第5話:「比較優位」という名の社会実験
「狂っている!」
「小麦の代わりにブドウを食えと申すか!」
「餓死させる気か、この机上の空論学者め!」
黒田哲也の「南の土地へのブドウ・オリーブ集中投資」宣言は、アデニア王国の中枢を、「機会費用」講義以上の大混乱に陥れた。
「黙れ!」
騎士団長バルガスが、今にも剣を抜きそうな形相で黒田に詰め寄る。
「学者殿! あんたは『家計簿』の計算は得意らしいが、戦場も、民の『腹』もわかっておらん! パン(小麦)の代わりが、ワイン(ブドウ)になるか! 兵士は酒では戦えんぞ!」
「その通りだ!」農務大臣がバルガスの援護射撃に入る。
「土地の『富』とは、腹を満たす『小麦』のこと! それ以外の作物は『贅沢品』だ! そんなものに『全振り』するなど、国家の自殺行為に等しい!」
宰相オーレリアスは、この非難の嵐を、冷ややかな笑みで傍観していた。
(……これで終わりだな、黒田教授)
オーレリアスにとって、黒田のこの「奇策」は、自滅にしか見えなかった。
彼が潰した「慈善パーティ」は、王妃の「お遊び」に過ぎない。だが、「国家の食糧政策」は、宰相や農務大臣が長年築き上げてきた「既得権益」の城そのもの。
それに、こんな非現実的な理論で手を出せば、どうなるか。
(民の『飢え』は、王妃の『不機嫌』よりも遥かに恐ろしい。勝手に墓穴を掘ってくれたわ)
「――教授」
混乱のさなか、玉座(代理)からレオンハルトの静かな声が響いた。
全員が、若き王代理に注目する。
「バルガス、農務大臣。あなた方の懸念は、もっともだ。私も『腹』は減る。ワインだけでは生きられん」
「「おお!」」
「(やはり、若も目が覚めたか!)」バルガスと農務大臣が勢いづく。
「だが」
レオンハルトは、黒田に向き直った。その目は、昨日までの「学生」の目ではなく、全権を委任された「CEO」の目だった。
「……だが、教授。あなたには『理論』がある。私が『飢える』という『合理的』な懸念に対し、あなたの『S+の知性』は、どう『合理的』な答えを出す?」
(……試されている)
黒田は、レオンハルトの成長の速さに、内心(パラ経の学生とは大違いだ)と感嘆した。
黒田は、騒ぎ立てるバルガスや農務大臣を「存在しないもの」として無視し、レオンハルトにだけ「講義」を始めた。
「レオンハルト殿。彼らの『懸念』は、二つの『勘違い』に基づいています」
「一つ。彼らは『小麦=食料』であり、『ブドウ=贅沢品』だと信じ込んでいる『文化的固定観念』」
「二つ。彼らは『自給自足』と『鎖国(経済封鎖)』を、同じものだと勘違いしている『経済的無知』」
「なんだと!?」
「『文化的』?『経済的』?」
「まず一つ目」
黒田は、懐から「フィールドワーク」で手に入れた「干しブドウ」を一粒、つまみ上げた。(それは、王妃のパーティの残り物だった)
「ブドウは、ワインになるだけではありません。干せば『保存食』になる。オリーブは『油』になる。これは『小麦(炭水化物)』とは違う、『脂質』と『糖質』……どちらも人間が生きていく上で必須の『カロリー源』です。あなた方が『パン!パン!』と叫んでいる間に、兵士たちは『脂質不足』で、体力が持たなくなっているのでは?」
バルガスが「ぐっ」と息をのむ。確かに、兵士たちの食事はパンと薄いスープばかりで、力仕事の割に体力が続かない、と兵站部から報告が上がっていた。
「二つ目」
黒田は、非難の嵐が少し静まったのを見て、本題に入った。
「私が目指すのは『小麦を一切食うな』という『鎖国』ではありません。むしろ逆です」
彼は、地図の「南」を指した。
「この『南』の土地で、無理やり『小麦』を『100』作ろうとして、非効率のせいで『50』しか獲れないのが『今』です」
