リスタート 君は私の王子様
わたしが通っている高校は、わりと男女交際しやすい雰囲気がある。
生徒の自分でいうのもなんだけど、偏差値もそこそこ良くて有名大学への推薦入学も多いので、素行不良で補導される生徒なんてほとんどいない。
表面上は清く正しい男女交際で、みんな節度を保って(もしくはバレないように上手いことやって)いる。
体育祭や文化祭や修学旅行など何かの行事をきっかけに交際が始まる人たちも多いし、日常的に男女が会話をしやすい雰囲気がある。
通学路も「恋人コース」と呼ばれるルートがある。
高校を出て駅に向かう最初の丁字路を左に曲がる道。右に曲がるよりも遠回りになっていて駅に着くまでに時間がかかる。だから、長く一緒にいたい恋人同士や友だちはみんなこぞって左に曲がる。
一年生のうちに彼氏彼女ができなかった子は「変わり者」、二年生になると「天然記念物」、卒業までにできないと「化石」呼ばわりされるという噂を聞いたのは、確か入学してから一週間くらいした頃だった。
わたしの名前は島田椿。二年生で「天然記念物」である。
好きな人は……いる。好きになったばかりの人が。一目惚れだった。
わたしはここ数日、睡眠不足が続いていて、その日は朝から食事も喉を通らなくて、あろうことか路上で倒れてしまったのだ。
倒れた直前のことは何も覚えてなくて、最後の記憶は高校のホームルーム。
気がついたときには……思い出すと今でも胸がドキドキする。
その人の腕の中に……だ、ダメだ、言葉にするのも恥ずかしい。
端的に話をまとめると、男の人が倒れたわたしを見つけて抱き起こしてくれたのだ。
だんだんと意識がはっきりしていくなかで、ぼんやりと視界に入ってきたのは、茶色がかった髪。下ろした前髪が軽く目にかかっていて、その目が心配そうにわたしを見つめていた。誰だろう。とても親切な人。
「は じ め ま し て」
その人がゆっくりと言った。落ち着いていて、とても品のある話し方でまるで王子様みたい。
ヒナが最初に見たモノを親鳥と思う刷り込みのように、わたしは一目で恋に落ちた。
瀬戸高志
と名乗った王子様はわたしの通う高校の制服を着ていた。
とりあえず名前はわかった。そして同じ高校。しまった、学年を聞くのを忘れた! 三年生かな、一年生かな。見覚えないから、同じ二年生ってことはないよね。
校舎内を探し回ればきっと見つかる。そしたら、もう一回ちゃんとお礼を言って、か、か、彼女がいるかどうか、き、き、聞いちゃおうかな!?
翌朝、わたしは校舎内を探し回る必要がないことを知る。だって、王子様はわたしの隣の席に座っていたんだもの!
「なんで? どうして!?」
昨夜、一生懸命考えたお礼の言葉は空の彼方に飛んでいった。
「あ! わたし、教室間違えちゃった!?」
「あってる。ここが、島田さんの、席」
王子様はやっぱりゆったりと品のある喋り方だった。
「でも……あ! もしかして転校生ですか!?」
昨日は学校に視察かなんかで、今日から登校。そして同じクラス。これは、運命に違いないわ!
有頂天のわたしとは正反対に王子様は浮かない顔。
本当は転校したくなかったのに、無理矢理させられた、とか?
しかしそれもわたしの早とちりだったようで、同じクラスの男子生徒たちが、王子様の周りに集まりだした。
仲良さげに肩を叩いたり、肘鉄食らわせたりしている。おのれ、何てことを!
それはさておき、男子生徒とのやり取りの様子からいって、とても昨日今日やってきた転校生には見えなかった。
男子生徒ばかりじゃない。クラスの中でも目を惹く美人の谷本さんが、王子様の名前を呼びながらやってきた。
「リーダー見せて。今日当たりそうなの」
「また? 先週も貸さなかったっけ?」
王子様は通学カバンから英語のノートを出して谷本さんに渡した。
なんだかすごく自然なやり取りだった。それに「また」って前にもあったの?
