第五十七話:「エネルギー覇権」と見えざる買収
魔王軍五十万の大侵攻。
地平線を埋め尽くす漆黒の軍勢を前に、アデニア王国の前線基地は、死刑台のような重苦しい空気に包まれていた。
「……無理だ」
バルガス団長が、望遠鏡を下ろして呻く。
「数が違いすぎる。それに、あれを見ろ。奴らの先陣にいる『機甲師団』を」
敵の最前列には、全長五メートルを超える巨人のような鋼鉄の鎧―― 「魔導アーマー」 が、数百体も並んでいた。
矢も通さず、大砲すら弾き返す、魔王軍の技術の結晶。その動力源は、魔王城の地下にある「リアクター」から供給される高純度の魔力エネルギーだ。
「あんな化け物が突っ込んできたら、我々の『塹壕』も『クロスボウ』も、紙屑のように踏み潰されるぞ!」
「落ち着いてください、団長」
黒田哲也は、戦場には不釣り合いなスーツ姿で、携帯端末(魔導通信機)の画面を見つめていた。
「彼らが『動けば』、確かに我々は全滅します。
……ですが、動けるかな?」
「何?」
黒田は、レオンハルト王に振り返った。
「陛下。作戦開始の刻限です。
アデニア銀行の『特定目的会社(SPC)』を通じて、 『買い注文』 を出してください」
「……よし」
レオンハルトは、通信機に向かって短く告げた。
「プラン『ブラックアウト』。実行せよ」
戦場の遥か彼方。大陸中の「魔石鉱山」や「闇市場」。
そこに潜伏していたアデニアのエージェントたちが、一斉に動き出した。
彼らが狙うのは、武器でも食料でもない。
この世界のエネルギー源である、 「魔石の原石」 だ。
「この店の魔石、全部買うぞ!」
「相場の『五倍』だ! 現金(アデニア銀行券)で払う!」
「鉱山の採掘権ごと売ってくれ! 金ならある!」
黒田が「戦時国債」と「輸出」で積み上げた、国家予算十年分にも匹敵する莫大な資金。
それが、たった一つの商品「魔石」に集中投下された。
市場の原理は残酷だ。
需要が爆発すれば、価格は天を突く。
魔石の取引価格は、一時間で二倍、三時間で十倍、半日で五十倍に跳ね上がった。
魔王軍の本陣。
強硬派の総司令官、ガドル大将軍が、進軍の号令をかけようとしていた。
「踏み潰せ! 人間どもに魔族の恐怖を刻み込め!」
だが、魔導アーマー部隊が動かない。
「どうした! 進め!」
「閣下! 動かせません!」
部隊長が悲鳴を上げる。
「『燃料切れ』です! アーマーの魔石タンクが空です!」
「馬鹿な! 補給部隊は何をしている! 予備の魔石を持ってこい!」
そこへ、補給担当の将校が、青ざめた顔で駆け込んできた。
「しょ、将軍! 魔石が……調達できません!」
「何だと!?」
「市場価格が異常高騰しています! 昨日までの予算では、必要量の『百分の一』しか買えません! 商人たちが『アデニアの方が高く買ってくれる』と言って、我々に売ってくれないのです!」
「貴様! 徴発(略奪)してこいと言っただろう!」
「できません! 鉱山も市場も、既に『アデニア系企業』に買収されています! 手を出せば、ガリア帝国を含む国際社会から『民間資産への攻撃』として介入されます!」
ガドル将軍は絶句した。
目の前には、最強の機甲師団がある。操縦士もやる気満々だ。
だが、それを動かすための「ガソリン」だけが、世界中から蒸発してしまったのだ。
アデニア軍の陣地。
動かない敵の巨大兵器を見ながら、黒田は静かにコーヒーを飲んだ。
「エネルギー安全保障。
それが、彼らの致命的な欠陥です」
黒田は、バルガスに講義するように語った。
「魔王軍は、軍事力には投資しましたが、それを動かすエネルギー(ソフトウェア)を『市場』に依存しすぎていた。
私がやったのは、彼らの車のガソリンを、ガソリンスタンドごと買い占めただけです」
「……恐ろしい男だ」
バルガスは、戦慄した。
「金で……敵の足を止めたのか」
「まだです。ここからが『買収(M&A)』の本番です」
黒田は、通信機を切り替えた。
相手は、魔王城の留守を預かる、財務官僚たちだ。
彼らは今、前線からの「燃料を送れ!」という悲鳴と、空っぽの金庫(ハイパーインフレで紙屑になった魔王通貨)の板挟みで、パニックに陥っているはずだ。
黒田は、変声機を使わず、堂々と名乗った。
「こちら、王立アデニア銀行、頭取代理の黒田哲也だ。
――融資の相談に乗りましょうか?」
通信の向こうで、息を飲む音がした。
「条件はシンプルです」
黒田は、羊皮紙に書かれた「契約書」を読み上げた。
「貴国が必要とする『魔石』を、我が行が確保している在庫から『適正価格』でお譲りしましょう。
代金の支払いは、後払いで構いません」
「ほ、本当か!?」敵の官僚が食いつく。
「ええ。ただし……」
黒田は、釣り針を垂らした。
「貴国の通貨(軍票)は信用できません。
よって、融資の『担保』を頂きたい」
「担保? 何を……土地か?」
「いいえ。土地などいりません」
黒田は、冷酷に告げた。
「貴国の地下にある 『魔導リアクター』。
および、それに関連する全ての『エネルギー供給インフラ』。
これらを管理する新会社を設立し、その『株式の51%』 を、アデニア銀行に譲渡していただきたい」
「なっ……!?
リアクターは魔界の心臓だぞ! それを渡せと言うのか!」
「嫌なら構いませんよ」
黒田は冷たく突き放した。
「ですが、その場合、前線の五十万人は、燃料切れで立ち往生したまま、我が軍のクロスボウの『的』になります。
彼らを見殺しにしますか? それとも、プライドを捨てて『インフラの運営権』を渡しますか?」
沈黙。
長い、長い葛藤の時間。
やがて、通信機から、力のない声が返ってきた。
『……契約を、受け入れる』
その瞬間。
魔王軍という巨大な軍事国家は、実質的にアデニア王国の「子会社」となった。
「……決まりました」
黒田は、通信を切ると、大きく息を吐いた。
「レオンハルト陛下。
たった今、我が国は、大陸最大の『エネルギー企業』のオーナーになりました」
黒田は、動かなくなった敵の機甲師団を指差した。
「彼らの兵器は、もう動きません。
なぜなら……その動力源であるリアクターのスイッチを、私が『オフ』にしたからです」
戦場に、静寂が訪れた。
最強の軍団が、一発の銃弾も撃つことなく、ただの「鉄屑」と化した瞬間だった。
「経済とは、血を流さない戦争だと言いましたね」
レオンハルトは、黒田の横顔を見た。
「だが教授。これは戦争以上の『支配』だ」
「ええ。これが 『資本主義』 ですよ」
黒田は、少し寂しげに笑った。
「さあ、最後の仕上げです。
動けなくなった彼らに、また『シチュー』を配りに行きましょうか」
武力による侵略を、資本による買収で無力化した黒田。
だが、彼にはまだ、最後にして最大の仕事が残っていた。
魔王軍の中枢に巣食う「戦争の意思」そのものを、完全に解体することである。




