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戦国編・第五話:「勝利の代償」と真夏の先物取引



1.熱狂の余韻と、経理室の憂鬱

永禄三年(1560年)、六月。

梅雨が明け、尾張の国には容赦のない夏の陽射しが降り注いでいた。

清洲城の城下町は、今川義元を討ち取った「桶狭間の奇跡」の熱狂から、まだ冷めやらぬ状態にあった。

通りでは、昼間から酒を飲む者、大声で武勇伝を語る足軽、そして「勝ったぞ!」と叫んで走り回る子供たちの姿が見られる。

だが、城の奥まった一角にある「勘定所(経理部)」だけは、墓場のような静けさと、焦げ付くような殺気に包まれていた。

「……暑い」

黒田哲也は、額から垂れる汗を袖で拭い、目の前に積み上がった帳簿の山を睨みつけた。

開け放った障子からは、ジリジリという油蝉の声と、蒸し暑い風が入ってくるだけだ。クーラーの効いた現代のオフィスが恋しくてたまらない。

「奉行様、また『首帳くびちょう』が届きました。……追加で三十名分です」

配下の若き文官が、震える手で新たなリストを持ってきた。

黒田はため息をつき、筆を執った。

「勝利というのは、金がかかるな」

桶狭間の戦いは、織田家の完全勝利だった。

だが、経済的に見れば、これは「利益なき勝利」だった。

なぜなら、これは「防衛戦」だったからだ。

敵を追い返しただけで、敵の領土(静岡・今川領)を奪い取ったわけではない。つまり、織田家の資産(土地・米)は一粒も増えていないのだ。

それなのに、兵士たちは命懸けで働いた。

武器は壊れ、鎧は破損し、多くの者が傷つき、あるいは死んだ。

彼らには正当な「報酬」を支払わなければならない。もし払わなければ、織田家への求心力は一瞬で消え失せ、次は誰も戦わなくなるだろう。

「支出、支出、支出……。入金予定はゼロ」

黒田は算盤を弾く。

戦前に情報を買うためにばら撒いた工作資金。

鉄砲や火薬の購入費。

そして今、目の前にある膨大な「論功行賞」の請求書。

織田家の金庫は、空っぽに近い。

だが、城の中庭からは、恩賞を待ちわびる荒くれ者たちの怒号が聞こえてくる。

「おい! まだか! 俺は一番槍だぞ!」

「奉行を出せ! 俺の槍の穂先が折れたんだ、弁償しろ!」

黒田は、ぬるくなった水を一気に飲み干し、覚悟を決めて立ち上がった。

「……行くか。無い袖をどう振るか、これが腕の見せ所だ」

2.猛将たちの圧力

大広間には、今回の戦で手柄を立てた武将たちがずらりと並んでいた。

汗と、血と、錆びた鉄の匂いが充満している。

上座には、上機嫌な織田信長。

彼は膝を立てて座り、扇子をパチパチと鳴らしていた。

「おう、黒田。遅いぞ。

皆、待ちくたびれておる。さあ、景気よく褒美を取らせよ!」

信長は「勝ったのだから金はあるだろう」という、経営者特有のドンブリ勘定で物を言っている。

黒田は、心の中で(このワンマン社長め)と毒づきながら、武将たちの前に進み出た。

筆頭に座っているのは、猛将・柴田勝家だ。

「銭奉行。俺の隊は、敵の先鋒を食い止めた。部下の死傷者も多い。

分かっているな? 知行(土地)の加増か、それに見合う黄金だ」

「それがしは義元の本陣へ切り込みました!」

「俺は敵将の首を取りました!」

彼らの要求は正当だ。

だが、黒田の手元には、彼ら全員を満足させるだけの土地も金もない。

ここで「無い」と言えば、暴動が起きる。最悪、信長への謀反に繋がるかもしれない。

黒田は、静かに口を開いた。

「皆様の働き、見事でした。殿も大いに喜んでおられます。

……ですが、残念ながら、今川の領地は遠く、切り取ることができませんでした。

現在、当家の蔵にある銭をすべて吐き出しても、皆様の功績の『十分の一』にも満たないでしょう」

「なんだと!?」

柴田勝家が床を殴りつけた。

「俺たちに、タダ働きをしろと言うのか! ふざけるな!」

殺気が広間を支配する。刀の鯉口を切る音さえ聞こえる。

信長も、不機嫌そうに眉をひそめた。

「黒田。余の顔に泥を塗る気か?」

「滅相もございません」

黒田は、懐から風呂敷包みを取り出した。

中に入っていたのは、金銀ではない。

大量の「紙」だった。

「皆様にお配りするのは、銭ではありません。

『未来の権利書』 です」

