戦国編・第一話:「悪貨」と信長の財布
「……はぁ」
黒田哲也は、古びた日本家屋の縁側で、深く長い溜息をついた。
手元には、墨で汚れた大福帳(帳簿)。
見上げれば、現代のビル群ではなく、尾張(愛知県)のどんよりとした空。
「異世界の次は、戦国時代か。
私の魂は、よほど『火の車』の財政を立て直すのが好きらしい」
黒田が転生したのは、尾張の小大名・織田家の末端の勘定方(経理担当)。
時は天文二十年(1551年)。
「尾張の大うつけ」と呼ばれた若き当主、織田信長が家督を継いだばかりの時期だ。
だが、この織田家、現在は危機的状況にあった。
外敵の侵略ではない。
「カネ」がないのだ。
ドカドカドカ!
廊下を乱暴に踏み鳴らす音が近づき、襖が勢いよく開け放たれた。
「おい! 勘定方! どうなっている!」
現れたのは、茶筅髷に派手な着物を着崩した大男。若き日の織田信長だ。
その顔は怒りで真っ赤になっている。
「鉄砲商人どもが、当家の『銭』を受け取らぬとほざきおった!
『織田の銭はクズばかりだ』とな!
銭は銭だろうが! なぜ突き返される!」
黒田は、そろばんを置いて静かに答えた。
「殿。それは 『撰銭』 です」
「えり……ぜに?」
「はい。市場が『良いカネ』と『悪いカネ』を選別しているのです」
黒田は、信長が投げ出した銭袋から、数枚の銅銭を取り出した。
一枚は、文字がくっきりとした「永楽通宝(明から輸入された良質な銭)」。
もう一枚は、文字が潰れ、欠けて黒ずんだ「鐚銭(びたせん・私鋳銭などの粗悪な銭)」。
「殿。商人たちは馬鹿ではありません。
この汚い鐚銭を、綺麗な永楽銭と同じ『一文』として受け取れば、彼らは損をします。
だから『受け取り拒否』をするのです」
「ええい、うるさい!」
信長が畳を蹴った。
「ならば『撰銭令』を出せ!
『領内の銭はすべて等価値だ、選り好みする奴は首を刎ねる』とお触れを出せばよい!」
当時の大名たちは、皆そうしていた。
悪貨を無理やり流通させるための強権発動だ。
だが、黒田は首を横に振った。
「ダメです。それをやれば、織田家の経済は死にます」
「何だと? 余に逆らうか!」
「殿、 『グレシャムの法則』 をご存知ですか?」
黒田は、懐から筆を取り出し、畳の上にさらさらと文字を書いた。
『悪貨は良貨を駆逐する』
「もし、殿が『ボロボロの銭(悪貨)』と『綺麗な銭(良貨)』を無理やり同じ価値だと決めつければ、民はどうするか?
みんな、綺麗な銭をタンスに隠し(貯蓄)、ボロボロの銭だけを支払いに使います」
黒田は続けた。
「結果、市場からは良貨が消え、流通するのはクズ銭ばかりになる。
そうなれば、商人は誰も商品を売らなくなる。鉄砲も、米も買えなくなる。
強権的な撰銭令は、経済を縮小させる愚策です」
信長は、ギロリと黒田を睨んだ。
「……ほう。ただの勘定方にしては、面白い理屈をこねる。
では、どうする? 鉄砲を買わねば、今川義元には勝てんぞ」
「逆転の発想です」
黒田は、二種類の銭を並べた。
「選り好みを禁止するのではなく、 『公定レート(交換比率)』 を定めるのです」
黒田の提案はこうだ。
品質の格付け: 銭を「松(永楽銭)」「竹(少し欠けた銭)」「梅(鐚銭)」の三ランクに分ける。
変動相場制: 「松1枚 = 竹2枚 = 梅4枚」という公式な交換レートを、織田家が保証する。
納税の許可: 鐚銭(梅)での納税も認めるが、あくまで「4枚で1文」として計算する。
「こうすれば、商人は安心して鐚銭を受け取れます。『4枚集めれば、織田家が永楽銭1枚と交換してくれる(あるいは納税できる)』という信用が生まれるからです」
黒田は不敵に笑った。
「殿。市場の『選別』を止めることはできません。
ならば、選別の『ルール』を我々が作り、支配するのです。
これが 『通貨の信用創造』 です」
信長は、腕を組んでしばらく考え込んだ後、ニヤリと笑った。
その目は、狂気ではなく、怜悧な計算高い支配者のものだった。
「……面白い。採用だ。
おい、貴様。名はなんという?」
「黒田哲也と申します」
「よし、黒田。今日から貴様を 『銭奉行』 に任じる。
余の財布を預ける。好きにやってみろ」
「承知いたしました。
(……さて。異世界で『銀行』を作った手腕、この乱世でも通用するか、実験といこうか)」
こうして、現代経済学の知識を持つ男が、戦国最強の革命児・織田信長の「金庫番」となった。
桶狭間の戦いまで、あと数年。
黒田はまず、織田家の「通貨」を武器に変えることから始めた。




