戦国編・第0話:「損して得取れ」と、うつけの買い食い
黒田哲也がこの時代に転生して、一ヶ月が過ぎていた。
場所は、尾張の経済的中心地、津島。 伊勢湾の水運を握るこの港町は、活気に満ち溢れていたが、黒田の境遇は悲惨だった。
「おい! 新入り! ぼーっとするな! 米俵を運べ!」 「はい、ただいま」
黒田の今の身分は、津島の小規模な米問屋「増屋」の手代(てだい・下っ端店員)。 前世で国家予算を動かしていた男が、今は米俵一俵の重さに腰を痛めていた。
だが、黒田が本当に頭を抱えていたのは、腰痛ではなく、この店の「経営状態」だった。
「(……潰れるな、この店は)」 黒田は帳簿を盗み見て確信していた。 「増屋」の倉庫には、去年の凶作を見越して高値で仕入れた「古米」が山積みになっている。 だが、予想に反して今年は豊作。米相場は暴落した。 主人の増兵衛は「相場が戻るまで売らん!」と意地を張り、在庫を抱え込んだまま、日々の資金繰りに窮していた。
いわゆる 「在庫の山による、黒字倒産」 の危機だ。
その日の昼下がり。 店の前に、借金取りの強面たちが現れた。
「おい増兵衛! 期限だぞ! 金を返せ!」 「ま、待ってくだせえ! 倉庫には米があるんです! これが売れれば……!」 「うるせえ! 古米なんぞ二束三文だ! 金がないなら店を差し押さえるぞ!」
怒号が飛び交い、野次馬が集まる。 主人は地面に這いつくばって泣いている。
「(……見ていられないな)」 黒田は、ため息をついた。 このまま店が潰れれば、自分も路頭に迷う。戦国の世で無職は死を意味する。 黒田は、主人を押しのけ、店の前に出た。
「おい、お前! 何をする!」 黒田は主人の制止を聞かず、倉庫から古米の俵を次々と通りに放り出した。 そして、筆で板に大きく書き殴った。
『大売り出し! 一俵、相場の“半値”!』 『ただし、今この場での“現金払い”に限る!』
「なっ……!?」 主人が絶叫する。 「貴様、気でも狂ったか! その値段では仕入れ値以下だ! 大赤字だぞ!」
「うるさい、黙っていろ」 黒田は、現代の経済学者の目で主人を射抜いた。 「旦那。あんたが守っているのは『利益』じゃない。『ゴミ』だ。 今ここで現金を手にしなければ、店は終わる。 『サンクコスト(埋没費用)』 に囚われて死ぬか、身を切って生き延びるか、選べ!」
黒田の迫力に、主人は口をパクパクさせて黙り込んだ。
「半値だと!?」 「おい、安いぞ! 買うなら今だ!」 野次馬たちが殺到する。米は飛ぶように売れていく。 借金取りたちも、目の前で積み上がっていく銭の山を見て、剣を収めた。 「……ほう。金は作れたようだな」
数刻後。 倉庫は空っぽになり、借金は完済された。 だが、主人は床に座り込んで嘆いていた。 「ああ……大損だ……。わしの財産が……」
その一部始終を、店先で饅頭をかじりながら眺めている男がいた。 派手な着物の片袖を脱ぎ、腰には瓢箪。 通りがかりの織田信長である。
「おい、そこの手代」 信長は、饅頭の食べかすを払いながら、黒田に声をかけた。 「貴様、馬鹿なのか?」
黒田は、米の粉を払いながら答えた。 「なぜでしょう?」
「損をしたではないか。 あの米、あと三ヶ月待てば、冬になって少しは値が上がったはずだ。 それを叩き売るとは、商売の才がないな」
信長は、黒田を試すような目で笑った。 普通の商人なら「背に腹は代えられない」と答える場面だ。
だが、黒田は涼しい顔で答えた。
「いいえ。 『機会損失』 を回避したのです」
「きかい……そんしつ?」
「はい。あの米を三ヶ月倉庫に置いておけば、倉庫代がかかる。ネズミに食われる。カビが生えるリスクもある。 何より、その間、現金がないので新しい仕入れができません」
黒田は、空っぽになった倉庫を指差した。 「私は米を捨てて、『現金』と『空きスペース』を買ったのです。 この現金で、今、港で安く売られている『塩』や『油』を仕入れて売れば、三ヶ月後には、米を寝かせておくより遥かに大きな利益が出る」
黒田は、信長の目を真っ直ぐに見返した。 「カネは、血液です。 止まれば死ぬ。多少出血しても、回し続けなければならない。 ――お分かりですか? 傾奇者の旦那」
信長は、ポカンとした後、腹を抱えて大笑いした。
「ガハハハハ! 血液か! なるほど! 米を腐らせて喜ぶより、損をしてでも血を回すか! 面白い! 武士も商人も『溜め込む』ことしか考えぬ奴ばかりだが、貴様は違うな!」
信長は、腰に下げていた砂金袋を、放り投げた。 ドサッ。 重たい音が、主人の前に落ちる。
「その手代、余が買った」
「へ……?」主人が目を丸くする。
信長は、黒田の襟首を掴んで引き寄せた。 「名は?」 「黒田、哲也です」
「面構えが気に入った。 黒田。余の家に来い。 織田家は今、親父(信秀)が死んで金がない。家老どもは『節約しろ』と五月蝿い。 だが、余は『鉄砲』という新しい玩具が欲しいのだ」
信長は、黒田の耳元で凶悪に囁いた。
「余の領地(倉庫)にあるものを、叩き売っても構わん。 その代わり、余に『天下』を買うためのカネを回せ。 ――できるか?」
黒田は、その狂気と合理性が同居した瞳を見て、ニヤリと笑った。 前世の上司とはまた違う、強烈な「オーナー」の気配。
「……いいでしょう。 ただし、私の手数料(コンサル料)は高いですよ?」
「ハッ! 働けば払ってやる!」
こうして、黒田哲也は「うつけ者」に拾われた。 この瞬間、戦国時代の経済史が、大きく音を立てて変わり始めたのである。