3.美濃の土地を「空売り」する

黒田は、文官たちに命じて、武将一人一人にその紙を配らせた。

上質な和紙には、織田家の朱印が押され、奇妙な文言が書かれていた。

【美濃国・土地優先拝領証】

一、本証を持つ者は、織田家が将来「美濃みの」を攻め取った際、記載された石高分の土地を優先的に拝領できるものとする。

一、本証は、織田家中の者同士であれば、売買・譲渡を自由とする。

「なんだこれは? 美濃だと?」

武将たちがざわめく。

美濃は、隣国・斎藤家の領土だ。豊かで広大な平野だが、難攻不落の稲葉山城に守られている。

黒田は声を張り上げた。

「今、わずかな銭をお渡ししても、酒を飲んで博打をすれば、数日で消えます。

ですが、その証文は違います。

それは、肥沃な美濃の土地、一等地を手に入れるための『引換券』です!」

黒田は続けた。

「我々は必ず美濃を獲ります。

その時、その紙切れは『黄金の稲穂』に化ける。

これは、殿が皆様の武勇を信じているからこそ発行できる、 『勝利への約束手形ストックオプション』 なのです!」

柴田勝家が、紙を睨みつけた。

「……獲れなきゃ、ただの紙切れだろうが」

「その通りです。だからこそ、勝つのです」

黒田は勝家の目を真っ直ぐに見据えた。

「勝家殿。もし現金が必要なら、その紙を他の方に売っても構いません。

『俺は必ず手柄を立てて美濃をもらう』と信じる若者が、喜んで買い取るでしょう」

広間の空気が変わった。

不満の色が消え、代わりにギラギラとした「欲」と「野心」が渦巻き始めた。

「……なるほど。俺がこれを売れば、俺は『織田は美濃に勝てない』と思っている腰抜けだと思われるわけか」

勝家はニヤリと笑い、証文を懐にねじ込んだ。

「上等だ。この紙切れ、大事に持っておいてやる。

その代わり、美濃を獲った時は、一番いい土地を寄越せよ!」

「俺もだ! 美濃は俺が獲る!」

「おい、誰か俺の証文を買わんか! その金で新しい槍を買って、もっと手柄を立ててやる!」

その場で、証文の売買交渉すら始まった。

黒田は、ほっと息をついた。

土地という「現物」がない中で、「期待」を通貨に変える現代金融のテクニック。

「先物取引」 の概念を導入することで、織田軍の不満を「侵略へのエネルギー」へと変換したのだ。

4.夕暮れの城壁にて

広間が解散した後。

夕暮れの風が、少しだけ涼しさを運んできた。

黒田は城壁の一角で、燃えるような夕日を眺めていた。

「……うまいことやったな、銭奉行」

背後から声をかけられた。

猿のような顔をした小男。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)だ。

彼は、自分の分の証文をヒラヒラとさせていた。

「藤吉郎か。君はどうする? その紙、売って金にするか?」

「まさか! 俺は買い集めますよ」

藤吉郎は、目を細めて笑った。

「みんな、まだ半信半疑だ。だから相場は安い。

今のうちに、臆病者どもから安く買い叩いておけば……美濃を落とした時、俺は大領主だ」

黒田は苦笑した。

「君は、相変わらず鼻が利くな」

(この男は、本能的に『レバレッジ(テコの原理)』を理解している……)

「でもよ、黒田様」

藤吉郎は、真剣な顔つきになった。

「これで後戻りはできなくなった。

兵隊たちは、もう『美濃を獲らなきゃ損をする』って目になってる。

これからの戦は、今まで以上に血なまぐさくなるぜ」

「ああ。分かっている」

黒田は、遠く北の方角――美濃の山々を見つめた。

今日、黒田が発行した証文は、織田軍を「飢えた狼」に変えた。

彼らはもはや、主君の命令だから戦うのではない。自分の「資産」を確定させるために、死に物狂いで隣国を侵略しに行くだろう。

それは、経済学者として正しい選択だったのか。

それとも、修羅の道を開いてしまったのか。

「……進むしかないさ。止まれば、破産だ」

黒田は、藤吉郎の肩を叩き、城内へと戻っていった。

どこからか、晩夏のひぐらしがカナカナと鳴いていた。

桶狭間の勝利は、ゴールではなかった。

それは、天下統一という名の、果てしない「拡大再生産」地獄の入り口に過ぎなかったのだ。

(第六話へ続く)




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