「ごめん、ごめん、今度奢るから」
「いらない」
谷本さんがお礼を口実に誘おうとしているのは見え見えだった。
しかし王子様はバッサリ切って捨ててくれた……ってあれ? お礼を口実って、まさにわたしが仕掛けようとしていた手ですよ! この手は通じないということか。
さすが王子様だ。何かもっと有効な手を考えねば。
でも転校生かどうかも気になるし。
「ど う し た の?」
まるで物がわからない子どもに言い聞かせるみたいに、王子様がゆっくりと話しかけてくれた。
谷本さんのときには普通のテンポだったのに、この違いは何? なんか腹立つ。そして疎外感。
わたしは昨日初めて王子様に会ったのに、みんなは王子様を知っているみたいだった。
お昼休みに教室で友だち同士とお弁当を食べながら思い切ってきいてみた。
いきなり「知ってる?」ときくのは気が引けるので言葉を選んだ。
「瀬戸くんって……どんな人?」
「おっ!?」
「ようやく?」
「やっとだねえ」
わたし以外のみんなが異口同音に反応した。
誰も「誰?」とは言わなかった。やっぱりみんな以前から王子様を知っているような口ぶり。
念のためにもう一回きいてみる。
「みんな知ってるの?」
「知ってる。知ってる。バレバレだもん」
「同クラで知らない人はもぐりだよ」
「うちら、みんな温かく見守るって姿勢だから」
「微妙に谷本さんが空気読んでないけどね」
「まー、瀬戸も鈍いから問題ないでしょ」
「席替えだってみんなで仕組んでるのに、偶然だと思ってるからねえ」
やっぱり誰も「知らない」とは言わなかった。
何を言っているのかサッパリわからないけど、聞き捨てならないことがあった。
「仕組んでるってどういうこと!?」
「あ!!」
「バカ!」
「まあ、いいじゃん。あのね、みんなで瀬戸とあんたが近くの席になるように裏工作してたのよ」
「ちょっと今回は、やりすぎだったけどね」
「だから隣は露骨すぎるっていったじゃん」
「なんで!? どうやって!?」
「なんでってねえ」
「うちらの口からは言えないわー」
「瀬戸にきいてごらん?」
「むしろ聞くべきだ!」
ニヤニヤ笑うばかりで、きちんと答えてくれない。
「もういい! どうやって仕組んだのか教えて」
「ほとんどみんなグルだもん。簡単でしょ」
「気づいてないのは瀬戸とあんたと谷本さんくらいよ」
みんなの答えはわたしの期待する答えと違っていた、というよりはズレていた。
わたしは裏工作の手段を知りたかったわけじゃない。ほぼ初対面のわたしと王子様がどうして隣り合えたのかを知りたかった。
一つだけわかったのは、みんなは以前から王子様を知っていて、わたしだけが知らないってことだった。
昼食を食べ終わって自分の席に戻ると、王子様も隣の席に戻ってきた。
王子様のお姿を改めて上から下まで眺めた。制服がわたしの着ているものと同じくらいにくたびれていて、以前からここにいたのだど確信を持った。
バッチリと目が合ってしまって慌てて視線をそらす。
「暑いですね」
机から下敷きを出してバタバタ扇いだ。ちょっとわざとらしかったかな。
「そうだね。島田さん、これ飲む?」
そう言って王子様が差し出したのは500ミリリットル入りのお茶のペットボトル。
校舎内の自販機で売っているお茶は二種類ある。甘みが後味に残るものと、渋みが強いもの。
王子様がくれたのはわたしが好きな渋みが強いお茶だった。
王子様すごすぎです! エスパーですか!?
いやいや自惚れてはいけない。王子様がわたしごときの好物などに興味があるわけなかろう。
これは偶然に決まっている。
「大丈夫。まだ 開けて ないから」
「でもこれは瀬戸くんのですよね?」
「俺のも あるから。大丈夫」
「お金、払います」
「大丈夫。俺が 勝手に 買ってきた だけだし」
「でも飲みたかったですし、自分で買ってきたと思えば」
「いいの。ホントに 俺があげたい だけだから。大丈夫」
王子様は奥ゆかしすぎる。これ以上ホレさせてどうする気ですか!?
「大丈夫です! お小遣いもらったばかりですから!」
大丈夫の応酬は、わたしが勝った。
実際、お小遣いは一週間前にもらったばかりだから、まだ結構残っている。
わたしはお財布を開けた。すると中身は予想よりも三千円くらい少なかった。
今月はそんなに使った記憶がないのに、何でだろう。
お札を入れる場所には、お札の代わりに見覚えのないチケットが二枚入っていた。
お財布から取り出さずに何のチケットなのか確認した。チケットは映画の鑑賞券だった。
もらった記憶はないし、買った記憶もない。
それに映画のタイトルを見て驚いた。わたしはこの映画を見ようとしていたの?
しかも二枚って、誰と一緒に見るつもりだったの!?