「この土地の『比較優位(=得意なこと)』である『ブドウ』と『オリーブ』に全振り(集中投資)すれば、『300』の価値を生み出せるかもしれない」
「価値、だと?」宰相オーレIAスが、初めて反応した。
「そうです。その『300』の価値(ワインや油)で、この国の中の……例えば『東』の『小麦』生産に適した土地から、『150』の『小麦』を『買う(国内貿易)』のです」
「!!」
レオンハルトが目を見開いた。
「『50』の小麦を自給する(今の)貧しい生活と、『150』の小麦を『買って』食べられる(未来の)豊かな生活。どちらが『国富』に繋がるか。……これが、経済学者リカードが説いた『比較優位』の『本質』です」
会議室は、静まり返っていた。
黒田の理論は、あまりに「完璧」で、彼らの「常識」を、根底から破壊していた。
「……だが」
最初に沈黙を破ったのは、宰相オーレリアスだった。
「……見事な『机上の空論』だ、教授。だが、もしその『300』の価値とやらが、生まれなかったら? あなたの『実験』が失敗し、南の民が『小麦』も『ブドウ』も失ったら? その『責任』は、誰が取る?」
それは、最もな指摘だった。
黒田の理論は、まだ「仮説」だ。
「……私が、取りましょう」
黒田は、静かに答えた。
「(現実世界では、誰も私に『実践』の場をくれなかった)」
彼は、レオンハルトに向き直った。
「レオンハルト殿。もう一度、お願いします」
「私に、南の『使われていない土地』、いえ……今、最も『非効率な小麦作り』に苦しんでいる『村』を一つ、預けていただきたい」
「私が、彼らの『インセンティブ』を、この手で『デザイン』し直します」
レオンハルトは、数秒間、黒田の目をじっと見つめた。そして、頷いた。
「……わかった。南の『エドム村』。王室直轄領だが、乾いた土地で小麦が育たず、納税も滞り、破綻寸前の村だ。そこを、教授に『一任』する」
「レオンハルト若!?」
「狂気の沙汰だ!」
「ただし」レオンハルトは、バルガスと農務大臣を睨みつけた。
「これは『王命』だ。黒田教授の『社会実験』が、成功するか、失敗するか……その『結果』が出るまで、全員、一切の口出しを禁ずる!」
数日後。黒田は、レオンハルトが用意した(というより、黒田が要求した)『あるもの』を馬車に満載し、南のエドム村にいた。
村は、予想通り「死」んでいた。
痩せた土地。育たない小麦の、青白い穂。
そして、痩せた農民たち。彼らの目は、王都から来た「学者」に、隠しようのない「敵意」と「絶望」を向けていた。
「(……だろうな)」
黒田は、彼らの「インセンティブ」を即座に分析した。
(どうせ、また王都の役人が、新しい『税』か『無理難題』を持ってきたんだろう。彼らにとって、俺は『搾取者』でしかない)
村長が、震える声で黒田を迎えた。
「よ、ようこそ、黒田様……。ですが、ご覧の通り、この村には小麦の『税』としてお納めできるものは、何も……」
「わかっています」
黒田は、バルガスやオーレリアスに見せた『教授』の顔ではなく、オドオドしていた召喚直後のような、物腰柔らかな『学者』の顔で応じた。
「村長。私は今日、皆さんから『奪い』に来たのではありません。『取引』をしに来ました」
「……取引?」
黒田は、馬車から『あるもの』を降ろさせた。
それは、山積みの『小麦』と、『ブドウ』『オリーブ』の若い『苗木』だった。
村人たちが、息をのむ。
「まず、皆さんに『王室』からの『投資』です」
黒田は、パンを村人たちに配り始めた。
「これは、次の収穫までの『食料』。前払いです」
「な、なんの……ために……」
「これが『取引』です」
黒田は、村人たちを集め、新しい『契約』を提示した。
