第五十二話:「大退職時代」とシチューの香り
ガリア帝国と魔王軍の連合軍、二十万。
飢えと疲労、そしてアデニア商人の「独占価格」によって財布まで空になった彼らの頭上に、突如として白い雪のようなものが降り注いだ。
「敵襲か!?」
兵士たちが空を見上げる。だが、それは矢でも魔法でもなかった。
アデニア軍の飛竜部隊が撒き散らした、大量の「紙」だった。
「なんだこれは……? 『降伏勧告状』か?」
泥にまみれたガリア兵の一人が、一枚を拾い上げる。
そこに書かれていたのは、威圧的な脅し文句ではなかった。
極めて事務的で、しかし彼らにとって「夢」のような提案だった。
【求人票:アデニア王国 公務員(技術職・一般職)募集】
業務内容: 王都周辺の都市開発、および「大陸横断鉄道(予定)」の敷設工事。
給与: 月給・アデニア銀行券 3,000(ガリア帝国軍の給料の約3倍)。
待遇:
1日3食支給(温かい食事を保証)。
独身寮・家族寮完備。
希望者にはアデニア王国の「永住権」を付与。
応募資格: 不問。現在、武器を持っている方は、その武器を「下取り」し、支度金として支給します。
面接会場: 現在地より前方1キロ、アデニア軍「野戦炊事場」にて随時開催中。
「……は?」
兵士たちは、その紙と、自分たちの惨めな現状を見比べた。
アデニアに行けば、腹一杯食えて、給料が3倍?
しかも、武器を捨てて「降伏」するのではない。「就職」するのだと書いてある。
その時。
風に乗って、強烈な「匂い」が漂ってきた。
枯れ草と泥の匂いではない。
バターで炒めた玉ねぎ、煮込まれた肉、そして芳醇なスパイスの香り。
「特製ビーフシチュー」の香りだ。
「ぐぅ……」
二十万人の胃袋が、一斉に悲鳴を上げた。
理屈ではない。本能が、その「匂いの源(面接会場)」を求めていた。
「行くな! 罠だ!」
ガリア皇帝ナポレオンが、白馬の上で絶叫する。
「誇り高き帝国軍人が、敵の飯になど釣られるな! 進め! 王都を落とせば、そのシチューも貴様らのものだ!」
皇帝の鞭が空を切る。
だが、兵士たちの足は、王都(戦場)ではなく、匂いのする方角(面接会場)へと、ふらふらと向き始めていた。
「皇帝陛下」
その時、アデニア軍の陣地から、魔導拡声器を使った黒田哲也の声が響き渡った。
『罠ではありません。これは正当な『労働市場』の原理です』
黒田は、マイク片手に淡々と告げた。
『あなたの軍隊は、兵士に『名誉』という形の給料しか払っていない。
対して、我が社は、『現金』と『食事』と『未来』を提示している。
労働者が、より良い条件の雇用主を選ぶ。
――これは『裏切り』ではありません。 『転職』 です』
「黙れ商人風情が!」ナポレオンが喚く。「余の兵士は『道具』ではない! 余の『子供』だ!」
『子供に飯も食わせずに、死地へ送る親がいますか?』
黒田の声が冷たく突き刺さる。
『あなたは彼らを『消費』している。私は彼らに『投資』しようとしている。
さあ、諸君! 選ぶのは自由だ!
餓死するか、戦死するか。
それとも、ツルハシを持って、豊かな国を創るか!』
決定的な瞬間だった。
一人の兵士が、槍を地面に突き刺した。
「……やってられるか! 俺は田舎に帰れば農家の三男坊だ! 騎士でもねえ!」
彼は兜を脱ぎ捨て、面接会場へと走り出した。
「おい! 待て!」
「俺も行く! シチューだ!」
「俺も!」
一人が走れば、雪崩は止まらない。
それは「脱走」ではなく、巨大な「退職ラッシュ(グレート・レジグネーション)」だった。
数千、数万の兵士たちが、武器を投げ捨て、履歴書(求人票)を握りしめてアデニア側へと殺到する。
「面接」を担当するバルガス騎士団の兵士たちが、大鍋の前で叫ぶ。
「列を乱すな! シチューは逃げん!」
「剣を持ってる奴はあっちの箱に入れろ! 査定してやる!」
「名前を書け! 今日からお前はアデニア公務員だ!」
かつて殺し合うはずだった敵同士が、湯気の立つシチューを挟んで、契約書を交わしている。
ナポレオンは、呆然と立ち尽くしていた。
彼の周囲に残ったのは、特権階級である近衛兵と、魔王軍の督戦隊だけ。
十五万の大軍は、食事休憩の間に、雲散霧消してしまったのだ。
王城のバルコニーで、レオンハルトはその光景を見て、震えながら笑った。
「……勝ったのか? これで?」
剣を一回も振るわず、血を一滴も流さず、敵軍を「吸収合併(M&A)」してしまった。
「ええ。完全勝利です」
黒田は、コーヒーを飲み干した。
「ですが、これからが大変ですよ。殿下。
二十万人の『失業者』を雇ってしまったのですから」
「カネは持つのか? 国債の利払いもあるのだぞ」
「計算済みです」
黒田は、新しい事業計画書を開いた。
「彼ら二十万人の労働力があれば、予定していた『大陸横断鉄道』の工期を、十年から三年に短縮できます。
鉄道ができれば、物流コストはさらに下がり、GDPは今の三倍になる。
その『増収分』で、彼らの給料も、国債の利子も、十分に払えます」
黒田は、エコノミスト(E)がいるであろう、遥か東の空を見つめた。
「(Eよ。お前は『軍事力』をコストだと考えた。だから『消耗戦』を仕掛けた。
だが、私は『労働力』を資産だと考えた。
この二十万人は、お前にとっては『金食い虫』だったかもしれないが、私にとっては『宝の山』だ)」
戦場に取り残されたナポレオン皇帝は、屈辱にまみれて撤退を決意した。
兵がいなければ、皇帝もただの着飾ったおじさんだ。
魔王軍の督戦隊も、この異常事態(兵士が全員転職した)を前に、為す術なく引き上げていく。
その撤退する馬車の中で、Eのエージェントは、震える手で報告書を書いていた。
『報告。
アデニア攻略作戦、失敗。
黒田哲也は、軍事力、経済力、政治力、その全てにおいて、我々の想定を凌駕した。
彼が用いたのは「魔法」ではない。
人間の「欲望」と「希望」を計算式に組み込んだ、我々の知らない「新しい経済学」だ』
そして、エージェントは、最後にこう書き加えた。
『追伸。
アデニアの「ビーフシチュー」は、悔しいが……魔王城の晩餐よりも美味そうだった』
アデニア王国の「防衛戦争」は終わった。
そして、二十万の労働力を得たこの国は、もはや一地方の小国ではない。
大陸経済の「覇権国家」へと、爆発的な成長を始めようとしていた。