でもお財布の残額と比較するとわたしが買ってお財布に入れておいたとしか考えられない。
全然覚えていないのに。
……覚えていない!? わたしはやっと気づいた。
もしかして、わたしは忘れてしまったのでは?
王子様は昨日よりももっと前からいて、わたしだけが忘れてしまった。
そう考えると朝から今までのことのつじつまが合う。
でも、そんなことってあるの?
それに昨日、王子様が「はじめまして」と言っていたのは、どういうこと?
「どうしたの?」
王子様に話しかけられて我に返った。
小銭ポケットには、かろうじて五〇〇円玉一枚と、一〇〇円玉が数枚、五〇円玉も一枚残っていたので、そこからお金を払った。
王子様が受け取りながら
「大丈夫?」
と言った。
お財布の中身を心配をしてくれているのかな?
わたしの王子様――瀬戸くんは初めて会ったときから、いつも心配そうな表情ばかりしている。
―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―
わたしはその日の午後の授業をほとんど何も聞いていなかった。ずっと考え事をしていた。
忘れてしまったのなら、思い出せばいいじゃない。
そう思ったけれど、どうすれば思い出せる?
どこかに頭を思いっきりぶつけてみる?
打ちどころが悪かったら思い出すどころか、今覚えていることも忘れてしまいそう。
いわゆる記憶喪失とは違うのだ。
友だちの顔は全員覚えているし、授業のリーダーの課題だってちゃんと家でやったことを覚えている。谷本さんは忘れていたのにね(たぶんワザとだろうけど)。
それなのに、瀬戸くんのことだけをスッポリと忘れている。
どれくらい忘れているかというと、忘れていると思えないくらい。
わたしにとって瀬戸くんは、昨日初めて会った人なのだ。
昨日よりも前のことなんて何一つわからない。忘れているという実感すらない。
これって、忘れられた人にとっては、かなりヒドイ話だと思う。
どうしよう。なんて言えばいいんだろう。
瀬戸くんはどう思っているんだろう。
昨夜は瀬戸くんにどうアプローチしようかウキウキとアレコレ考えていたのに、もうそんな気持ちにはなれなかった。
わたしは思い出さなければならないと思う。
でもどうやって?
ぐるぐる考えていたら、先生が背後に回っていたことにも気づいてなくて、パコンと教科書で頭を叩かれた。
「授業中にボーッとするな」
ごもっともな叱り文句です。
だけどわたしは真剣に悩んでいたの。隣の瀬戸くんが好きなのに、昨日よりも前のことを全然知らなくて、どうしたらいいかわからなくて。
また頭の中でぐるぐる回りだし、目には涙がにじんで零れそうだった。
少しでも身動きしたら泣いてしまいそうで、身体を硬直させた。
先生は咳払いを一つしてから教壇に戻っていった。
わたしは涙がこぼれないように歯を食いしばって目をゴシゴシこすった。爆発しそうな感情を抑えようとして喉も震えていた。
隣の瀬戸くんを見ることはできなかった。
気がついたら放課後になっていた。
「一緒に帰ろう」
隣の席から声が聞こえて、わたしは声の主を見上げた。
帰り支度を済ませた瀬戸くんが立ち上がって、席に座ったままのわたしを見下ろしている。
「同じ 駅 なのだから、一緒に帰ろうよ」
一句々々を区切るようにゆっくりと話かけてきてくれた。
返事を急かすような空気はなかった。
わたしは素直に甘えようと思った。瀬戸くんがまとう、やわらかい空気に触れたかった。
瀬戸くんと二人で学校を出て駅に向かって歩いている。最初の丁字路まであと少し。
わたしは話題を見つけることもできずに黙りこくってしまう。
「身体、大丈夫?」
「え?」
「昨日、倒れていたから、そのあと どうしたかなと心配で」
昨日の出来事の話を振ってくれたので、わたしは気になっていたことを聞いてみようと思った。
「昨日、瀬戸くんは『はじめまして』と言いましたよね」
「敬語 使わなくてもいいよ。だって……」
わたしは瀬戸くんのこぼす言葉をとらえた。
「前のわたしはタメ口だった……?」
瀬戸くんは何も答えなかった。言葉はなくても目が「そうだ」と語っていた。瀬戸くんの優しそうな目が少しキツくなったように見えた。
「ごめんなさい!!」
わたしは謝るしかなかった。
忘れてごめんなさい。
何も思い出せなくてごめんなさい。
何もかも忘れたくせに、一目惚れとかいって浮かれていてごめんなさい。
「え!? あ、あの、あああ、あわわわわわわわわ」
途端に瀬戸くんはドタバタと慌てだした。
あまりの慌てっぷりに、わたしは罪悪感を放り投げて「ぷっ」と吹きだしてしまった。
「どうしたの?」
敬語ではなくタメ口で言ってみた。
「いや、あの、いいんだ、あやまらなくて、全然。むしろ、俺がごめんなさいというか」
「どうして?」
「あ、えと、うーんと、なんて言えばいいのか、言っていいのか……」
なんだかすごく困っているみたい。
「わたしが瀬戸くんを忘れた理由を知っているの?」
自分で言った言葉に自分が打ちのめされた。『瀬戸くんを忘れた』が胸に突き刺さる。
忘れた実感すらないことが、どうしようもなくヒドイと自分で思う。
瀬戸くんの事以外ならば、何も忘れていないのに。
ちょっと待って。忘れていることがもう一つあった。
買った覚えのない映画の鑑賞券が二枚。わたしのお財布に入っている。
わたしの記憶喪失が瀬戸くんに関することに限定されているならば、この券は瀬戸くんと一緒に見に行こうとして買ったんじゃない?
