第五十四話:「聖都」の罠と外交ゲーム
大陸中央に位置する宗教都市国家「サン・シール」。
「中立」と「平和」を掲げるこの聖都は、白亜の聖堂と、鳴り響く鐘の音に包まれた、荘厳な場所だった。
だが、アデニア王国代表団として乗り込んだ黒田哲也の目には、そこは全く別の風景として映っていた。
「(……生産設備が、ない)」
黒田は、迎賓館へ向かう馬車の窓から、美しい街並みを観察していた。
「(工房も、農地もない。あるのは教会と、巡礼者向けの宿、土産物屋だけ。この都市は、外部からの『寄付』と『観光収入』だけで成り立っている『純粋消費都市』だ)」
それはつまり、この街もまた、アデニア初のインフレと物価高騰の波を、まともに食らっていることを意味していた。
「ようこそ、アデニアの賢王よ」
会議場の円卓で待っていたのは、サン・シールの最高指導者、イグニス教皇だった。
柔和な笑みを浮かべているが、その目は笑っていない。
その左右には、ガリア帝国のナポレオン皇帝と、魔王軍の全権大使(Eの代理人)が、既に席に着き、冷ややかな視線を送っていた。
「(完全に『3対1』の包囲陣形ですね)」
黒田は、レオンハルトの横に座り、フィールドノートを開いた。
会議は、イグニス教皇の「説教」から始まった。
「神は言われました。『富は分かち合うべし』と。
しかし、現在のアデニア王国の振る舞いは、いささか『強欲』に過ぎます。
他国の民(労働力)を奪い、独自の通貨で市場を独占し、大陸の『調和』を乱している」
教皇は、一枚の協定書を提示した。
【サン・シール合意案】
通貨規制: アデニア銀行券の発行量を、国際委員会(実質、サン・シールと魔王軍)が管理する。
技術開放: 「アデニア・グラス」および「新型溶鉱炉」の技術特許を、無償で公開する。
人材返還: ガリア帝国および魔王軍からの移民に対し、帰国を促す「出国税」を課す。
「ふざけるな!」
バルガス団長が激昂して立ち上がった。
「これは『合意』ではない! 我が国の主権を奪う『降伏勧告』だ!」
「落ち着け、蛮族よ」
ナポレオン皇帝が、葉巻をくゆらせながら嘲笑した。
「嫌なら断ればいい。ただし、その場合、我々三国はアデニアに対し、国交断絶と『完全な経済封鎖』を行う。
聖都の権威に逆らえば、貴国は『異端』として大陸から孤立するぞ」
魔王軍の大使も、静かに頷く。
「E様も、平和的解決を望んでおられます。この条件を飲めば、アデニアの『安全』は保障されます」
レオンハルトが、拳を握りしめて黒田を見た。
完全に詰んでいる。
「権威(宗教)」「武力(帝国)」「知略(魔王軍)」が手を組んだ、最強のカルテルだ。
もし断れば、アデニアは世界中を敵に回し、輸出経済は死ぬ。
だが、黒田哲也は、静かに笑った。
「(なるほど。『カルテル(談合)』ですか)」
黒田は、ゆっくりと立ち上がった。
「教皇猊下。一つ、訂正させてください」
「なんだね?」
「貴方がたが作ろうとしているのは『調和』ではない。
既得権益を守るための、醜悪な 『参入障壁』 だ」
黒田の言葉に、会議室が凍りついた。
「通貨管理? 技術開放?