【旧・契約(農務大臣)】
この土地で『小麦』を作れ(強制)。
収穫物の『7割』を、税として納めよ。
(※不作でも7割。結果、村人は自分の食い分すら奪われる)
【新・契約(黒田哲也)】
今すぐ、その育たない『小麦』を全て捨てろ。
代わりに、王室が提供する『ブドウ』と『オリーブ』の苗を植えろ。
収穫までの食料は、王室が『保証』する。
収穫できた『ワイン』と『油』の『3割』だけを、税として納めよ。
村人たちは、ざわめいた。
「小麦を、捨てろ?」
「だが、食料はくれると……」
「7割が、3割に?」
「ブドウと油なんぞ、売れるのか……?」
「売れます」
黒田は断言した。
「私が『王都』で、今までの小麦より『高く』買い取ります」
これは、黒田が仕掛けた「インセンティブ設計」だった。
農民たちの『リスク(飢え)』を王室が引き受け(=食料保証)、『失敗の恐怖』を取り除く。
そして、『頑張れば頑張るほど儲かる(税率7割→3割)』という『明確な動機』を与える。
「……やるしか、ねえだろ」
一人の若い農民が、黒田の『パン』を掴んだ。
「どうせ、小麦作ってたって餓死するんだ。この『学者様』の『賭け』に乗ってやる」
「賭け」ではない。「合理的選択」だ。黒田は心の中で訂正した。
黒田の『社会実験』は、そこからが本番だった。
彼は王都に戻らず、エドム村に「常駐」した。
(京堂大学の研究室より、よっぽど空気がいい)
彼は、単に『ブドウ』と『オリーブ』を植えさせただけではない。
彼は『エスノグラフィー(行動観察)』を続け、この村の『見過ごされていた資源』を、次々と発見していった。
【黒田の『システムデザイン』】
「廃棄物」の価値化:
村には、小麦の『クズ』を食べてかろうじて生きている、痩せた『豚』が数匹いた。
黒田は、ブドウを圧搾して『ワイン』を造った後の『絞りカス(ポマース)』と、オリーブから『油』を搾った後の『絞りカス』に目を付けた。
「(これだ……! 完璧な『飼料』だ!)」
高栄養価の『絞りカス』を食べさせた豚たちは、見る見るうちに太り始めた。
「労働力」の再配分:
『小麦』作りは、重労働で、一年中、村人全員が拘束される。
だが、『ブドウ』や『オリーブ』は、植え付けと収穫期以外は、比較的『手』が空く。
黒田は、その『空いた労働力』で、村人たちに『豚小屋』の増設と、ワインや油を運ぶための『樽』作り(=内職)を指導した。
数ヶ月後。
エドム村は、黒田が来た時とは、まるで違う『活気』に満ちていた。
痩せた小麦畑は消え、整然としたブドウ棚とオリーブ畑が広がっている。
そして、村の広場には、丸々と太った『豚』が数十頭と、『王都』への出荷を待つ『ワイン』と『オリーブオイル』の樽が、山と積まれていた。
「……教授」
視察に訪れたレオンハルトは、その光景に言葉を失った。
「ご覧ください、レオンハルト殿」
黒田は、この『実験』の『結果報告書』をレオンハルトに手渡した。
「この村の『小麦』生産高は、ゼロです」
「だが……」
「この村が生み出した『総生産価値(GNP)』は……ワイン、オリーブオイル、そして『豚肉(=新たな特産品)』を合わせて、昨年の『小麦』生産高の、実に『500%(5倍)』を達成しました」
「ご、500%……!?」
黒田は、この「エドム村モデル」こそが、アデニア王国を救う『プロトタイプ(原型)』であると確信していた。
「さあ、王都に帰りましょう」
黒田は、太った豚の荷馬車(!)と共に、王都へ向かった。
「――あの『亡霊』たちに、これが『机上の空論』か、否か。『現実』を、叩きつけに行きますよ」
宰相オーレリアスの『冷笑』と、バルガスの『怒声』が、黒田の脳裏に浮かんでいた。