そんなに積極的だったのか、昨日よりも前のわたしは。
ていうか、よりによって、この映画……。一体誰の趣味?
泡食ってオロオロしている瀬戸くん。
瀬戸くんと一緒に行こうと思って券を買ったならば、瀬戸くんの好みに合わせたんだろうなと思う。
わたしは覚えていないけど、これがきっと瀬戸くんの趣味のはず。
とりあえず『忘れた理由』は横に置いた。
「わたしね、映画に誘おうとしていたみたい」
券を瀬戸くんに見せた。
タイトルは『ヒーロー大戦 怪人から地球を守れ』
特撮ヒーローの映画だった。
「ぶっ」
瀬戸くんは吹いた。さっきまでオロオロしていたくせに、笑い出した。ゲラゲラと。それはもう盛大に。
ハズした!? この映画、瀬戸くんの趣味じゃなかったの!?
なんだよ、わたし! 二日前のわたしが恨めしい。何を考えてたんだ、あんぽんたんめ。
瀬戸くんはまだ笑っている。実は笑い上戸だったのかな。それも『初めて』知る事実。
「笑い上戸なのね」
「ううん、こんなに 笑わないよ いつもは。ちょっとね ツボにハマって」
いま区切りながら話しているのは、笑いを堪えるためだと思う。
ハーッと息を吐ききって、大爆笑タイムは終了したみたい。
でも表情からは笑いが消えてなくて、笑顔のまま、わたしに振り向いた。
昨日『初めて』会ったときから心配そうな表情ばかりしていた瀬戸くん。
瀬戸くんの笑顔を見るのは『初めて』だった。
初めてなのに……
見覚えがあった。
下ろした前髪が軽く目にかかっている。穏やかそうな目を細くして、嬉しそうで優しそうな表情。
その表情――瀬戸くんの笑顔を見たことがある。いつどこでかはわからないけど、絶対に見た。
昨日から今まで見なかった表情なのに、見たことがあった。
わたしは『初めて』会ったときよりも前の記憶を確かに拾った。
もう堪えるのは無理だった。両目から涙がぼろぼろこぼれた。「うわーーん」と声を上げて泣いた。
瀬戸くんは再び泡を食う羽目になった。
さっき以上にオロオロして必死でわたしを慰めようとしているのだけど、言葉が転びまくって何を言っているのかよく聞き取れなかった。
何度も繰り返しきいているうちに、『バカにして笑ったんじゃない』『ホッとした』と言いたいのだとわかってきた。
『バカにして……』はフォローなんだろうけど、『ホッとした』は今ひとつ意味がわからなかった。
もしかしたら、わたしは以前、瀬戸くんを心配させるようなことをしていたのかもしれない。
瀬戸くんは、わたしが瀬戸くんを忘れてしまったことを許してくれた。
忘れた理由は結局わからなかった。
思い出すことも無理かもしれない。
瀬戸くんに『初めて』会う前のわたしはリセットされて、新しくスタートをきった。
瀬戸くんが散々笑いのタネにした映画の鑑賞券を見て言った。
「今週末で 公開が 終わっちゃう……ね。
せっかくだから……」
リセットスタートはスタートダッシュで始まる気配がした。
椿が瀬戸を忘れた理由が気になる方は『俺が君のヒーローだ』をどうぞ。
気にならない方は読まずともOKです。
なんか判らないけど忘れちゃったのねってことで。