆け上る。

『小畑』と苗字だけが書かれた表札が示す、無愛想な我が家。その鍵をポケットから取り出して、開く。別に文句はない。僕は僕の名前が好きではないのだ。

 地元から離れた大学に入り、一人暮らしをしている。部屋の中に誰もいないことは分かっていた。しかし、僕は部屋に入った後も、着ているウインドブレーカーの袖の中に腕なんて入っていないかのように振舞っていた。玄関の鍵を閉めて、上着の前のチャックを開けて、冷蔵庫の野菜ジュースを一杯飲み、水をがぶ飲みする。いつものように。

 右肘はコップとジュースと右腕と、もう一つ右腕の重さを支えているのを感じていた。

 それでも僕は腕を出さなかった。

 狭い部屋のテーブルを邪魔にならないように立て、ストレッチをする。

 ストレッチをしていると、右腕が上がる度にもう一つの腕が、肩の方へと少しだけずり落ちた。下げれば、袖の方へとずり落ちた。

 それでも僕は腕を出さなかった。

 水色のウインドブレーカーの右肘には赤い染みができていたし、指の数本から垂れたそれは玄関からリビングへの廊下、リビングに気まぐれのように、点々と小さな円を作っていた。

 それでも僕は、腕を出さなかった。

 ようやくそれを出したのは、シャワーを浴びようとした時だ。

 左腕を肩口から抜いて、右袖の、僕の腕ではない腕を取り出した。

 僕はそれまで、女の人の腕をじっくり見たことがなかった。恋人なんて、いたことはなかったから。例え恋人がいたとしても、これ程まじまじと眺めるものなのかも疑問だけれど。

 初めて眺める女性の腕の印象は、

「……細っいなぁ」だった。

 掴んでいた肘部分は、僕の手の親指と中指で一周し、指は枯れた枝のように、簡単に折れそうだった。

 というより、実際に小指が折れていた。

 思ったより腕に血は付いていなかったけれど、その分ジャージの下に着ていた白のトレーナーには、大きな赤い染みができていた。

 半端に服を脱いだままの状態で、かなりの時間その腕を見ていた。見惚れていた。

 肘から手首までの緩やかな曲線が美しい。そして、白い。僕の腕のように無粋な毛は一切生えてはおらず、透き通るような白さだった。それは、溜息も出る。

 馬鹿みたいに口を半開きにしたまま、僕の汗と彼女の血液を、乾いたバスタオルでよく拭いた。

 手首から先、手のひらの小ささよ! 指は細いがその細さにしては長い。手のひらは薄い。「手のひらが薄い」というのは何だかしっくりこないが、彼女を見た後に僕の手のひらを見れば、厚いというのが当たっている。よってやっぱり、薄い、だ。

 なんと儚げなんだろう。陶器の美しさを感じられる人は、この気持ちなのだろうか?

 中学のときに親戚の赤ん坊を抱いたとき、その子が僕の顔に伸ばしてきた可愛い手。初めて愛おしいという感情を抱いた、あの瞬間を、思い出した。何故こんな汚い僕に対し、この生き物はこんなにも無邪気に笑って、僕の顔に触れて来るのだ?

 思春期に入り、普通の少年達と同じように、僕は自分を嫌う時期にいた。しかし他の少年に比べ少しだけ聡明であった僕は、より深く自分を嫌っていた。

 僕が仰ぐように抱いていた、天使のような笑顔の赤ん坊。向き合っていた僕は泣きそうな顔で笑った。この子と、この笑顔を守ってあげたい。久々に、自分の中に純粋に誇れる気持ちを感じられたのだ。興奮していた僕は、

「○○に何があっても、僕が絶対に守ってみせる」などと、恥ずかしいことをその子の親に向かって言っていた。周りにいた両親や親戚は、微笑ましいものを見るように笑っていた気がする。

 守ってあげたい。この、僕の手の中の腕を、この世のあらゆる残酷なことから守ってあげたい。この腕の前の持ち主は、本当に残酷な事故にあった。

 だからこれ以上傷つけられないよう、この腕は、僕が持っておくべきなのだ。



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