第9話:「抜け駆け」と「イノベーターの誕生」
黒田哲也が『革新懸賞』制度を布告した王立工房の空気は、一夜にして鉛のように重く、同時に火薬のように危険なものへと変貌していた。
ギルドの親方たちは、公然と黒田を「伝統の破壊者」と罵った。彼らは弟子たちを集め、「ギルドの『秘伝』を余所者に売る裏切り者は、アデニア全土から『破門』する」と、古くから伝わる最も重い罰を宣告し、組織の結束を固めようとした。
『500ゴールド』は確かに魅力的だが、ギルドから『破門』されれば、職人としての一生が終わる。
弟子たちは親方の権威に怯え、若い職人たちも互いに牽制し合い、誰もが「懸賞金リスト」を遠巻きに見るだけ。工房は、昨日までの「意図的なサボタージュ」とは違う、「恐怖による停滞」に陥っていた。
「見たまえ、黒田教授!」
宰相オーレリアスが、苛立たしげに吐き捨てた。
「『成果報酬』にした結果、誰も働かなくなったではないか! これでは人件費は削れても、肝心の『金』が生まれん!」
騎士団長バルガスも、工房の隅で埃をかぶり始めた石炭と白い粘土を見て、失望を隠さない。
「……教授。結局、あんたの『理論』とやらは、人間の『忠誠心』や『誇り』を侮りすぎたのではないか? ギルドの『秩序』を壊しただけだ」
「(……囚人のジレンマ)」
黒田は、その光景を冷徹に『観察』していた。
(親方が『黙秘(非協力)』を強いている。全員がそれに従えば、全員が『ゼロ(報酬なし)』。だが、もし誰か一人が……)
「バルガス団長。オーレリアス宰相」
黒田は、二人に向き直った。
「イノベーションとは、秩序から生まれるものではありません。むしろ、秩序の『外側』……『混沌』から生まれるものです。必要なのは『圧力』ではなく、『安全な実験場』だ」
「サンド……?」
「今しばらく、お待ちを」
黒田はそれだけ言うと、自室(小屋)に戻り、工房の「見取り図」を広げた。
(必ず『抜け駆け』する人間は現れる。だが、彼には『破門』のリスクを上回る『動機』と、親方の目から逃れられる『場所』が必要だ)
黒田は、工房の隅にある「資材置き場」と、警備兵の「巡回ルート」に、静かに印をつけた。
その夜。
工房が静まり返った、月明かりだけの時間。
一つの人影が、資材置き場に忍び込んだ。
男は、痩せた中年の陶工だった。ギルドに所属していない「流れ者」で、今回の『王立工房』設立にあたり、その腕を買われて「日雇い」として雇われた職人だった。
彼には、ギルドの親方のような『既得権益』も『伝統』もなかった。あるのは、日々のパンにも困る「貧困」と、誰にも認められなかった「技術」だけだ。
(懸賞金500ゴールド……!)
彼は『破門』を恐れる必要がない。彼にとってこの『懸賞』は、人生の全てを賭けた「唯一のチャンス」だった。
男は、昨日「ゴミ」と捨てられた『白い泥』の破片を集め、自作の小さな窯に火を入れようとしていた。
(親方たちのやり方は、熱の加え方が『直線的』すぎる。あの泥は、ゆっくりと、湿気を抜きながら……)
「――そこで何をしている?」
冷たい声に、男の心臓が止まりそうになった。
月明かりを背に立っていたのは、黒田哲也だった。
「ひっ……! お、お許しを! 盗みでは……!」
男は、黒田に「裏切り者」としてギルドに突き出されると観念し、その場に崩れ落ちた。
「……君は、陶工ギルドの者ではないな」
黒田は、男が作ろうとしていた「窯」の設計図(地面に描かれた絵)に目を落とした。
(……空気が、二重に循環する構造? 熱効率を上げる工夫か!)