聞こえはいいが、要するに『アデニアの成長が怖くて仕方がない』と言っているだけでしょう。
競争で勝てないから、ルールを変えて足を引っ張る。
それを経済学では『敗者の遠吠え』と言います」
「き、貴様……神聖な場で何を!」教皇が顔を赤くする。
「ですが」
黒田は、声を落とした。
「我々も、無用な争いは望みません。そこで、一つ『提案』があります」
黒田は、懐から一枚の書類を取り出した。
それは、彼らが要求した「技術開放」に関するものだった。
「 『アデニア・グラス』の製造ライセンス(独占使用権) を、一国に限り、供与しましょう」
「なっ……?」
黒田は、三人の顔を見渡した。
「無償公開はしません。我が国の職人の利益を損なうからです。
ですが、『パートナー』として手を組む一国には、技術を供与し、我が国の銀行が『工場建設』の資金も融資しましょう。
当然、その国はアデニアと共に、ガラス市場の『利益』を独占できる」
これが、黒田の仕掛けた 「囚人のジレンマ」 の応用だった。
3国が結束してアデニアを潰せば、全員が得をする(かもしれない)。
だが、もし誰か一国がアデニアと手を組めば、その国だけが「莫大な利益(ガラス技術)」を得て、他の二国は出し抜かれる。
黒田は、ナポレオン皇帝を見た。
「皇帝陛下。貴国の財政は、先の遠征失敗と、兵士の大量離脱で火の車のはずだ。
ここでガラス産業を手に入れれば、帝国の経済はV字回復する。
……魔王軍に、その利益を譲りますか?」
ナポレオンの眉が動いた。
喉から手が出るほど、カネが欲しいのは彼だ。
次に、黒田は教皇を見た。
「教皇猊下。この聖都の『修繕費』、高騰していますよね?
我が国のガラスを使えば、大聖堂のステンドグラスを、今の半額で、しかも夜に光る『魔導ガラス』に改修できますよ。
巡礼者がどれほど喜ぶか……『寄付金』も増えるでしょうね」
教皇の喉が、ゴクリと鳴った。
最後に、黒田は魔王軍の大使を見て、冷ややかに笑った。
「もちろん、E殿が手を挙げても構いませんよ。
ですが……貴方がたは『技術』よりも『統制』がお好きだ。イノベーションには興味がないでしょう?」
会議室の空気が、劇的に変わった。
さっきまでの「鉄の結束」が消え、互いを牽制し合う、ドロドロとした「疑心暗鬼」が渦巻き始めた。
「(さあ、誰が裏切る?)」
黒田は、心の中でカウントダウンをした。
カルテルを崩すのに、軍隊はいらない。
「抜け駆けのインセンティブ(餌)」を一つ投げ込めば、欲深い者たちは勝手に自滅する。
沈黙を破ったのは、やはり、最もカネに困っていた男だった。
「……待て」
ナポレオンが、身を乗り出した。
「そのライセンス……我が帝国にくれるなら、アデニアへの『経済封鎖』には反対してやってもいいぞ」
「皇帝!? 正気か!」魔王軍の大使が叫ぶ。
「黙れ! 帝国には帝国の国益があるのだ!」
ナポレオンは、なりふり構わず黒田に詰め寄った。
「条件がある! 『鉄』の関税も撤廃しろ! そうすれば、この『サン・シール合意』は白紙に戻すよう、余が働きかけてやる!」
「成立ですね」
黒田は、即座に握手を求めた。
「猊下、よろしいですね?」
教皇も、最強の軍事国家であるガリア帝国が寝返った以上、強気には出られない。
それに、彼自身も「光るステンドグラス」の魅力には抗えなかった。
「……平和的な解決が、神の御心でしょう。アデニアとガリアの『経済提携』を、聖都は祝福します」
魔王軍の大使だけが、呆然と取り残された。
「馬鹿な……。E様の『包囲網』が、たった一つの『取引』で……!」
黒田は、悔しがる大使の耳元で、静かに囁いた。
「Eに伝えろ。
『外交』とは、正義の話し合いではない。
国益と国益の『取引』だ。
――市場原理を甘く見たのが、お前の敗因だ」
サミットは、アデニアとガリア帝国の「電撃的同盟」という、誰も予想しなかった結末で幕を閉じた。
黒田は、3対1の窮地を、敵の欲望を利用して、1対1(アデニア&ガリア vs 魔王軍)の対等な構図へとひっくり返したのだ。
帰り道。馬車の中で、レオンハルトは感嘆のため息をついた。
「……恐ろしい男だ、教授は。言葉だけで、世界地図を書き換えてしまった」
「書き換えたのではありません」
黒田は、疲れたようにシートに体を沈めた。
「元々あった『ひび割れ』を突いただけです。
さて……これでEは、もう『政治』も『経済』も使えない」
黒田は、東の空を睨んだ。
「次に来るのは、間違いなく『本体』です。
E自身が、その姿を現す時が来る」




