最終話:エピローグ「インフレと幸福の経済学」
黒田哲也の「最後の講義」
そして、王立アデニア大学。
千人収容の大講義室は、通路まで学生で溢れかえっていた。
人間、エルフ、ドワーフ、獣人。あらゆる種族が、ノートやタブレット(魔導石版)を開き、熱心に耳を傾けている。
教壇に立つ黒田哲也は、チョークを置き、学生たちを見回した。
「……さて。今期最後の講義だ」
静寂が支配する。
「君たちは、この講義で『需要と供給』『インフレとデフレ』『ゲーム理論』を学んだ。
これらは強力な武器だ。剣や魔法よりも、遥かに多くの人間を動かし、世界を変える力がある」
黒田は、窓の外の繁栄する街を指差した。
「だが、覚えておいてほしい。
経済学は『万能薬』ではない。
数字は嘘をつかないが、数字が全てを語るわけでもない」
最前列で、聴講生の魔王がニヤリと笑った。
隣では、レオンハルト国王が真剣な眼差しでメモを取っている。
「効率化の果てに、切り捨てられる弱者がいる。
成長の影で、失われる文化がある。
君たちがこれから直面するのは、正解のない『トレードオフ(あちらを立てればこちらが立たず)』の世界だ」
黒田は、胸ポケットから一枚の古い硬貨を取り出した。
それは、彼がこの世界に来て最初に手にした、ボロボロの銅貨だった。
「経済とは何か? 金儲けか? 違う。
経済の語源は、ギリシャ語の『オイコノミア(家の管理)』だ。
つまり、限られた資源の中で、いかにして皆が幸福に暮らせるかを考える……『選択の学問』だ」
黒田の声が、講堂に響き渡る。
「君たちは、何を選ぶ?
利益か、道徳か。競争か、共生か。
その答えを出すのは、教科書でも、私でもない。
……君たち自身だ」
チャイムが鳴り響く。
「以上。解散!」
割れんばかりの拍手が巻き起こった。
スタンディング・オベーションの中、黒田は少し照れくさそうに頭を下げ、教科書を小脇に抱えて教室を後にした。
廊下に出ると、レオンハルトが待っていた。
「お疲れ様でした、学長。……素敵な講義でした」
「いや、説教臭くなってしまったな。歳をとった証拠だ」
黒田は苦笑した。
「この後、どうされますか? 魔王社長が『打ち上げに行こう』と……」
「遠慮しておくよ。あの人のカラオケは鼓膜に悪い」
黒田は眼鏡を外し、ふと遠くを見た。
「……少し、散歩をして帰るよ。
この街の風を、もう少し感じていたいんだ」
夕暮れのアデニア。
魔導列車の警笛と、子供たちの笑い声が聞こえる。
かつて破滅の危機にあった世界は、今、騒がしくも愛おしい「日常」を紡いでいる。
異世界から来た経済学者は、雑踏の中へと消えていった。
その背中は、かつてよりも少し小さく、しかし確かな満足感に包まれていた。
人が生き、悩み、何かを求める限り。
その営みを照らす「灯火」として、彼の教えは続いていく。
(完)