黒田は、現実世界(パラ経)の学生に向ける「苛立ち」ではなく、純粋な「研究者」としての好奇心で尋ねた。
「なぜ、この窯で『白い泥』が焼けると?」
「そ、それは……この泥は、粘りがなく、急な熱に弱い。だから、窯の『下』で一度熱を循環させ、窯全体を『蒸し焼き』のように温めてから、徐々に……」
「(……なるほど! 焼成プロセスにおける『温度勾配』の制御か!)」
黒田は、震える男の肩に、そっと手を置いた。
「名前は?」
「……ヘイデン、と申します」
「ヘイデン。君は『懸賞(弐)』に挑むのだな?」
「は、はい! ですが、ギルドの連中に見つかれば……!」
「わかっている」
黒田は、ニヤリと笑った。それは「学者」ではなく、狡猾な「戦略家」の顔だった。
「バルガス団長!」
黒田が呼ぶと、闇から鎧の騎士が二人、現れた。ヘイデンは今度こそ絶望した。
「この男を『拘束』しろ」
「はっ!」
「……ですが教授」バルガス本人が、怪訝な顔で現れる。「この男は『懸賞』に応じようとしたのでは?」
「ああ、そうだ。だから『拘束』する」
黒田はヘイデンにだけ聞こえる声で言った。
「ヘイデン。君には今から『王命による特別拘束(という名の、隔離保護)』を受けてもらう。この資材置き場を、君専用の『実験室』とする。食事と『白い泥』は私が運び込もう。騎士団が、ギルドの『目』から君を守る」
「え……?」
「これが、君の『安全な実験場』だ」
黒田はバルガスに向き直った。
「団長。これは『イノベーション』の芽だ。ギルド(カルテル)に潰させるわけにはいかない」
バルガスは、まだ納得しきれない顔だったが、レオンハルトの「全権委任」を思い出し、「……承知した」と頷いた。
三日後。
再び、王立工房の広場に全員が集められた。
ギルドの親方たちは、この三日間、黒田が何をしていたのかわからず、不気味な沈黙を守っていた。
「諸君。今日は、最初の『成果』を発表する」
黒田の言葉に、宰相オーレリアスが「ほう?」と身を乗り出す。
黒田の合図で、バルガスの騎士団に「護送」されてきたヘイデンが、震える手で一つの「箱」を運んできた。
箱が開けられる。
「……おお」
レオンハルトが、息を飲んだ。
オーレリアスは、目を見開いた。
そこにあったのは、昨日までの『白いゴミ』ではない。
歪みも割れもない、雪のように白く、薄く、そして硬質な『皿』だった。まだ釉薬はかかっていない「素焼き」だが、それは明らかに、この国では誰も見たことのない『磁器』の原型だった。
「ヘイデン!」
陶工ギルドの親方が、裏切り者を視て激怒した。
「貴様、流れ者の分際で、ギルドの『名誉』を……!」
「黙りなさい」
黒田は、ギルドマスターを冷たく遮った。
「『懸賞(弐):新しい窯の設計』。達成者は、ヘイデン。彼には、約束通り『懸賞金500ゴールド』を支払う」
黒田が合図すると、オーレリアス(金の出所)が、嬉々として金貨の詰まった重い袋をヘイデンに手渡した。
日雇い労働者だった男が、震えながら、ギルドの親方の「年収の数倍」を一瞬で手に入れた。
「(……見たか)」
黒田は、広場にいる『若い職人』たちの目が、一斉に変わるのを『観察』していた。
親方への『恐怖』が、目の前の『金貨』によって、完全に上書きされた瞬間だった。
「ま、待て!」
金貨の音に我に返ったのは、鍛冶師ギルドの、若い弟子の一人だった。
「お、俺も! 俺も知ってるぞ!」
彼は、鍛冶師の親方の制止を振り切り、黒田の前に駆け寄った。
「『懸賞(壱)』の『毒(硫黄)』だ! 親方は、わざと『生乾き』の石炭を使っていた! 『石炭』を一度、密閉した窯で『蒸し焼き』にすれば、あの『毒(硫黄)』は燃え尽きて、純粋な『熱の塊(=コークス)』になるはずだ!」
「ほう……?」
黒田は、その弟子――ティトという名の青年――を見つめた。
(……囚人のジレンマ、決壊)
「ティト! 貴様、破門だ!」鍛冶師の親方が絶叫する。
だが、ティトはもう怯まなかった。
「破門結構! 俺は、この『王立工房』で、500ゴールドと『ロイヤル・マイスター』の称号を手に入れる!」
「素晴らしい!」
宰相オーレリアスが、ヘイデンの『白い皿』とティトの『理論』を見て、もはや欲望を隠さずに叫んだ。
「教授! すぐにやらせろ! 騎士団は何をしている! あの『伝統』とかいう名の『反逆者(親方)』どもを叩き出せ!」
「お待ちを、宰相」
黒田は、狂喜するオーレリアスと、絶望する親方たち、そして熱狂する若い職人たちを見比べ、静かに告げた。
「イノベーションは、始まったばかりです。
――ギルド(知識のカルテル)は、今、死んだ。これより、この工房は『欲望』と『実力』だけが支配する、『本当の市場』となります」




