第四十六話:「ポピュリズム」と愚王の帰還
レオンハルト王代理の狙撃事件から数日。
アデニア王国は、黒田哲也の「無制限介入」によって経済崩壊(市場の死)こそ免れたものの、より深刻な病に蝕まれ始めていた。
「政治の空白」である。
王城の執務室。黒田は、レオンハルトが座るはずだった空席の玉座の横に、事務机を持ち込んで仕事をしていた。
彼の目の前には、決済を待つ書類の山。
予算の配分、人事の決定、外交文書への署名。
本来、王族が行うべき「統治行為」の全てを、一介の「顧問」に過ぎない黒田が代行していた。
「(……限界だ)」
黒田は、震える手でハンコを押した。
「(システムは回っている。だが、『正当性』がない)」
街では不穏な噂が流れていた。
『黒田顧問が、王位を狙ってレオンハルト様を見殺しにしたらしい』
『銀行のカネは、全部黒田の懐に入っている』
Eの放った工作員による「流言飛語」だ。だが、不安に駆られた民衆にとって、それは「真実」よりも甘美な「物語」として浸透しつつあった。
独裁者。簒奪者。
黒田を呼ぶ声は、日増しに厳しくなっていた。
そんなある日。
王城の正門が、何者かによって強引に押し開けられた。
「道を開けろ! 正統なる王位継承者のお帰りだ!」
バルガス団長が慌てて駆けつけると、そこには派手な鎧を着込んだ一団と、その中央で馬にまたがる、レオンハルトによく似た、しかしどこか傲慢な顔立ちの男がいた。
「第一皇子……カルロス殿下!?」
かつて「武力こそ全て」と豪語し、筋肉はあるが知性に欠けるとされ、地方の砦へ「武者修行(という名の左遷)」に出されていた第一皇子カルロス。
彼が、レオンハルトの危篤を聞きつけ、自らの私兵団を引き連れて帰還したのだ。
そして、その背後には、あの「累進課税」で黒田に煮え湯を飲まされた大貴族、ガネフ公爵が、卑しい笑みを浮かべて控えていた。
「黒田哲也と言ったな」
玉座の間。カルロス皇子は、我が物顔で玉座に座り、黒田を見下ろした。
「弟が世話になったようだが、もうよい。これからは長男である余が、この国を統治する」
「……殿下」
黒田は、努めて冷静に頭を下げた。
「ご帰還、お慶び申し上げます。ですが、現在は非常時。経済政策の継続性が……」
「黙れ!」
カルロスが一喝した。
「貴様の『経済』とやらは、民を苦しめているそうではないか! 余は街を見てきたぞ。『税金が高い』『物価が上がって苦しい』と、民が泣いていた!」
カルロスは、芝居がかった仕草で立ち上がった。
「余は、弟のように数字遊びは好まん! 民が望むのは『豊かな暮らし』だ!
よって、余はここに 『新・王室令(徳政令)』 を発布する!」
カルロスが読み上げた内容は、黒田の血の気を引かせるのに十分だった。
第一条:国民への「特別給付金」として、銀行の金庫にある「金塊」を全世帯に分配する。
第二条:黒田が定めた「累進課税」を即時廃止し、税率を一律5%に戻す。
第三条:全ての借金の「棒引き」を検討する。
「なっ……!!」
黒田は、耳を疑った。
「殿下! 正気ですか! そんなことをすれば……」
「民は喜ぶ!」カルロスは得意げに言った。
「銀行には、あの『取り付け騒ぎ』の時に見せた、山のような金塊があるのだろう? あれを配れば、皆が金持ちになれる! なぜ配らん! 貴様が独り占めしているからだろう!」
ガネフ公爵が、横から追従する。
「左様ですな。あの金塊は、本来は民のもの。黒田顧問が『外貨準備』などと言って死蔵しているのは、横領も同然ですぞ」
黒田は、激しい眩暈に襲われた。
(……Eだ。この裏に、間違いなくヤツがいる)
これは、経済学的に見れば 「大衆迎合主義」 の極致だ。
外貨準備を取り崩してバラ撒けば、通貨の信用は消滅し、輸入ができなくなる。
減税を行えば、財政は破綻し、福祉(病院や学校)は維持できなくなる。
借金の棒引きなど論外だ。銀行システムそのものが死ぬ。
だが、経済学を知らない「大衆」にとって、それは「最高の政策」に聞こえる。
「金がもらえる」「税金が減る」。
その甘い毒薬を、Eは「愚かな王」というスピーカーを使って、国民に注入したのだ。
「反対か? 黒田」
カルロスは、ニヤリと笑った。
「余の政策に反対するということは、民に『金を配りたくない』と言うことだな?
それとも、余の『王権』に逆らう気か? この……『平民』が」
黒田は、追い詰められた。
もしここで「No」と言えば、彼は「民の敵」となり、そして「王家に弓引く逆賊」として処刑される口実を与えることになる。
バルガス団長が、苦渋の表情で黒田を見た。
彼も分かっている。カルロスの言っていることが「無茶苦茶」だと。だが、騎士団の規律として、「正統な王位継承者」の命令には逆らえない。
「(……詰んだか?)」
黒田の脳裏に、最悪のシナリオがよぎる。
論理が、感情と権威に押し潰される。
その時だった。
玉座の間の扉が開き、一人の女性が静かに入ってきた。
車椅子に乗った、顔色の悪い女性。
だが、その瞳だけは、カルロスを射抜くように強かった。
「……おやめなさい、兄上」
「イザベラ王妃!?」
いや、違う。
それは、病弱ゆえに離宮で療養していたはずの、第三王女 「セシリア」 だった。
レオンハルトの妹であり、王族の中で唯一、黒田の書いた「経済指南書」を全て読破していた「隠れ弟子」でもあった。
「セシリアか。何の用だ」カルロスが不機嫌そうに言う。
「黒田顧問を処罰する前に、一つだけ『計算』を」
セシリアは、細い指でカルロスの「徳政令」を弾いた。
「兄上。金塊を全世帯に配ると仰いましたが……国民一人当たり、いくらになるかご存知ですか?」
「え? そ、それは……山ほどあるのだから、金貨百枚くらいには……」
「いいえ」
セシリアは、冷徹に告げた。
「人口で割れば、一人当たり『金貨二枚』です」
「……は?」
「たった二枚です。
兄上は、その『たった二枚』のために、この国の通貨の信用を全てドブに捨て、明日から海外の品物を買えなくし、ハイパーインフレでパンの値段を『金貨十枚』にするおつもりですか?」
セシリアは、黒田の方を見て、ニコリと笑った。
「ねえ、先生 。私の計算、合っていますか?」
黒田は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(……いた。ここにも、私の『理論』を受け継ぐ者が)
黒田は、深く一礼した。
「満点です、セシリア王女殿下。Aプラスを差し上げましょう」
カルロスが顔を真っ赤にして怒鳴る。
「う、うるさい! 女子供が口を出すな! 金貨二枚でも、民は喜ぶのだ!」
「では、問いましょう」
黒田は反撃に転じた。
「殿下。貴方は『金貨二枚の一時金』と、『未来永劫続くインフレ地獄』。
どちらを民に選ばせるか、 『国民投票』 で決める度胸はおありですか?」
「国民……投票だと?」
「ええ。貴方が『民意』を笠に着るなら、本当の民意を問いましょう。
私は、全土を回って『説明』します。貴方の政策が、いかに国を滅ぼすかを。
貴方も、どうぞ『演説』をしてください。
――勝負しましょう。Eの入れ知恵が勝つか、私の『教育』が勝つか」
黒田は、カルロスと、その背後にいるEに、真っ向から「民主主義」という名の決闘を申し込んだ。
独裁でも、王政でもない。
「知性」と「扇動」がぶつかり合う、最も過酷な政治闘争の幕が開いた。




